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第2話 空白のグリッド

ジリリリリ、と耳障りな電子アラーム音が寝室に響き渡った。

高橋はまぶたを開けた。だが、視界に入ってきたのは闇ではなく、ブラインドの隙間から残酷なまでに強く差し込む、すでに高く昇った朝の光だった。


(……光の角度がおかしい)


脳の奥で警報が鳴る。枕元のスマートフォンを掴み取り、画面をタップした。表示された数字は「08:30」。


「……なっ!?」


高橋は弾かれたように跳ね起きた。一瞬で全身の血の気が引き、冷や汗が背筋を吹き抜ける。今日は木村と以前から約束していた一泊二日の温泉旅行の当日だ。集合時間は午前8:00、木村が車で自宅下まで迎えに来る手はずになっていた。

焦りで震える指で画面をスワイプする。通知センターには、木村からの不在着信が14件。そして、まさに今、15件目の着信が画面全体を真っ赤に覆った。高橋は呼吸を乱しながら応答ボタンをタップした。


「高橋!! お前今どこにいるんだよ!? 8時集合だろ! もう半時間も路上でハザードたいて待ってんだぞ!?」


受話器のスピーカーが割れんばかりの木村の怒号が響く。


「す、すまん木村……! アラームのセットを間違えたみたいだ。すぐ、すぐに用意する!」


「はぁ!? アラーム以前の問題だろ! カレンダーの共有通知が昨日から一度も来ないからおかしいと思ってたんだよ! お前、まさか予定を入れてなかったのか!?」


高橋は電話をスピーカーに切り替え、慌てて自社開発のスケジュール管理アプリを開いた。

月表示から今日の日付——「10月2日」のセルをダブルタップする。

画面に広がったのは、恐ろしいまでに真っ白で無機質な空白のグリッドだった。


「そんなはずはない……! 確かに先週、お前に言われた通りに入力画面を開いて、時間を設定したはずだ!」


「お前……またやったのか?」


木村の声から怒りが消え、呆れと冷ややかな軽蔑が混じり始めた。

「打ち込んだ『つもり』になって、画面右上の小さな『保存』ボタンを押さずに戻るジェスチャーしたんだろ! スマホを新しくしてからお前、たまにそれやってただろ!」


「……っ!!」


高橋の思考がフリーズした。

——入力フォームに文字を打ち込み、満足してそのままアプリを閉じてしまう。画面の隅にある小さなチェックマークを押さなければデータが確定しない仕様。誰もが一度は経験する、あまりにもくだらない、人間の「思い込み」と「うっかり」。


「僕が……ヒューマンエラーを起こしただと……?」


完璧であるはずの自分の脳が、システムに正しいデータを渡さなかった。その事実が、鋭い針のように高橋のプライドを根元から穿ち抜いた。


「チッ……まあいい、過ぎたことは仕方ない」


電話の向こうで木村が荒い溜息を吐いた。

「高橋、もう服なんて何でもいいから着の身着のままで降りてこい! 洗面道具も着替えも全部途中のコンビニや現地で買い揃えればいい! 今すぐ財布とスマホだけ持って家を出ろ!」


誰もがとるであろう、ごく当たり前の「遅刻のリカバリー提案」。しかし、高橋の凝り固まった思考回路は、その柔軟さを即座に拒絶した。


「……ダメだ。そんな無駄金は払えない」


「は? 無駄金って……お前のミスの穴埋めだろ!?」


「旅行用のパッキングリストはすでにシステムに最適解として登録してある。現地で買い揃えるのはコストと資源の無駄だし、持参するはずだったヘルスケアセンサーの連続ログが切れる。僕が完璧に準備を終えるまで、あと1時間はかかる。そこで待っててくれ」


「おい、ふざけるなよ高橋!!」


木村の怒号が再び爆発した。


「1時間待ったら現地に着く頃には昼過ぎだぞ!? こっちはお前の都合に合わせて何週間も前から予定を空けて、宿のキャンセル料が発生するギリギリまで調整してきたんだ! 自分は完璧なシステムに頼ってる気でいて、一番の欠陥はお前自身の頭脳じゃねえか! 自分のミスを棚に上げて、システムや他人に我慢を強いるのもいい加減にしろ!」


「僕は……合理的な判断をしているだけだ! システムのデータ整合性を保つためには——」


「もういい」


木村の低く冷ややかな声が、高橋の言い訳をバッサリと切り裂いた。


「お前はシステムが嘘をつかないんじゃなくて、システムに依存して自分と向き合うのを逃げてるだけだ。過去の傷から逃げて、機械の陰に隠れてるだけだろ。……自分のミスすら認められない奴と、これ以上一緒にいられるかよ。旅行はキャンセルする。宿には俺から謝っとく」


「待て、木村——」


「お前とは、もう二度と連絡を取らん」


ブツッ、ツーツー……という無機質な切断音が部屋に響く。

高橋は一人、静まり返ったベッドの上で立ち尽くした。

手の中のスマホ画面には、何の予定も入っていない空白のカレンダーが虚しく発光している。


「……ふん」


高橋は吐き捨てるように呟き、スマホをベッドへ乱雑に投げ捨てた。


「いいさ。人間なんて所詮そんなものだ。感情に流され、僕の合理的な判断を理解しようともしない。……いらない。人間関係なんて、最初から不確定要素だらけのバグだらけの欠陥品だ」


彼はリビングへと歩を進めた。

最新のセンサーとカメラが張り巡らされた、無菌室のように美しい空間。温度、湿度、空気清浄度——すべてが完璧な数値でコントロールされている、彼だけの絶対安全圏。


「僕には、システムだけがあればいい。嘘をつかず、僕を裏切らない、完璧なシステムだけが……」


高橋は強がるように一人で腕を組んだ。

だが、彼が気づくことはなかった。

朝の太陽光が差し込むリビングの白いフローリングの上、壁際のセンサーの影に混じって、目視では見落としてしまうほど淡いグレーの「影」が、確実に面積を広げていたことに。


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