第3話 整然とした規律
友人・木村との絶交から数日。高橋は一切の情緒を私生活から削ぎ落とし、これまで以上に業務と「自社システムの正しさ」に没頭していた。
大手スマートホーム企業「アーク・IoT」の品質保証(QA)フロア。
整然とデスクが並ぶ室内には、キーボードの打鍵音とサーバールームの微かな冷却ファン音だけが響いている。高橋はPCモニターに向かい、自社が開発する最新の環境検知AIのログデータを精査していた。
「高橋リード、失礼します」
後輩の社員が恐る恐る声をかけてきた。手にはテスト用のスマートデバイスが握られている。
「第3テストルームの音声ガイダンスの件ですが……『この先、階段です。ご注意ください』という通知の後、ユーザーに対して『手すりにお掴まりください』という行動誘導メッセージを追加すべきだという意見が企画部から出ていまして」
高橋はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと首だけを後輩に向けた。眼鏡の奥の瞳は冷ややかに澄んでいる。
「却下だ」
「えっ、ですが……高齢者や子供への配慮として、具体的な行動指示があった方が親切だという——」
「システムが人間に指示や命令を出すのは増長だ」
高橋の声には一切の揺らぎがなかった。
「僕たちが提供すべきは『客観的な事実』のみだ。『階段がある』という事実を100%の精度で提示すれば十分だ。そこから手すりを掴むか、一歩ずつ降りるか、無視して進むかは人間自身が判断することだ。システムに過剰な親切や感情を持ち込むな。仕様書通り、『この先、階段です。ご注意ください』でフィックスさせろ」
「は、はい……わかりました」
後輩は高橋の威圧感に押され、深々と頭を下げて去っていった。
高橋は満足げに鼻で息を吐き、再び画面に目を戻した。
これだ。これが完璧なシステムのあるべき姿だ。余計な同情も、お節介も焼かない。ただ事実のみを淡々と告げる。
夕刻、退社時間を告げる社内のアナウンスがスピーカーから流れた。
「まもなく、全館消灯の時間です。ご注意ください。」
整然とした、聞き慣れた丁寧なシステム音。高橋はPCをシャットダウンし、整頓されたデスクを後にした。街へ繰り出しても、彼の耳には「完璧に管理された世界」の音が心地よく届くはずだった。
会社を出た高橋は、夕暮れ時の駅前ターミナルへと向かった。
人の行き交う雑踏の中、高橋は周囲の人間たちの無計画な歩行や無駄な立ち話にわずかな不快感を覚えながら、足早に駅の改札を目指す。
混雑する駅の構内。自動改札機を抜け、エスカレーターへ向かう通路の頭上から、スピーカーの澄んだ音声が降り注いだ。
「この先、階段です。ご注意ください。」
「足元が滑りやすくなっております。雨天による濡れです。ご注意ください。」
周囲の利用客たちは誰一人としてそのアナウンスを気に留めず、スマホを見ながら通り過ぎていく。だが高橋にとって、その無感情で正確な告知音だけが、雑多で不快な人間界において唯一の「安らぎ」だった。
(そうだ。世の中のすべてのシステムが、このように正しく事実だけを告げればいい)
高橋は日用品と食料を補充するため、駅に直結した大型ショッピングモールへと向かった。
吹き抜けのエスカレーターに乗り、上層階へと向かう。ガラス張りのエレベーター、整然と並ぶショップ。
「まもなく、扉が閉まる時間です。ご注意ください。」
「本日、立体駐車場は大変混雑する見込みです。ご注意ください。」
エスカレーターの乗り口や、店舗の自動ドアの脇から、次々と流れる「名詞+です。ご注意ください」のフォーマット。
高橋はスーパーの売り場を歩きながら、カゴにレトルト食品やミネラルウォーターを投げ込んでいった。人間と会話する必要もない、セルフレジの無機質な電子音。
「バーコードの読み取り完了です。ご注意ください。」
「おつりとレシートのお受け取りです。ご注意ください。」
完璧だ。すべてが仕様通りに動き、事実のみを通知し、無駄なコミュニケーションを発生させない。
だが、大量の荷物を両手に抱え、モールを出て自宅へと向かう歩道橋に差し掛かったとき——
高橋はほんのわずかな「違和感」を覚えた。
街灯の少ない歩道橋の階段前。歩行者ナビを搭載した自分のスマートフォンから、電子音が鳴った。
「この先、暗がりエリアです。ご注意ください。」
高橋は立ち止まった。
……暗がりエリア? 確かに街灯は切れているが、ナビの標準的な危険告知にしては、少しだけ語彙が抽象的ではないか?
高橋はスマホの画面を見た。画面上のナビマップには、危険を示す黄色いアイコンが静かに点灯している。
「……フッ、照明の球切れまでセンサーが拾って事前に教えてくれているのか。素晴らしい感度だ」
高橋は違和感を「システムの優秀さ」へと即座に脳内で変換し、暗い階段を一歩ずつ踏み外さないように降りていった。
自分の足元、街灯の届かない階段の影の中に、ほんのわずかに濃い「黒いシミ」のようなものが蠢ていたことには、まだ気づかないまま。




