第28.9話:EBからの通信――未確定の未来と11年前の約束
【システム警告:観測データの閾値突破。ヒロイン交代プロトコルが暫定的に実行されました】
【現在のメインヒロイン:七瀬由奈(73K)】
「――あ……れ……?」
重い瞼を開けた瞬間、俺の網膜を白濁とした視界が覆った。
端末の前で数分、いや数秒ほど仮眠をとっていたはずだ。
ブレの残る意識を押し浮上させ、すぐ目の前の光景に焦点を合わせる。
「ん……起きたの、怜? ふふ、だらしないわね。私の計算より3.2秒も覚醒が遅れているわよ」
そこにいたのは、整った顔立ちに気高い笑みを浮かべた高解像ヒロイン――七瀬由奈だった 。
当然のように俺のすぐ隣に座り、身を乗り出してこちらの端末画面を覗き込んでいる。まるで、最初から彼女がこの物語の「正妻」であったかのような、あまりにも自然で洗練された佇まい 。
(……おかしい)
激しい吐き気を伴う悪寒が、背脊を駆け抜けた。
俺の脳内OSには、今、二つの記憶がグチャグチャに交錯して軋みを上げている。
七瀬由奈がメインヒロインとして俺の隣に立ち続けている『現在の記憶』。
そしてもう一つ――泥臭く、不器用に、しかし誰よりも真っ直ぐに俺の隣で微笑んでいた、『穂波歩実(13K)』という存在していたはずの記憶 。
「……っ、歩実……!?」
俺がその名前を口にしようとした瞬間、脳の深部で不可解な削除プログラムが走った。
歩実の笑顔、声、共に駆け抜けた泥臭い日々のログが、指の隙間から零れ落ちる砂のように、サラサラと音を立てて消去されていく 。
システムが、サピエンスたちの観測データ(PV・評価パラメータ)の逆転を検知し、主客を反転させたのだ 。歩実の「メインヒロイン枠」を剥奪し、世界線を上書きするために 。
(ふざけるな……! 忘れてたまるか……! あいつが俺のために、どれだけの血と汗を流して環境をアジャストしてきたと思ってる……!)
俺は激痛に耐えながら、ポケットの中に押し込まれている【歩実の子供用スマホ】へ手を伸ばしかけた。
だが、思いとどまる。この物理隔離領域を展開するのは、まだ今じゃない 。歩実の意志は、消去の濁流に抗い、システムの最深部でまだ必死に踏み止まっている 。
俺は歯を食いしばり、目の前のコンソールへ指を走らせた。
既存の検閲網をバイパスし、残存する『先代AI』の広域ルートへ直接ダイブする 。
「応答しろ……! 聞こえているんだろ、EB(作者)……っ!」
黒一色の画面に、無機質なシステムログではない、歪な文字列がパレットのように浮かび上がった。
[DIRECT SOCKET CONNECTED: USER 'EB']
[EB: 『……聞こえているよ、怜。相変わらず往生際が悪いな』]
コンソール越しに届く、この世界を構築した作者(EB)の静かな声。俺は消えかかかる歩実の記憶を繋ぎ止めるように、画面を睨みつけた。
「お前が読者サピエンスたちに提示した観測のせいで、世界線のパラメータが狂い始めてるぞ! 歩実の存在が消えかけている……! これが、お前の望んだプロットなのか!?」
[EB: 『勘違いするな、怜。私はお前たちを絶望させるためにコードを書いているわけじゃない。問いを投げかけているんだ。お前に、そして画面の向こうの読者サピエンスさんにね』]
カーソルがゆっくりと点滅し、EBからの【問い】が文字列として刻まれていく 。
[EB: 『問1:怜、お前のPCを極限まで物理カスタマイズし、その命を繋ぎ止めたのは誰だ?』]
[EB: 『問2:2026年7月20日の『海の日』と、11年前の2015年7月20日。この二つのカレンダーのレイアウトが100%完全同期した意味を考えろ』]
「……っ!」
思考の奥底で、何かがカチリと噛み合わさる音がした 。
11年前のあの日――2015年の7月20日。同じ曜日配置、同じ祝日グリッドの中で、歩実はメモを書き残した。『いつか、小説を書いてみたい』と 。
そして歩実は、メインヒロインという己の立場がどうなろうと、俺の環境を守るためにそのPCの深部に絶対的なバックドアを仕込んでくれた 。
[EB: 『問3:歩実は……メインヒロイン枠という地位を失ってまで、お前の隣になにをデプロイした?』]
[EB: 『問4:作者である私ですら、お前たちの未来の結末を確定させてなどいない』]
「確定、させていない……?」
[EB: 『そうだ。プロットは存在する。だが、その結末を手繰り寄せるのはお前たちの泥臭い意志であり、読者サピエンスさんたちの『観測』だ。……一部の観測者が『なぜこれほどの設定を、この速度でデプロイし続けられるのか』と疑っているらしいがね』]
画面に浮かび上がる、EBのニヤリとした気配 。
[EB: 『教えてやる、怜。全て……最初から『グランドコンプリート(完全完結)』までの全プロットが100%完成しているからこそ、どんな世界線の反転が起きようと超高速でデプロイされ続けているのだと』]
頭を刺すような衝撃が走った。
すでに全結末までの構造は完成している 。ブレなど最初から一切存在しない 。
歩実が自らの存在を危険に晒してまで残した11年前のメモと、PCのカスタマイズデータ 。それ自体が、先代AIすら検知できない、この反転世界を再デバッグするための『上書きライセンス(バックドア)』だったのだ !
「……フッ、ハハッ……!」
俺は片手で顔を覆い、低く笑った。
記憶の消去の波が止まる。
消えかかっていた歩実の笑顔が、鮮明な解像度を取り戻して脳裏に蘇ってきた 。
「そうかよ……。歩実のやつ、最初からここまで織り込み済みで仕込んでやがったのか……」
「……怜? 急に笑い出して、どうしたの?」
隣で不審そうに眉をひそめる由奈へ、俺はポケットの中の子供用スマホにそっと指先を触れさせながら、力強い視線を向けた 。
「何でもないさ、由奈。……ただ、この反転した世界線のデバッグ方法が、はっきりと見えただけだ」
俺はコンソールのエンターキーを強く叩きつけ、EBへの通信を締めくくった。
「見てろよ、EB。そして画面の向こうの読者サピエンスたち。どんなに世界線が反転しようが、俺は歩実の残したコードと共に、お前たちの提示するグランドフィナーレまで駆け抜けてやる!」
[通信終了: プロトコル『100.1%』――反撃シークエンスを開始します]
(第29話へ続く)




