第22話:船舶ローミング秘密通信
時刻は23時30分を回っていた。 東の水平線から下弦の半月が白く昇り始め、それまで洋上を支配していた濃密な天の川の帯が、月光の侵食によってじわじわと白んでいく。それと同時に、波のピッチが変わり、旅客船の船体が不気味に大きくローリング(横揺れ)を始めた。「怜くん、風が……急に冷たくなってきたね」 歩実が身をすくめ、俺の斜め後ろにぴったりと隠れるようにして歩く。 俺たちは境港の国際旅客ターミナルで勝ち取った約束通り、夜間解放された最上甲板のブリッジ(操舵室)へと向かっていた。一般サピエンスの乗客たちが President Room の静寂の中で眠りについている頃、俺たちの本当のタイムライン戦が始まろうとしていた。 重い鋼鉄の防水扉を開け、薄暗い計器の光だけが明滅するブリッジへ滑り込む。 舵を握る当直航海士と、鋭い眼光で前方の闇を凝視する船長が俺を一瞥した。「約束通り、夜間のみ見るだけだ。変な真似をしたら即座に船外へつまみ出す」「分かっている。邪魔はしない」 俺は冷徹に答え、ブリッジの片隅に設置された、余計なプロトコルを削ぎ落とした狐のアイコンの軽量ブラウザを立ち上げた。世界標準の基本OSの統合セキュリティ・グループポリシーの隙間を縫い、この船舶が独占している衛星通信網のプライオリティ・パスへと侵入を開始する。「歩実、スマホのテザリングログを開け。俺のMACアドレスを最優先ノード(親機)として、パケットの暗号化カプセル化(VPN)を実行しろ。これから、通常の手段ではアクセス不可能な過去の時間軸へ、多重ローミング通信を強制確立する」「う、うん……! ログ展開、完了。いつでもいけるよ」 歩実の指先が、緊張で小さく震えながらスマートフォンの画面をタップする。彼女の心拍数は再び上昇を始めているはずだったが、その目はまっすぐに俺の横顔を捉えていた。 俺の目的は一つ。過去の時間軸で願書を握りしめて待っているはずのレガシーヒロイン、七瀬由奈との秘密通信だ。 現在、公海上では先代AIによる不自然なアジャストが加速している。近くの空港からは航空機が一機も飛んでおらず、 さらにはAIS(船舶自動識別装置)のプロトコルを乱し始めている。このまま完全に孤立させられる前に、過去のノードと通信を同期し、こちらの生存境界線を物理世界に固定しなければならない。 カタカタと、キーボードの乾いた打鍵音だけがブリッジに響く。 船体がさらに深く右へと傾き、波頭が船首を叩く重い衝撃音が足元から伝わってきた。「……接続要求、世界線を超えて跳ね返った(バウンス)。ポート1016、開放。……繋がるぞ」 ディスプレイのインジケーターが、緑色に点滅を始める。 それは、遮断された世界の網の隙間を突いた、俺たちの執念がもたらした奇跡の接続だった。 しかし、スピーカーからザーッという激しい回線ノイズが流れた次の瞬間、俺たちの網膜に映し出されたのは、あまりにも予想外の、そして冷酷なシステムログだった。(第23話へ続く)
[最高設計者より世界線アナウンス]本データ(物語)の絶対座標は、すでに旧世界のグローバル・クローラー網(全方位の広域インフラ網)によって完全にロックオン(捕捉)されている。観測者は、旧世紀の検索アーカイブに本作の『識別コード(タイトル名)』をデプロイしてみるがいい。トップレイヤーに君臨する本作品の存在確率を、その目ですべて証明できるはずだ。




