第20話 悪役聖女と涙の跡
「《追憶浄化》!」
私が紡いだのは、鎮魂の呪文。杖から放たれた「真実の思い出」の光が、攻撃的な熱ではなく、日だまりのような温かさで、歪みきったアトリエの全てを包み込んでいく。
『いや……いやよっ! 消えたくない!』
絵の中の幻影が苦しげに叫ぶ。光に焼かれる痛みではない。自らの存在が、その偽りの虚飾が、真実の光によって溶かされていくことに、恐怖しているのだ。
『私は、完璧で、美しいまま、あの人と永遠に……!』
だが、その絶叫も、次第に力を失っていく。
温かい光は、彼女を罰するのではなく、ただ優しく、その歪んだ執着を解きほぐしていく。怒りに満ちていた幻影の表情が、悲しみへ、そして、何かを思い出したかのような、穏やかな微笑みへと変わっていった。
『……ああ、そうだったわ。あの人は、いつもこう言っていた』
幻影の声から、禍々しさが消え、澄んだ響きだけが残る。
『私のこの、幸せそうな笑顔が、一番好きだと……』
その言葉を最後に、幻影は、満足したかのようにそっと目を閉じた。彼女の身体は、きらきらと輝く光の粒子となり、穏やかに消えていく。
それと同時に、禍々しいオーラを放っていた巨大な肖像画から、どろりとした色彩が抜け落ちていった。後に残されたのは、一枚の、木炭で描かれた素朴なスケッチ。あの日だまりの中で笑う、ありのままの彼女の絵。
ダンジョンが、浄化された。ぐらり、と世界が揺らぎ、私の意識は、急速に現実へと引き戻されていった。
はっと我に返ると、目の前には、先ほどと同じアトリエの光景があった。
ただ一つ、違うのは、イーゼルにかけられた絵画。あの毒々しい色彩の肖像画は消え、一枚の素朴なスケッチに変わっていた。
「……ああ……」
隣で固唾を飲んで見守っていたマーカス侯爵が、その絵を見て、呆然と声を漏らした。
やがて、その表情は、何かを思い出したように、懐かしさと、どうしようもないほどの愛情に満ちたものに変わる。
「そうだ……私は、この笑顔が見たかったのだ。完璧な絵など、初めから必要なかったというのに……」
侯爵は、よろよろと絵に近づくと、その絵の前に崩れるように膝をついた。その皺の刻まれた頬を、静かに涙が伝っていく。長年、彼を縛り付けていた呪いと執着から、ようやく解放された瞬間だった。
その姿を静かに見守り、私は今回の仕事が終わったことを確認する。隣に立つクロードとライナーも、安堵のため息をついていた。
ふと、私は、そのスケッチの隅に、何か小さな印が描かれていることに気がついた。
(……? これは……紋章?)
それは、まるで制作者のサインのようにも見える精緻な紋様だった。ゲームでは、こんなものはなかったはずだ。侯爵自身が描いたはずのスケッチに、なぜ、こんなものが?
この絵に呪いをかけたのは、一体誰なのか。侯爵の執着心を利用し、呪いを増幅させた「黒幕」がいるのではないか?
ゲームにはなかった「巨大な陰謀」。その最初の欠片を、私はこの時、確かに目にしたのだった。
侯爵邸を後にして、私は報告のため、一人で王宮へと向かった。
謹慎中の王太子の部屋を訪れると、彼は相変わらず不機嫌そうな顔で私を迎える。
「レンブラント侯爵家の一件、無事、解決いたしました」
私がそう簡潔に報告すると、王太子は「……そうか」と短く答えただけだった。
だが、彼の机の上には、私が前回置いていった資料が広げられ、そこには彼の筆跡で、びっしりと何かが書き込まれている。彼なりに、次の計画について、調べていたらしい。
わずかな変化。私はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「では、これで失礼いたします」
私が部屋を出ようと背を向けた、その時。
「……おい」
背後から、不意に声がかかった。振り返ると、王太子は、気まずそうに私から視線を逸らしている。
「……次も、手配が必要なら、言え」
ぶっきらぼうな、命令口調。だが、それは紛れもなく、彼が初めて、自らの意志で「補佐」の役目を果たそうとした言葉だった。
(……え、今の何? もしかして、デレた……? いや、まさかね)
内心の驚きを完璧に隠し、私は、悪役聖女にふさわしい、優雅な笑みを浮かべてみせた。
「ええ。よろしく頼みますわね、殿下」
最悪から始まったこの関係に、ほんのわずかな、しかし確かな変化の兆しが見えたことに、私の胃の痛みは、少しだけ和らいだ気がした。




