13. 私の人生、そこから崩壊したの
深夜0時、家の門を出ると斜向かいに保乃が立っている。
ひんやりとした秋風を頬に感じながら保乃の側へと歩み寄ると彼女も寄ってきた。
短い秋がもう少しで終わりを迎えて長い冬が始まろうとしている。
向かい合う保乃は私を見ると怒りを滲ませるように口を開いた。
「來未ちゃんって本当に昔から変わらない。無神経で他人に無関心で自分のことにしか興味なくて、なんでも事勿れ主義なんだ。」
「あんたには関係ないでしょ。」
珍しく感情的な保乃に内心、驚きながら静かに言い返す。保乃はすかさず私に、「関係あるよ!だからムカついた。傷ついた。裏切られたって思った。」と叫んだ。
「……なんの話?」
何が何だか分からなくて保乃に尋ねると彼女はふっと笑って、「やっと私に関心を持ってくれた。」と言う。
「來未ちゃんはもう覚えてないでしょ。私達、小2の時に同じクラスだったこと。私はすぐに転校していなくなったけど……音楽室でピアノ弾いてた時、覗いて見てたでしょ、私のこと。」
保乃の言葉に突如、突き刺さるように頭の片隅にあった記憶が蘇る。全身に鳥肌が立つように幼い頃の戦慄が走った記憶が一斉に蘇る。
嗚呼、そうだ。そうだった。私達、ずっと前に知り合いだったのだ。
そして、見た。あの時、見たのだ。
見てはいけないものを見てしまった。
放課後、忘れ物を取りに教室へ行った日。夕陽がとろけてオレンジ色がぐちゃぐちゃになった空の時間帯、一人で忘れ物を取って帰ろうとした時、音楽室からピアノの音色が聴こえた。
今なら分かる。あれはベートーヴェンの歓喜だった。
でもオーケストラで聴く歓喜と違ってどこか悲しげで不安定な音色だった。
音に釣られて音楽室へと歩みを進める。音楽室は扉が閉まっていて小窓には布が掛けられていた。
中を見れない私は扉を静かにうっすらと開ける。わずかな隙間から覗こうとしたが、覗ききれず15センチほど扉を開けた。
その間もピアノは止むことなく鳴り続けていた。
扉を覗くとそこには今にも泣き出しそうな顔でピアノを弾く保乃と保乃を膝の上に乗せて嬉しそうに頬を寄せる音楽の先生が座っていた。
あの先生…あんな顔するんだ…なんか気持ち悪い。
前に友達から聞いた話だと音楽の先生は30過ぎのおじさんで結婚してるらしい。
奥さんは誰だか分からないけど子供はいないって言ってた。
先生は私達の前で指導している時、たまにニヤニヤしてる時はあるけど親しみやすくて人気のある先生だ。ニヤニヤしている時以外は気持ち悪くない。
だけど…今、目の前に見える保乃を膝の上に乗せた先生は今までで一番、気持ち悪い顔をしている。
お母さんに言ったらそんな訳ないでしょって言われるだろうけど気持ちが悪い。
恍惚とした顔で保乃を膝の上に乗せて、保乃のお腹や足をさすっている。気持ちが悪い。
ゾッとした顔でそれを見ているとピアノ越しに保乃と目が合った。
“來未ちゃん、助けて“
そう言われた気がして私は咄嗟に後退りすると物凄いスピードでその場を走り去った。
逃げないといけない。恐くて足が震えながらも後ろを向かず、走ることに専念した。
走って走って、その場を逃げることに必死だった。
目の前に広がる景色が一瞬なほどのスピードで走り、気づいた時には校門を抜けて外に出ていた。
息を切らしながら立ち止まって辺りを見回す。
夕方の帰り道は制服を着た中学生や同じくらいの黄色い帽子を被った小学生たちが楽しげに笑いながら帰っていくのが見えた。
さっきまでの光景が嘘みたいなほどの平和な世界。
私もなかったことにすれば平和でいられる。誰にも言わなければ当たり前の日常を保てる。
さっきまでのこと全部、蓋をして、見なかったことにすれば…
息を整えて家路につくとお母さんに、ただいまぁ〜と言った。
お母さんはいつも通り洗濯物を畳んでいて、キッチンのテーブル上にはファミリーパックのお菓子が置いてあった。それを開けて貪ると、これでいいと思った。
これでいい。夕日が溶けて夜になる瞬間を家の窓から見ながらまた、これでいいと思った。
お母さんが出した高野豆腐とコロッケの夕飯を食べながら再び、これでいいと思う。
当たり前の日常、父はテレビを見て、母はご飯中にふざける亮太郎を叱る。もしも、私が余計なことを言ったらこの日常が壊れてしまうかもしれない。
崩壊を辿る未来なんて見たくもない。
保乃の犠牲と平和な日常、天秤にかけたらあっさりと平和な日常に傾いた。
翌日、何か言いたげに私のそばをうろうろする保乃を無視して何事もなかったように当たり前の日常を過ごした。
最初の数日間、保乃はずっと私の周りをうろうろしていたが無関心な態度でいるとやがて諦めたように私のそばから離れた。それから程なくして保乃は別の学校に転校していった。
「あの時、どうして私を助けてくれなかったの?」
目の前にいる成長した保乃が私に尋ねる。顔は怒りに満ちていた。
「平和な日常が欲しかったから。」
掠れ声で答えると保乃は怒りと悲しみを交えた笑顔を見せた。
「私の人生、あそこから崩壊したの。だから來未ちゃんから全てを奪ってやろうって決めたの。」
「なんで私なの?」
眉間に皺を寄せて尋ねると保乃は笑った。
「唯一の目撃者だったから。唯一、味方になってくれるかもしれない子だったから。希望が絶望に変わる瞬間が來未ちゃんには分からないでしょ。」
「…あの時はごめんね。」
「今更、何よ。謝ったって私の人生は変わらないんだから。」
夜空に浮かぶ月は孤独を炙り出す。一人で寂しさと悲しみと恐怖に耐えた保乃の輪郭が光っていた。
「來未ちゃん、私、転校するの。転校したら過去を捨てて新しい私に再生するの。復讐はもうしない。」
「……復讐。そうだったんだ。でもあなたの痛みに比べればこんなのどうってことない。」
私の言葉に保乃の顔が崩れて泣き顔になる。皺を寄せてくしゃくしゃな顔になると無数の涙を流した。
「私はね、再生するの。いつか必ず再生して幸せになるの。」
顔中、涙だらけになって咽び泣きながら保乃が言う。
その顔は激しい生命を感じた。生きている。私達はまだ若くて、生きている。
「私達、赤の他人になりましょう。もう二度と会わないように…」
私が言うと保乃は泣きながら何度も頷く。
過去を捨てろなんて言えない。忘れましょうなんて、もっと簡単に言えない。
だからせめて、蓋をしましょう。
私達のために過去に蓋をして崩壊から再生するしかない。
太陽の光を浴びた草が伸びるように、光を見つけて浴びて伸びていくしかない。
たまに思い出す時があっても、光を探して見つけて伸びていくしかない。
そうやって影を消していきましょう。
「バイバイ。」
泣き止んだ保乃が私にそう言った。私も、うん。と返すと互いに背を向けて家路についた。
静かに家に帰ると真夜中の部屋はベランダから差す街灯の灯り以外、光がなくて薄暗かった。
私は早く朝になればいいと願った。
朝になって朝日を浴びたいと感じた。
ベッドに入って仰向けになると真上から見える景色は天井のみだった。窓から漏れた街灯の光が天井まで伸びて窓枠の影をつくっている。
朝になったらこの影も消えてなくなっている。
目を閉じても眠れなくて何度も目を開けているうちに朝日が昇って部屋は明るくなっていた。
朝は小鳥の鳴き声とどっかの家が窓を開ける音で必ずやってきた。
それが私達の日常だった。




