第8話 錯乱のトラッキング
『右側、路肩の崩落痕です。ご注意ください。』
『左側、凍結層の拡大です。ご注意ください。』
車載ナビのスピーカーから発せられるクリアな女性の声が、
もはや途切れることなく車内に充満していた。
高橋の視野は極限まで狭まっていた。
フロントガラスの向こう、ヘッドライトが虚しく照らし出す本物の闇も、
鬱蒼と茂る木々も、彼の目には入っていない。
彼が見つめているのはただ一つ——ダッシュボード中央の大型液晶画面に映し出された、刻一刻と漆黒(影)で塗り潰されていく3Dデジタルマップだけだった。
「ひっ……うあああッ!」
高橋の荒い息がガラスを白く曇らせる。
彼は取り憑かれたようにステアリングを握り直し、
アクセルとブレーキを交互に踏みつけた。
「左がダメなら右! 右がダメなら左だろッ!」
左側が凍結していると告げられれば、パニック状態でハンドルを右へ切る。
右側に路肩の危険があると告げられれば、今度は車体を強引に左へねじ込む。
しかし、システムは「左へ曲がれ」とも「右へ避けろ」とも一切言っていない。
ましてや「減速せよ」とも「車を止めろ」とも命じてはいない。
ただ車載カメラとミリ波レーダーが検知した危険な「事実」を、ミリ秒単位で淡々と提示しているだけだ。
思考を完全に停止し、ナビの「〜です。ご注意ください。」の告知からただ逃げることだけに没頭した結果、高橋の運転から「適切な速度調整」という概念は完全に消滅していた。
重力と慣性に振り回された1.5トンの鉄の塊は、濡れて凍りついたアスファルトの上で、制御不能の弾丸となって山道を暴走していく。
『前方、カーブの曲率変化です。ご注意ください。』
「あっ——」
視界の先、ヘッドライトの光軸が激しく上下に揺れた。
目の前に現れたのは、これまでのどんなコーナーよりも鋭く落ち込む、
V字型の急勾配ダウンヒルカーブだった。
ガードレールの向こう側には、
街灯も、
民家の明かりも、
月光すら届かない完全な「漆黒の崖下」が広がっている。
「曲がれ! !!曲がってくれッ!!!」
高橋は狂乱し、右足をアクセルから引き剥がしてブレーキペダルを底まで踏み抜いた。
同時に、右へハンドルを限界まで切り切る。
しかし、速度を殺しきれていない車体は、凍結した路面の上で滑らかに旋回することなど不可能だった。
タイヤが摩擦力を完全に失い、「ギギギッ」と断末魔のような滑走音を立てて車体全体が横滑りを始める。
『制御不能状態の発生です。ご注意ください。』
車載ナビのアナウンスが、冷酷なまでに正確なタイミングで車内に響き渡る。
「嘘だ……嘘だろ……!? 避けてきたじゃないか! 僕はお前のアドバイス通り、危険を全部避けてきたんだぞ! なんでだよッ!?」
高橋の叫びが、虚しく車内に響き渡る。
だが、システムは最初から「アドバイス」など一度もしていなかった。
命令も、指示も、救済もしていない。
「システムは嘘をつかない」「システムだけが味方だ」と信じ込み、
人間としての思考を放棄した男が、提示された「事実」の逆へ逆へと盲目的に逃げ続けた結果——自分自身のハンドル操作によって、逃げ場のない崖際へと車を追い詰めていったのだ。
ガガガガガガガガガッ!!
激しい金属摩擦音が夜の山に響き渡った。
車体のフロント部分が、
冷たい鋼鉄のガードレールを激しく削り、
凄まじい火花を撒き散らしながらバリバリバリと音を立てて、
支柱ごとガードレールを引きちぎり
車体は空へ飛び出した。
ヘッドライトの光線が、
夜の空を、
そしてどこまでも深い暗闇の谷底を虚しく照らし出す。
高橋の視界から上下左右の感覚が消え去り、
無重力のような浮遊感が車内を包み込む。




