第18話 悪役聖女と虚飾の画廊
絵画に意識を引きずり込まれる、という未知の感覚。
視界が暗転し、次に目を開けた時、私は、見覚えのない場所に立っていた。
そこは、どこまでも続いているかのような、長い長い美術館の廊下だった。磨き上げられた床、等間隔に並ぶ燭台。そして、その壁一面に、無数の肖像画が飾られている。
描かれているのは、全て同じ女性。レンブラント侯爵の、亡き妻。だが、そのどれもが、どこかおかしい。
ある絵は、微笑んでいるはずの口元が、嘲笑うかのように歪んでいる。ある絵は、その色彩が古びてくすみ、まるで生気を感じさせない。またある絵は、そもそもデッサンが狂っており、人間ではない何かのように見えた。
(……ここは、絵画に宿った呪いの精神世界)
エリーゼの「悲嘆の洞窟」、ライナーの「渇望の荒野」とは全く違う。侯爵の、妻に対する歪んだ執着と、失われた美を永遠に留めたいという願いが作り出した、無機質で、閉鎖的なダンジョン。しん、と静まり返った廊下に、私の足音だけがやけに大きく響く。
その時だった。壁にかけられた一枚の絵画から、黒い絵の具がインクのようにじわりと染み出し、床に滴り落ちた。それは、意思を持ったように蠢き、やがて、描きかけで歪んだ人型の輪郭を成していく。デッサン人形のようなモンスターが、ぎこちない動きで、こちらへ向かってくる。
「……なるほど。今度の敵は、これですか」
私は杖を構え、聖なる光を灯した。
「《聖光撃》!」
光の弾丸が、絵の具のモンスターに直撃する。断末魔もなく、それはインクの染みに戻り、床に消えた。
だが、安堵したのも束の間。別の絵画から、また一体、そのまた別の絵画から、もう一体と、次々に同じようなモンスターが湧き出してくる。
倒しても、倒しても、キリがない。
(駄目だわ。このダンジョンは、力押しで進むタイプじゃない……謎解きが必要ね)
私は、モンスターをいなしながら、周囲の状況を冷静に観察する。
無数に飾られた、歪んだ肖像画。その中にきっと、一枚だけ、呪いに染まっていない「本物」があるはずだ。侯爵の、妻に対する純粋な愛情だけで描かれた、ただ一つの真実の絵画。それを見つけ出し、浄化することこそが、この迷宮の出口への鍵。
私は、一つ一つの絵を確かめながら、廊下の奥へと進み始めた。偽物の絵に近づくと、絵の中の女性が、嘲るように笑いかけてきたり、あるいは、悲しげに涙を流したりする。そのたびに、新たなモンスターが生まれ、私に襲いかかってきた。
いくつもの偽りの笑顔と涙を通り過ぎ、私は、ようやく廊下の突き当たりにある、ひときわ大きな両開きの扉にたどり着いた。
扉の向こうは、広大なアトリエだった。そして、その中央に、一枚の肖像画が飾られている。これまで見てきたどの絵よりも大きく、精緻で、そして、圧倒的なまでに美しい妻の肖像画。
だが、この絵から放たれる邪気は、これまでとは比べ物にならないほどに、濃く、そして禍々しかった。
私が絵の前に立つと、静寂を破り、鈴を転がすような、しかしどこか冷たい声が響いた。
『……あなたは、だあれ?』
声は、絵の中から聞こえてくる。絵の中の女性が、その唇を動かし、私に語りかけていた。
『あの人は、私のもの。彼の心も、思い出も、ぜんぶ、ぜんぶ、私のものなのに……』
その瞳は、もはや愛情ではなく、歪んだ独占欲に濡れている。
『邪魔を、しないで』
この声の主こそ、侯爵の執着を糧に成長した、呪いの核。侯爵自身が生み出してしまった、「理想の妻の幻影」。
幻影がそう告げた瞬間、絵の中から、無数の絵筆やパレットナイフが、魔力の矢となって私めがけて飛んできた。
「くっ……!」
咄嗟に杖で弾き、後方へ跳ぶ。
今度のボスは、物理的な肉体を持たない。絵の中から、無限に攻撃を仕掛けてくる、厄介な相手だ。
「あなたを解放してあげるわ。侯爵の、本当の思い出と共に!」
私は、浄化の魔法を詠唱しようと、聖なる力を練り上げる。
だが、幻影の力が、それに激しく抵抗する。アトリエの空間そのものが、ぐにゃりと歪み始めた。
『この絵は、私のもの! あの人の心も、私のものよ!』
幻影の絶叫と共に、壁も、床も、天井も、全てがどろりとした絵の具のように溶け出し、私を飲み込もうと迫ってくる。
悪夢のような色彩の渦の中で、私は、この呪いの本質に、どう立ち向かうべきかを必死に探していた。




