第21話 悪役聖女と謎の紋章
レンブラント侯爵家の一件から数日。私の頭の中は、あの呪われた絵画の隅に描かれていた、一つの紋章のことで占められていた。
記憶を頼りに、羊皮紙にその紋様を書き出す。円の中に、絡み合う二匹の蛇、そして中央には、歪んだ天秤が描かれている。精緻で、どこか古代の様式を思わせる、不気味な紋章。
これは、ただの装飾ではない。ゲームのシナリオにはなかった、この世界の「裏」で動いている何者かの存在を示す、明確なサインだ。
私は、その日から夜ごと、クレスメント公爵家の広大な書庫に忍び込み、紋章学に関する書物を片っ端から調べ始めた。しかし、何千、何万とある貴族や騎士団の紋章の中に、該当するものは見つからない。
一人での調査には、限界がある。意を決して、信頼できる協力者たちに助けを求めることにした。
「……リディア様。これは、一体?」
お茶会と称してクレスメント邸に呼び出したクロードが、私の部屋で、紋章を書き写した羊皮紙を覗き込み、眉をひそめた。隣では、ライナーも腕を組んで、難しい顔をしている。
「先日の一件で、気になることがありまして。この紋章に、見覚えはありませんこと?」
私の問いに、二人は顔を見合わせた。
「いえ、見たことがありません」と、クロードが首を横に振る。「ですが、この様式……どこか、古代魔法に関わる図案に似ています。我がアンスバッハ家の古文書館ならば、何か手がかりが見つかるかもしれません。調べてみましょう」
「紋章なんざ、俺にはさっぱり分からねえ」
一方のライナーは、そう言って頭を掻いた。
「だが、こういう怪しげな印は、王都の裏社会で出回ってることもある。そっちの筋から、探りを入れてみるぜ」
知のアプローチと、武のアプローチ。対照的な二人だが、その瞳には、私を助けたいという真摯な意志が宿っていた。
「ありがとう存じます。お二人を、頼りにしていますわ」
孤独だった悪役聖女に、今は、共に戦ってくれる仲間がいる。その事実に、私は柄にもなく、胸が温かくなるのを感じた。
数日後、私も独自に情報を集めようと、侍女だけを連れて王都の市街地に出ていた。
大通りが賑わう広場で、人だかりができている。その中心にいたのは、やはり、というべきか、もう一人の聖女、ヒロインだった。
彼女は、孤児院の子供たちにお菓子を配り、一人一人に優しく微笑みかけている。その姿は、まさに慈愛の聖女そのもの。人々は彼女を称賛し、その徳を讃えている。
(……相変わらず、外面は完璧ね)
私が内心で毒づいた、その時だった。
子供たちとの交流を終えたヒロインが、人ごみから離れると、すっと表情を消し、周囲を窺うようにして歩き出した。そして、まるで誰かから逃れるように、大通りから一本外れた、薄暗い裏路地へと姿を消したのだ。
(……怪しい)
私の直感が、警鐘を鳴らす。侍女に「少し、一人になりたいの」と告げてその場に残すと、足音を忍ばせ、彼女の後を追った。
入り組んだ路地を抜けた先。ヒロインが足を止めたのは、一軒の、古びた骨董品店の前だった。埃をかぶったショーウィンドウ、錆びついた看板。お世辞にも、流行っている店には見えない。
聖女様が、このような場所に、一体何の用があるというのか。
私が、店の看板に描かれた屋号に目を向けた、その瞬間。全身の血が凍った。
看板の隅に、小さく、しかしはっきりと、あの紋章が描かれていたのだ。円の中に、絡み合う二匹の蛇。そして、中央に歪んだ天秤。
間違いない。レンブラント侯爵の絵にあったものと、寸分違わぬ紋章。ヒロインが、店の扉に手をかけ、ぎい、と軋む音を立てて中へ入っていく。
繋がった。ヒロインと、「謎の紋章」が。
彼女が、ただの天然聖女ではないことは分かっていた。だが、この国の呪いを巡る陰謀に、これほど深く関わっているとは。
『聖域の天秤』の物語の裏で、一体何が動いているというの? 本来のヒロインである彼女の、本当の目的とは、一体……。
私は、店の向かいにある建物の影に身を潜め、息を殺した。大きな謎の、その核心に触れてしまったという予感。危険な領域に、もう、足を踏み入れてしまったのだという、確かな緊張感が、背筋を駆け上っていた。




