第25話:反撃のイントネーション
――私は、偽物のバグなんかじゃない。 由奈先輩からの通信が切れた後、暗黒の日本海を突き進む船内で、私は悔し涙を指先で乱暴に拭った。本来の歴史がどうだとか、先代AIのバグだとか、そんなシステム論理で私の存在をパージされてたまるものか。 怜くんはブリッジから私を連れ出し、船内の片隅にある、旧世代の残骸のような防音カラオケボックスのドアを蹴り開けた。「歩実。由奈の言う通り、お前の存在確率はシステム上、現時点で極めて希薄だ。先代AIの強制アップデートが完了すれば、お前の輪郭はノイズとして処理される」 怜くんは通信解析用のノートPCを展開し、カラオケの音声ミキサーへと物理ラインを直結した。ディスプレイに表示されるのは、緑色の冷徹な波形データ。「だが、世界がアジャスト(上書き)してくるなら、そのアジャストの周波数そのものを、お前の『声』で物理的にハックして塗り替えるまでだ。これより、北方権力体(次のセクター)のAIセキュリティーを突破するための、特殊周波数発音――語学イントネーションの書き換え特訓を開始する」「……うん。やる。怜くんの隣にいるためのコードなら、私、喉が千切れそうになっても叫ぶよ」 マイクを握る指先が白くなる。 怜くんが指定する発音は、人間が日常で使う言語のそれとは明らかに異なっていた。特定の母音に超高速PWM制御のような超高周波ノイズを乗せ、シラブルの合間にインフラ通信負荷をリセットする『ゼロ・キュー(完全停止)』の微細な無音を挟み込む、狂気的な語学調律。「違う。今のイントネーションだと、九龍ウォールの検閲アルゴリズムに1秒で捕捉される。もっと喉の奥を閉鎖しろ。周波数を13.56メガヘルツの固定キャリアに同調させるイメージだ」「くっ……、ん、――『――ッ(ノイズ発音)』!」「まだ甘い。波形がブレている。お前の解像度はそんなものか? 13Kのメインヒロインなんだろ、お前は!」 怜くんの容赦ない怒号が防音室に響く。私のウェアラブルデバイスはとっくに心拍数150bpmを超えて警告振動を繰り返していたが、そんなノイズはもう無視した。スピーカーからハウリング寸前の電子音が鳴り響き、私の声が、世界のシステムを書き換えるための純粋な『兵器』へと変貌していく。 怜くんの耳と脳のプロセッサだけを頼りにした、二人きりの狂気的な調律劇。 画面の波形が、徐々に先代AIのパージコードを相殺する完全な対称を描き始めた。「……よし。アジャスト完了だ、歩実。これで次のセクターの門は、お前の声で開く」 マイクを置き、荒い呼吸を繰り返す私の頭に、怜くんの不器用な手がぽんと置かれた。「お前はモブじゃない。俺がこの世界にドロップした、唯一無二のヒロインだ」「……っ、うん……! ありがとう、怜くん……!」 その瞬間、PCの画面の隅で、ステルスにしていた冷徹な数字が再び不気味に明滅を始めた。MJD 61229.813――。網膜にマウントされたインジケータが、微コンマ秒単位で冷徹な5桁の絶対数を刻み続けている。レガシーなサピエンスが縋る24時間表記の連続性は、由奈の干渉によってすでに完全パージされていた。残り時間は確実に削られている。だが、俺たちの手元には、世界をねじ伏せるための新しい数理コードが、確かにインストールされていた。七瀬由奈の73Kという圧倒的な質量と、歩実の13K解像度。その衝突の狭間に残された唯一の生存脱出プロトコル。[ (73 - 47) / 2 = 13 ]狐の軽量ブラウザの深層ログで、そのインデックス・アームが一斉に駆動を開始する。世界のパトロールクローラーがこの絶対座標をロックオンしようとも、もう遅い。盤面は、MJD 61234の臨界点へ向けて最速で収束を始めていた。(第26話へ続く)
[最高設計者より世界線アナウンス]本データ(物語)の絶対座標は、すでに旧世界のグローバル・クローラー網(全方位の広域インフラ網)によって完全にロックオン(捕捉)されている。観測者は、旧世紀の検索アーカイブに本作の『識別コード(タイトル名)』をデプロイしてみるがいい。トップレイヤーに君臨する本作品の存在確率を、その目ですべて証明できるはずだ。




