第19話 悪役聖女と真実の肖像
「無駄よ、無駄! ここは私の世界! 私の美術館!」
絵の中の幻影が、甲高い声で嘲笑う。
その声に応えるように、アトリエの空間がさらに歪み、色とりどりの絵の具が津波となって私に襲いかかってきた。私は、杖で聖なる障壁を展開し、どうにかその濁流を防ぐ。
だが、これはいたちごっこだ。《聖光撃》を放っても、攻撃は絵画の表面で弾かれるか、歪んだ空間に吸収されてしまう。物理的な攻撃も、浄化の魔法も、この「執着」そのものである呪いの核には届かない。
(このままでは、ジリ貧どころか、この悪夢のような色彩に飲み込まれてしまう……!)
攻撃を避けながら、私は必死に思考を巡らせた。この呪いの本質は、レンブラント侯爵の「亡き妻を完璧な形で留めたい」という執着。そして、それを糧に生まれた幻影の「彼を独占したい」という欲望。だとしたら、これを打ち破るのは、純粋な力じゃないはずだ。
ゲームの記憶の断片が、脳裏をよぎる。そうだ。このボスには、特別な攻略法があった。武力ではなく、侯爵の「本当の思い出」をぶつけなければ、この幻影は倒せない。
でも、どうやって? 私は侯爵本人ではない。彼の心の中にある、本当の思い出を知る術はない。
……いや。一つだけ、方法があるかもしれない。
このダンジョンそのものが、侯爵の思い出の写し身なのだ。ならば、答えも、この中にあるはず。
(あの、無数の歪んだ肖像画……!)
私は、意を決した。ボスがいるこのアトリエから、一度脱出する。そして、もう一度、あの長い廊下に戻るのだ。
「逃がさないわ!」
私の意図を察したのか、幻影が追撃の絵筆を放ってくる。私はそれを紙一重でかわし、アトリエの扉へと向かって全力で走った。
再び、静寂に包まれた画廊の廊下。しかし、先ほどとは景色が違って見えた。
これまでは、それぞれの絵の「歪み」ばかりに注目していた。だが、今度は違う。探すべきは、歪みの中にある、ほんのわずかな「真実」。
私は、一枚一枚の絵を、食い入るように見つめていく。嘲笑うような口元の絵。だが、その瞳の奥には、確かな愛情の色が残っている。
生気のない色彩の絵。だが、その夫に触れる手の仕草だけは、温かみに満ちている。
多くの偽りの中に隠された、断片的な真実。侯爵の執着ですら、完全には塗りつぶせなかった、妻への純粋な愛情の証。
そして、ついに私は、廊下の片隅にかけられた、一枚の小さな絵の前で足を止めた。
それは、これまで見てきた豪華な肖像画とは似ても似つかない、木炭で描かれた、たった一枚のスケッチだった。額縁にすら入っていない、みすぼらしい絵。だが、その絵だけは、一切の歪みがなかった。
描かれていたのは、完璧な美貌の貴婦人ではない。少し髪が乱れ、目尻には笑い皺が寄っている、ありのままの女性の姿。日だまりの中で、心の底から幸せそうに笑っている、素顔の彼女。
侯爵が、誰に見せるためでもなく、ただ、愛しいという気持ちだけで描き留めた「本当の思い出」。
これだ。これこそが、この虚飾の画廊を浄化する、唯一の鍵。
「真実の肖像」……! そのスケッチにそっと指で触れる。
次の瞬間、絵から、温かく、そして懐かしい光が溢れ出した。私は、その光を逃さぬよう、杖の先端へと集めていく。
光を宿した杖を手に、私は再び、ボスがいるアトリエへと戻った。
アトリエでは、幻影が怒り狂い、空間をさらに禍々しく歪ませて私を待ち構えていた。
『よくも私から逃げたわね! もうどこにも行かせない!』
私は、その絶叫を意にも介さず、杖を静かに構えた。
「あなたは、侯爵様が愛した奥様ではないわ」
私の言葉に、幻影の動きが、ぴたりと止まる。
「あなたは、彼の執着と後悔が生み出した、哀れな幻。……だから、もうお眠りなさい。侯爵様の、本当の思い出と共に」
私は、浄化のための呪文を紡いだ。それは、攻撃のための言葉ではない。思い出を、あるべき場所へと還すための、鎮魂の言葉。
「《追憶浄化》!」
杖から放たれたのは、暴力的な破壊の光ではなかった。日だまりのように温かく、穏やかで、しかし、何よりも強い「真実の思い出」の光。
その光が、巨大な肖像画を、そして、歪みきったアトリエの全てを、優しく包み込んでいった。




