第9話 小さな笑み
時間が、まるで粘度の高い液体の中に落ちたかのように、
極限まで引き延ばされていく。
ガガッという重い衝撃のあと、
視界を覆っていたガードレールの鉄骨が弾け飛び、高橋の愛車は完全に足場を失った。
浮遊感。
足元から重力が消え去り、身体がシートベルトによってかろうじて座席に繋ぎ止められる。
フロントガラスの向こう側では、
ヘッドライトの白い光線が、
暗闇の木々や乱高下する夜空をぐるぐると不気味に回転しながら照らし出していた。
車内は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
ダッシュボードのポケットから跳ね上がったスマートフォンが、
無重力空間を泳ぐように空中を漂う。
画面には、先ほど届いた元妻・由香からのメッセージと、
10年前のあのプロポーズの写真が、青白い光を放ちながら浮かんでいた。
続いて、助手席の足元に転がっていたアクリル製の間仕切りケースが浮き上がり、中の写真がひらりと舞い散る。
そこに写っていたのは……
過去の自分だ。
人間を信じ、傷つきながらも誰かと心を通わせ、笑い合っていた頃の自分。
(……僕は、何を逃げていたんだ?)
崖下へ向かって車体が逆さまに傾いていく中で、高橋の脳裏に激しい後悔が押し寄せた。
「人間は裏切る」「システムだけが正確で嘘をつかない」——そう自分に言い聞かせ、他者を排斥し、完璧な無菌室に閉じこもっていた。
しかしその実、彼はただ傷つくことを恐れて殻にこもっていただけだった。システムを崇め奉ることで、自分自身の弱さや過去の失敗から目を背けていただけだったのだ。
車載ナビの液晶画面が、激しい振動とともにパチパチとノイズを走らせる。
画面上の「白い走行可能エリア」は跡形もなく消え去り、
全体が深いグレーのグラデーションを経て、
ドロリとした完全な漆黒(白0%)へと塗り潰されていった。
『車両の傾斜角度、許容上限の超過です。ご注意ください。』
スピーカーから、変わらぬ明瞭さで放たれる電子音声。
その声には、
高橋を救うための焦りも、
彼の悲劇を悼む哀しみも、
一切含まれていなかった。
ただどこまでも透明で、無機質な事実の出力。
高橋はゆっくりと目を閉じた。
車体が激しい音を立てて、崖下の太い大木へと激突する直前だった。
ドカンッ!!!
と腹の底に響く凄まじい衝撃が車体を襲った。
ガラスが粉々に砕け散り、
金属が押し潰される悲鳴のような鋭い音が夜の森に轟く。
車体は大木をなぎ倒しながら斜面を転がり落ち、
最後はひっくり返った状態で、湿った谷底の泥の中に突っ込んで停止した。
静寂が、戻ってきた。
白く不気味なエアバッグの煙が、逆さになった車内に漂っている。
割れたフロントガラスの隙間から差し込むのは、
月光すら届かない完全な漆黒の世界(白0%)。
シートベルトで天井から吊り下げられた格好のまま、
高橋はピクリとも動かなかった。
胸を強く圧迫され、
口の端から温かい血がひとすじ、伝い落ちる。
激痛すらも遠のき、全身の感覚がすーっと冷えていくのが分かった。
意識の混濁する頭の中で、高橋の耳に雑音が届いた。
チチッ……ジジジ……
ダッシュボードの奥、
ひしゃげたナビゲーションシステムのモニターが、
瀕死の光を明滅させていた。
画面の半分は割れ、強烈なノイズが走っている。
「……あ……が……」
高橋はかすれた声を出そうとしたが、指一本すら動かない。
彼が全幅の信頼を寄せ、自らの意思をすべて委ね、人生を差し出した「完璧なシステム」。
今や壊れかけたその電子頭脳は、
車体を取り巻く絶望的な状況を、
最後まで寸分違わずスキャンし続けていた。
バッテリーの電圧低下。
車内の酸素濃度の低下。
そして、バイタルセンサーが拾い上げる、搭乗者の急速に衰弱していく心拍数と体温。
システムは一切の感情を持たず、
いつも通り、仕様通りに動作する。
人間のように動揺することもなく、
哀れむこともなく、
奇跡を祈ることもない。
ピピッ、と車内に最後の電子音が小さく鳴り響いた。
ひしゃげたスピーカーから、ノイズ混じりの、しかしどこまでも澄んだ無感情な音声が流れる。
『これより先は、です。ご注意ください。』
高橋の瞳が、僅かに見開かれた。
「です……?」
ノイズの隙間を縫って鼓膜に届いたその音の響きに、
高橋の途切れかけた意識が一瞬だけ明晰さを取り戻した。
日本語の丁寧語である、終助詞の「です」。
しかし、システムが発したその発音のイントネーションは、
彼がこれまで何千時間もかけて音響調整を行ってきた、あの見慣れた日本語の語尾ではなかった。
英語の——「Death(死)」。
『これより先は、Death(死)。ご注意ください。』
システムは最初から、何一つ助言などしていなかった。
「右へ曲がれ」とも「車を止めろ」とも「生きろ」とも言っていない。
『危険です』『凍結です』『落石です』——。
ただ淡々と、この世界に存在する「死(Death)」の要素を、
順番に提示していただけだったのだ。
「……ふ……」
高橋の口元から、血に濡れた小さな笑みが漏れた。
完璧だった。
あまりにも、完璧な仕様通り(論理)だった。
システムは一度も嘘をついていなかった。
誤作動すらしていなかった。
「思考停止」し、
システムの提示する事実から勝手に逃げ惑い、
自ら死(Death)の崖下へと飛び込んでいったのは、
他ならぬ自分自身(人間)だったのだから。
高橋の瞼が、ゆっくりと重く閉じられていった。




