第29.5話:ヤクート魂とソルティカザフの事実
極地の『プトラ・セクター』——白夜の太陽が沈まない、歪んだ空の下。 タラップを降りた瞬間、ドーム内気候制御の排熱が混ざり合った蒸せ返るような不快な風が肌を叩いた。
過酷を極める極地の環境。だが、その殺伐とした背景にまるで似つかわしくない3人の美女たちが、俺たちの前に立ち塞がっていた。 ヤクート上流サピエンスの頂点——『スリー・グレイス』。 「……嘘でしょ。あんな綺麗な人がヤクートの幹部なの……? まるで神話の女神じゃない……」 その圧倒的なオーラと美貌に、隣の歩実と思わず息をのむ。 「……ねえ怜くん。男としてちゃんと理性保ててる(笑)?」
「俺は歩実と由奈以外、サピエンス(人間)とすら認識してない」 俺の徹底した塩対応に苦笑しながらも、歩実はキュッと身を固くした。 中央に立つ女性——ヘレナが、完璧に計算された優雅な笑みを浮かべて一歩前へ出る。 「ようこそ、ジパングのサピエンスさん。こんな極地で固い挨拶も野暮でしょ? 私たちの『神殿』でお茶でも淹れさせるわ。あそこに用意させたジパング製の最高級送迎車に乗ってくださる?」 言葉の端々から滲み出るマウント。
俺たちのセクターの最高級車をわざわざ『雑用の足』として差し出してみせることで、技術的・経済的優位を誇示しているのだ。 ヤクートの真の企みを暴くため、俺と歩実は無言のまま重厚な車内へと乗り込んだ。 幾重ものセキュリティを抜けた先、冷たい空気に満ちた神殿地下の最高機密情報室。
着席した俺たちの前で、ヘレナ、そして側近のクララとエルサが名乗りを上げる。 するとヘレナは、悲しげにまつ毛を伏せ、しおらしい声を紡ぎ始めた。 「……ヤクートが沈んだ理由? 海外セクターの愚かなダイアモンド乱掘による地形変動よ。フロート化する地盤も莫大な予算も足りず、北方権力体に捨てられたの。上流層はこのプトラ・セクターへ逃げ延び、下流層は各地へ売り飛ばされるしかなかった……」 胸に手を当て、悲劇のヒロインのように微笑むヘレナ。 「それにね、話題の『ソルティ・カザフ』はただの商品じゃないの。故郷を追われ、傷ついた私たちが『ヤクート魂』を結集させ、世界中で同じように苦しむサピエンスを救うために作った救済の結晶なのよ……!」 その言葉を聞いた瞬間、歩実の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。 「そんな……っ! そんな温かい想いが込められていたなんて……! 私、何も知らなくて……っ!」 涙を拭い、肩を震わせる歩実。
その姿を見下ろすヘレナの口元に、一瞬だけ醜い嘲笑が浮かんだ。 (ふん、ちょろいジパングの小娘ね。感情論ひとつでイチコロだわ) 「ふふ、解かってくれればいいのよ。……あ、そう言えば1つ疑問なんだけど。73Kの『七瀬由奈』は冷徹無比なサピエンスだって聞いてたわ。でもジパングのリサーチ班からは『穂波歩実』っていう無能な一般サピエンスが混ざってるって報告があったのよね。……ガセかしら? あの役立たずども、戻ったら16時間連続の耐熱パネル交換作業員に左遷ね」 俯いて泣きじゃくる歩実の脳内では、真逆の冷ややかな思考が高速回転していた。 (時間稼ぎと足止め、完全成立。——敵の警戒心、ゼロ) 優越感に浸るヘレナは、肘をついてさらに煽りを加速させる。 「そう言えば、あなたたちって本当におめでたい頭をしてるのね。絶対座標だなんだと裏ログをハックして大騒ぎしていたけれど……市販されてるソルティ・カザフのペットボトルやチョコのパッケージ裏、見たことある?」 俺の眉が、ピクリと動く。 「あそこには最初から堂々と『プトラ・セクター』の住所が印刷されているのよ! 初期から答えを教えてあげていたのに、ジパングのサピエンスは『ブランド名』だけで脳死購入するでしょ? 辿り着けるかは別として、あなたたちの解像度なんてその程度なのよ!」 畳みかけるように、ヘレナの視線が俺たちの服へ注がれる。 「……ついでに言うと、あなたたちが今着ている服、どこ製かしら~?」 俺は無言で、自分のジャケットのタグと——源氏名「由奈」として用意されていた衣装のタグを引き抜いた。 そこに刻まれていた刺繍は——【Made in YAKUT】。 「理解できたかしら! これが私たちの侵略方法よ! もう生活の全てにおいてアジャスト(最適化)済み。逃げられると思わないことね」 さらにヘレナは、俺が事前に提出していたエントリスケジュール表を指先で弾いた。 「怜くん、だっけ? あなたがこの計画の司令塔でしょ? ビザの行程表を見た瞬間に笑っちゃったわ。ホテルの南側の部屋を希望した理由……静止衛星と通信して外部からハッキングする気だった?」 俺の呼吸が、わずかに止まる。 「ここは高緯度かつ白夜領域よ? 静止衛星の電波なんて物理的に届くわけないじゃない~! お隣の無能ちゃんはちんぷんかんぷんかしら? 男なら、美しさだけじゃなく知性のあるパートナーを選ばなきゃダメよ?」 「怜くん……いつもの論破は?」 歩実が不安そうに俺を見つめる。 「……全部、正解だ」 俺は歯を食いしばり、悔しそうに拳を握りしめた。
高度なロジックも、衛星通信による遠隔ハッキングも、すべて『物理と地理』という圧倒的現実の前に遮断されたのだ。 「ま、もう1人が揃わないと伝説の『HAYNSR』は完成しないんでしょ? このままだと私たちが一方的にいじめてるみたいで感じ悪いわ~。だからHAYNSRが起動するまで待ってあげる。送迎車も使っていいし、セクターを出るときにはソルティ・カザフの5割引き券をあげるわね」 クスクスと笑いながら、ヘレナは1枚のカードを投げ捨てた。 「あ、それとジパングセクターって『萌え』とかいうオタク文化が盛んなんでしょ? セクター内のカフェエリアを解放してあげるから、おままごとでもして遊びなさいな」 「わぁ、ラッキー! ありがとうございま~す!」 アホのフリをした歩実が、無邪気な笑顔でカードを拾い上げる。
敵の油断を極限まで深めるための演技だ。 「……ヘレナさん、サービスしすぎて足をすくわれるなよ」 俺は捨て台詞を残し、そのカフェエリアへと向かった。
あいつらの目と鼻の先にあるそここそが——由奈が合流するまでの『絶対的な隠れ家』となる。 敵の手のひらの上で踊らされている『哀れな敗北者』を演じながら、アジトで牙を研ぐ俺と歩実。 その時——白夜の空を切り裂き、一機のプライベートジェットが滑走路へ滑り込んできた。 タラップが降り、一人の少女が姿を現す。
敵の予想を、そしてこのセクターの常識を鮮やかに裏切る光景。 降り立った本物の『七瀬由奈(73K)』が身に纏っていたのは——ヤクートの最高級伝統衣装を完璧にアレンジした、【ウフィアハ萌えドレス】だった! 「な……ッ!?」 監視モニター越しにその姿を確認した『スリー・グレイス』の面々が、同時に立ち上がり凍りつく。 「ウフィアハ……!? なんでジパングのサピエンスが、我がヤクート・コアの神聖な衣装を……!?」 自分たちが馬鹿にしていた『萌え文化』と『ヤクートの伝統』を融合させ、完璧以上の美しさで着こなしてみせた本物の由奈。 身代わりの「由奈(歩実)」と、今まさに降り立った本物の「由奈」。 「……七瀬由奈が……二人……!?」 ヘレナの余裕に満ちた笑みが、バリバリと音を立てて砕け散った。 極地の風を孕ませ、ウフィアハの裾を優雅に翻しながらタラップを降りる七瀬由奈。
まっすぐに俺と歩実のもとへ歩み寄ると、その切れ長な瞳に絶対的な戦意を宿した。 「遅くなって悪かったわね。……さあ、ここからが私たち『HAYNSR』の反撃開始よ」 絶望的な完全敗北の演技は終わった。
圧倒的格上を分からせる、真の反撃の火蓋が落とされる——! (第30話へ続く)




