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クビになった派遣の床に落ちたのは、国家を私物化できる13のマスターライセンスでした  作者: Eternity Beat


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第29話:『√5のアジャスト、および時空の不凍港』

「……まるで時が止まったような優雅さだな」


船の最上層デッキから、埠頭を見下ろしていた俺は吐き捨てるように呟いた。


デッドポイントを通過した後の崩壊世界。

海面上昇による極冷の現実と、対温暖化対策としてヤクート最上級サピエンスが建造したとされる『フロート(浮体)都市』の無機質な構造。


その手前に位置するこの『不凍港セクター』の港湾は、なぜかまるで旧時代の富豪サピエンスたちが集うリゾート地のように輝いていた。


「気味が悪いほどの『レガシー空間』だな……。ヤクートAIが時間と空間を操作して、デッドポイント前の過去の風景を物理擬装している証拠だ」


「怜くん、健康質問票の記入、これで大丈夫……?」


俺の背後で、息を潜めていた歩実が声をかけてくる。


その姿は、周囲の豪華なサピエンスたちの中で強烈な異彩を放っていた。

頭には大きな赤のリボン。漆黒のシンプルな古着ワンピースに、隙のない純白のタイツ。


俺が仕込んだ『位相遮蔽(Fresnel Shroud)』の衣装だ。

一見すると可憐でレトロなコスプレスタイルだが、USEDアパレル特有のランダムな洗濯シワと繊維のたるみが、ヤクートAIの光学認識波形を0.8秒スリップさせる物理ノイズとして機能している。


「ああ、問題ない。検疫の提出は終わった。……歩実、手荷物はそのままで行け。この豪華なハリボテの街は、普通の港じゃない」


俺はポケットの中で、自身のスマートフォン画面を密かに提示した。


「スマホの世界時間を見ろ。ジパングセクターと、いま俺たちがいる不凍港セクターとでは、物理的に【時差】が発生している。世界線がリアルタイムで同期できないんだ」


「時差……? それが、どうしたの……?」


「それが今、『七瀬由奈』がこの船にいない理由だ」


俺の目が険しさを増す。


「過去干渉中の由奈にとって、この不凍港の時差は致命的な計算エラー(バグ)になる。リアルタイムの干渉が遮断されるんだ。だから由奈は、ビザ発給と船便の手配に『2週間』のタイムラグをかけ、ジパングセクターと【時差0】で完全同期しているヤクートコアへ直接エントリするしかなかったんだ」


「じゃあ……!」


「ああ。先行して現地に乗り込み、有線ハックと下準備を遂行するのは——源氏名『七瀬由奈』を名乗る歩実の仕事だ。下船するぞ」


タラップの手すりを掴みながら歩実がゆっくりと降りていく。


白タイツの脚が一段ずつ踏みしめられるたび、港に集まっていた野次馬サピエンスどもの視線が一斉に集中した。


『おい、見ろよ……!』

『あの赤いリボン……間違いねぇ、ジパングから来るって噂の……!』

『七瀬由奈だ! 七瀬由奈が来たぞーーッ!!』


ワーッ!! と地鳴りのような歓声と拍手が不凍港の埠頭に響き渡った。

一瞬で数千の群衆に囲まれ、カメラのフラッシュのような発光ノードが無数に交差する。


「えっ……!? な、なにこれ……!?」


あまりの熱狂に気圧された歩実は、思わず後ろにいる俺を前に押し出そうと振り向いた。


「れ、怜くん! なんか凄まじいことになってるんだけど……!?」


「動くな、歩実! 俺の後ろに隠れるな!」


怜が低い声で、歯を食いしばりながら制射する。


「そのままタラップを降りろ! 引きつってもいい、作り笑顔を崩すな! いま、この港の全サピエンスと監視カメラの網膜に『赤いリボンの七瀬由奈が到着した』という事実を焼き付けるんだ! そのままパスポートコントロールまで進め!」


「う、うん……! わ、私だよ〜! みんなありがとう〜……!」


歩実はぎこちない作り笑顔を貼り付け、手を振りながら群衆の渦を通り抜けていく。


厳重な自動パスポートコントロールのゲート。歩実が提示したパスポートの表面名義は『穂波歩実』。

光学AIがシワ加工の衣装に一瞬スリップし、そのまま『照合完了(OK)』のグリーンランプを点灯させた。



厳重な検閲ゲートを潜り抜け、不凍港の市街地へと足を踏み入れた瞬間、歩実は息を飲んだ。


港の煌びやかな風景とは一転し、そこに広がる街並みは、どこか古めかしい時代を思わせる「レガシーな風景」そのものだった。

しかし、建物の土台をよく見れば、海の上に巨大な浮体が敷き詰められた『フロート構造』になっている。


「対温暖化のフロート都市なのに……街並みだけがデッドポイント前の古い過去で固定されてる……。すごく不気味……」


「立ち止まるな。全方位から視線を感じる。タクシーを拾って、ホテルへ急ぐぞ」


俺に促され、「うん!」と頷いて車道へ向かって駆け出そうとした——その瞬間。


「おい歩実! お前どっち向かってんだ!!」


俺が歩実の腕を強引に引っ張り戻した。

歩実の手前数センチを、爆音を上げた大型トラックが猛スピードで走り抜けていく。


「きゃっ……!? な、なに!? タクシー拾うんでしょ!?」


「車道を見る目が逆だ! ここは異国のセクターだぞ! ジパングと違って『右側通行』なんだよ!!」


「えっ……!?」


ハッと息を飲む歩実。

見回せば、道路を走る車列はすべてジパングとは完全に対称の右側車線を走行しており、運転席の配置も逆だった。


「あ……本当だ……自動車の配置がジパングとは逆……!」


「常識のギャップに気を取られるな。感覚を研ぎ澄ませ。……乗るぞ」


俺が左手で流しのタクシーを捕まえ、後部座席のドアを自分で開ける。

指定した目的地は、不凍港セクター内でも随一の設備を誇る外資系の最高級宿泊ホテルだ。


タクシーの車内。流れていく古い街並みを窓越しに見つめながら、歩実はふと俺の顔を覗き込んだ。


「……怜くん? 顔色、すごく悪いよ……? どこか気分でも悪いの……?」


「…………」


俺は何も答えず、固く唇を結んだまま、タクシーのシートに深く沈み込んでいた。



外資系最高級ホテルのスイートルーム。


重厚な木製の重いドアが『カチリ』と音を立てて施錠された瞬間、俺は着ていたジャケットを脱ぎ捨てるように床へ落とし、ベッドの端にガクリと膝をついた。


「ハァ……ハァ……っ」


「怜くん!? やっぱり体調が——」


「歩実。ハッキリ言っておく」


俺は顔を上げた。その瞳には、血走った鋭い光と、絞り出すような焦燥が宿っていた。


「俺たちの負けだ! ——現時点ではな!」


「え……? ま、負け……? どうして……!?」


歩実は目を見開いた。


「だって、港であんなに大歓迎されたんだよ!? みんな私を『七瀬由奈』として受け入れてくれたし、パスポートも通った! それって計画達成率が上がってるってことじゃん! このまま『由奈ちゃん』として行動して、極秘リサーチを進めれば——」


「お前は何もわかってない!」


俺は声を荒らげた。


「あの港での大歓声は『歓迎』なんかじゃない。モブサピエンスの視覚とAI生体カメラを利用した『全方位監視システム』だ! 俺たちが歩くだけで一挙一動がリアルタイムで撮影・記録・解析されている! こんな状態で本物の由奈が着くまでに、まともなリサーチなんかできるわけがないだろ!」


俺は悔しそうに拳でベッドを叩いた。


「それに、このホテルは1泊だけだ。明日にはヤクートコアへ向かうことになる。向こうに行けばさらに大歓迎され、高級料理ともてなしで身動きを封じられている間にビザの期限が切れ、そのまま第3国へ合法的にパージされる……! それがヤクート上流サピエンスのやり方だ! 俺たちは奴らの張り巡らせた罠に、まんまと自分たちから飛び込んだんだよ!」


「そんな……」


歩実はその場に立ち尽くし、フリーズしてしまった。

圧倒的な成功だと思っていた歓声の裏に、完璧な詰みの罠が仕掛けられていた。


「じゃあ……もう、どうしようもないの……? ここで終わり……?」


「……いや。俺はまだ諦ちゃいない」


俺は呼吸を整え、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「タクシーでこの街を走ってるときに気づいたんだ。やたらと『ジパングセクター製の中古車』が多く走ってただろ」


「え……? あ、うん……確かに、ジパングセクターの古いワンボックスとかセダンがいっぱい走ってたけど……」


「それは、ジパングセクターと何かしらの『裏のコネ』があって輸入・販売してる奴らがこのセクターにいるってことだ。そして、俺がバイクを売却した業者が、そのルートに絡んでいる可能性が極めて高い」


歩実の顔に希望が差し込む。


「それって……その業者なら、監視網の抜け道を知ってるかもってこと!?」


「ああ。奴らは違法パケットと物流のプロだ」


俺は以前ジパングで業者から押収・記録した暗号化リストへアクセスし、電話アプリの画面をタップした。


数回の呼び出し音の後、スピーカーからだみ声の合成音声が流れる。


『……どちら様だ。こちらは正規の解体業者だが』


「ジパングセクターの漣怜だ。バイクの件では世話になったな」


『……チッ、あの噂の1陸特か。何の用だ。ここは不凍港だぞ』


「もっと合法的なやり方で泥儲けさせてやる。プライベートジェットを1機用意しろ!」


『……あぁ!? 民間ジェットだと!? 正気か!?』


「後2往復分の金を仮想通貨で払う。さらに2週間後、ジパングから到着するジパングサピエンス(本物の由奈)を、俺たちと同じ目的地まで確実に届けろ」


『……フン、金払いがいいなら悪かねぇ。行き先はどこだ?』


「現時点での目的地は——『ヤクート・コア空港』だ」



翌朝。外資系ホテルの豪華なロビーをチェックアウトした俺たちは、表向きは「VIPとしてのスマートな立ち振る舞い」を崩さず、手配したタクシーに乗り込んだ。

目的地は、不凍港セクター空港。


流れるレガシーな街並みを横目に、俺は前座席の運転手へと視線を向けた。


「……なあ歩実。もう一つ気になっていたことがあるんだ」


「何……? 怜くん」


「このセクターに着いてから、どのサピエンスも『ヤクート魂』とか『ヤクートのプライド』とか、やたらと会話の語尾や看板につけるよな」


「あ……! 私もそれ、ずっと気になってた! なんていうか……今はもう存在していない風な感じで言ってるよね……? まさか……!?」


俺は身を乗り出し、タクシー運転手に話しかけた。


「運転手さん。俺たちこれからヤクートコアに行こうとしてるんだけど」


すると、運転手はミラー越しに呆れたような目を向け、ハッと鼻で笑った。


「お前ら、寝ぼけてんじゃねぇーよ! ヤクートコアは温暖化の影響で海底の中だよ!!」


「「え……!?」」


「フロート化の工事に間に合わなくてパージされた沈没都市だ! 今さらロストアイテムでも探しに行く気かよ、ジパングサピエンスさんよぉ!」


衝撃の事実に、歩実の思考が停止した。


「ヤクートコアが……海底……!? じゃあ……じゃあ、私の持ってる『絶対座標』は……!? 怜くん、どういうこと!? 絶対座標の示す場所に、街なんてないの!?」


「……落ち着け、歩実。やっとアジャストできた」


俺の目が、かつてないほどの確信に満ちて輝き始める。


「その絶対座標の『YAKUT CORE』は、地点の名称(場所)じゃない。民族名称(組織・概念)なんだよ!!」


「民族……名称……!?」


「そうだ! 本物の都市ヤクートコアはとっくに海底に沈んだ。だが、そこから脱出した上流サピエンスどもは自らを『ヤクートサピエンス』と名乗り、別の絶対領域に潜んでいる! 俺たちはそのヤクート上流サピエンスどもに試されているんだ——『ここまでたどり着けるか?』ってな!」


目的地が単なる「地図上の都市」ではなく、「敵の絶対本拠地」であることを理解した瞬間、タクシーは不凍港セクター空港の出発ターミナル前へと滑り込んだ。



空港内、一般旅客の手荷物検査場をスルーし、俺はプライベートジェットのパイロット待機室へと足を踏み入れた。


制服を着たベテランのパイロットが、俺を見て眉をひそめる。


「お前がジパングセクターからのVIPか。ジェット機の準備はできているが……行先はヤクート・コア空港でいいんだな?」


「変更だ!」


俺が鋭く言い放つ。


「目的地は『プトラ・セクター(PUTORA SECTOR)』付近の飛行場だ」


「プトラ・セクターだと……!? あんな極地の高地飛行場にか!?」


「そうだ。さらに条件がある。飛行高度は26,000フィートを維持し、ヤクートコアの上空を通過してからプトラセクターへ向かってくれ」


パイロットは激昂して立ち上がった。


「バカ言え! 高高度(30,000フィート以上)を飛ぶのが民間機の常識だ! なぜわざわざ26,000フィートなんて中高度を飛ぶ!? ヤクートの防空レーダーに拾われやすくなるだろ!」


「逆だ!」


俺は冷静に指を突き立てた。


「理由1。高高度になるとヤクートAIの超広域長距離防空レーダーの正面に捕捉される。あえて26,000フィートの中高度を維持することで、山影と大気屈折によるレーダーの死角(フレネルゾーンの隙間)に入りやすくなる」


「……何……?」


「理由2。本物の由奈が展開している過去干渉パルス波長は『73-47(七瀬-由奈)』——周波数26GHz帯だ。この高度で26GHzの暗号パルスを直上放射すれば、ヤクートコアの上空で干渉波と完璧に共鳴できる」


パイロットは気圧されたように言葉を詰まらせた。


「くっ……狂ってる……! だが、そんな勝手な飛行ルート、航空管制(ATC)に相談しないと我々の一存では決められないぞ!」


「だったら、今すぐ確認してみろ」


俺が強い眼光で詰め寄る。パイロットは舌打ちをし、通信機を取って管制塔へ暗号化ルートで問い合わせを入れた。


緊迫した数分間のやり取りの後、パイロットが驚愕の表情でレシーバーを置いた。


「……信じられん。管制から承認が下りた。特別優先ルートだ。……2時間後に出発できる」


待合室のベンチに戻った俺は、不安そうに待っていた歩実にすべての説明を終えた。


「——そういうことだ。ヤクートコアの絶対座標は、地上からじゃなく、上空を通過することで回収・上書きする」


「上空から……?」


「ああ。ヤクートコア領域の時差はジパングセクターと同一(JST同期)だ。上空を通過した瞬間、俺たちの時系列の同期シンクロが完了する。そして、真のヤクート上流サピエンスどもが潜んでいるのは、海底の旧都市でも不凍港でもない……標高の高い極地『プトラ・セクター』だ」


「よくわからないけど……」


歩実は自分の肩に掛けられた、2026年時点でちょうど13年目(2013年製)を迎える使い古された革のバッグをギュッと抱きしめた。


「ヤクートコアの上空を通れば、わかるんだね……?」


「ああ。お前の持ってる絶対座標が完全に上書きされる。行くぞ!」


荒れ狂う台風2026号の先触れとなる暴風雨が滑走路を叩きつける中、二人はタラップを駆け上がり、プライベートジェットの機内へと乗り込んだ。


エンジンが爆音を上げ、白い機体が雨の滑走路を滑走。力強く漆黒の空へと飛び立っていく。



高度26,000フィート。雲海を突き抜けた漆黒の空。

機体がヤクートコア領域の上空へと差し掛かったその瞬間——。


『機長よりジパングサピエンスたちへ。今、指定座標上空を通過した』


スピーカーからのアナウンスと同時に、歩実の13年目のバッグ、そして俺のコンソール端末の画面が一斉に激しく点滅を起こした。


歩実の13年目のバッグ。

そして第29話(29)の数理計算——29 ÷ 13 = 2.2307...(√5)。


AIの計算予測モデルが処理できない不連続点のノイズが画面を駆け抜け、絶対座標の文字列が恐ろしい速度で自動書き換え(オーバーライト)されていく!


【 NEXT LOCATION: EAST 129°43' / NORTH 62°02' ―― YAKUT CORE 】

↓ [OVERWRITE]

【 NEXT LOCATION: EAST 95°02' / NORTH 69°07' ―― PUTORA SECTOR 】


「アジャストしたぞ……! ヤクート上流サピエンスどもッ!!」


怜が勝利の笑みを浮かべて叫んだ。


画面に浮かび上がったのは、不凍港でも海底でもない、地球の最北に位置する絶対の聖域『プトラ・セクター』の座標。


「上書き……された……! 目的地は、プトラ・セクター……!」


歩実は自分の手を見つめた。


港で『七瀬由奈』として大歓声を浴び、13年目の泥臭いバッグでAIの監視網を欺き、ついに本当の反撃の地へとたどり着いたのだ。



数時間後。プライベートジェットは、極地の『プトラ・セクター』付近の明るい(白夜)飛行場へと滑らかに着陸した。


ハッチが開き、対温暖化インフラの排熱とドーム内気候制御がもたらす極暑の風が機内に吹き込んでくる。


タラップの先端に立った歩実はいまや、頭の赤いリボンを熱風になびかせながら、どこか吹っ切れたような不敵な笑みを浮かべていた。

その瞳には、もはや最初の戸惑いは微塵もない。


「……あとは、本物の由奈ちゃんが到着するまでの『2週間』……時間稼ぎと、最高のステージの基盤作りだね」


「ああ。不凍港で仕込んだ『七瀬由奈』の認知と、この街で撒くノードフィギュア……由奈が来た時、街全体の認識を100%主客反転させてやる」


遠く聳え立つプトラ・セクターの巨塔を見上げながら、二人は足を踏み出した。


サピエンスの泥臭い意志(13K)と、絶対的知性(73K)が交差する大反撃。

二人の『ルート5(√5)』でのアジャストが、ここから始まる——。


(第30話へ続く)

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