第1話 完璧な軌道
「この先、階段です。ご注意ください」
街中にあふれる、無感情で正確なシステムの警告音。 あなたはそれを、ただの「便利な通知」だと思って聞き流していませんか?
感情を持たず、ただ「事実」だけを告げるテクノロジー。 それを完璧だと信じ切った一人のエンジニアが辿り着くのは、救いか、それとも狂気か。
あなたのスマートフォンの画面の隅にも、もう刻まれているかもしれません。 誰にも見えない「リスク」の記録が——。
夜のバイパス道路は、湿ったアスファルトが街灯の光をぬらぬらと反射していた。
助手席のシートに深く背を預けた高橋は、フロントガラス越しに無機質な速度で流れていく夜景を冷めた目で見つめていた。
車内には、エアコンの微かな送風音と、規則的なロードノイズだけが満ちている。
ダッシュボード中央の液晶画面が、静かに青白い光を明滅させた。
「——この先、右方向です。お気をつけてご走行ください」
ダッシュボードから、心地よい女性の声でアナウンスが響いた。
過不足のないイントネーション、不快感を与えない聞き取りやすい音量。
最新型の車載ナビゲーションシステムが弾き出す指示に、ハンドルを握る友人の木村は小さく頷き、滑らかにウィンカーを出した。
「相変わらず、お前の会社のアナウンスは聞きやすいな」
木村が煙草を吸いたいのを我慢している手つきで、ハンドルの上部を指でトントンと叩く。
車内に漂うかすかな芳香剤の匂いに混じって、木村の生活臭が鼻につく。高橋は「フッ」と小さく鼻で笑うと、メガネのブリッジを人差し指で押し上げた。
「当たり前だ。僕が率いるQA(品質保証)リードチームが、何千時間かけて音声パターンの最適化を行っていると思ってる? ノイズの周波数、ドライバーの脳波データ、事故発生時の聴覚特性……すべてを計算し尽くした『絶対にストレスを与えず、聞き逃されない音声設計』だ。感情や主観の入る余地なんて一切ない」
「はいはい、さすが大手スマートホームとIoTのリードエンジニア様はお厳しいことで」
木村は呆れたように苦笑したが、すぐにその表情を少し陰らせた。視線を前方に固定したまま、探るような声で切り出す。
「……そういえばさ。風の噂で聞いたんだけどよ」
「なんだ」
「お前の元妻……由香さん。半年前くらいに離婚して、いまフリーになったらしいぞ」
車内の空気が、目に見えて緊張を含んで途切れた。
高橋の右眉がピクリと跳ねたが、彼は顔色ひとつ変えず、すぐに視線を窓の外の暗闇へと戻した。
「僕には関係のない話だ」
「関係ないって……お前、あれからもう4年だぞ? そりゃあ、あんな裏切られ方したら人間不信にもなるだろうけどよ。いつまでそうやって心を閉ざして……」
「木村」
高橋の声は、周囲の走行音すら押し殺すような、冷ややかな低音だった。
「人間は平気で嘘をつく。約束を破り、裏切り、自分の都合のいいように記憶を改ざんする生き物だ。だが、システムは絶対に嘘をつかない。インプットされたデータに対して、100%正確なアウトプットを返すだけだ。そこに感情も、嘘も、裏切りもない。僕が信頼できるのは、ロジックとコードだけだ」
高橋の言葉に、木村はハンドルの上で指を止め、痛々しいものを見るような目つきで横目を出した。
「高橋、お前……本気で言ってるのか?」
「100%本気だ。僕の自宅を見てみろ。自社開発の最新IoTシステムとヘルスケアセンサーを張り巡らせた、完全な実証実験場にしている。僕の心拍数、睡眠サイクル、室温、食材の賞味期限、防犯監視……すべてシステムがリアルタイムで最適解を出して管理している。不確定要素だらけの人間と関わるより、遥かに安全で、ストレスのない完璧な世界だ」
高橋は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を木村に向けた。
そこには自室のあらゆるデータが整然としたグラフと数値で可視化されている。
「ほら見ろ。自室の湿度45%、空気清浄度99.8%。僕のストレス係数は、お前と話す直前まで完璧にフラットだった」
「……お前、完璧なシステムに守られてるつもりかもしれないが、どんどん歪んでいってるぞ。思考まで機械みたいになり始めてる」
木村は深く息を吐き、苛立ちを隠すようにアクセルをわずかに踏み込んだ。
「来週の旅行だってそうだろ。俺がお前を誘ったのは、少しでも外の空気を吸って、人間の血が通った時間を取り戻してほしいからだ。行程表だって俺が手書きでまとめてやったろ?」
「紙の行程表なんて無駄の極みだ。デジタルでカレンダーに同期すれば一瞬で終わる」
高橋は嘲笑を交えてそう吐き捨て、腕を組んだ。
自分の正しさはすでに証明されているのだ。
嘘と裏切りに満ちた人間の感情に振り回されるくらいなら、完璧なアルゴリズムの導くままに生きる方がどれほど高尚で安全か。
そのとき、ダッシュボードのナビ画面の光度が、ほんのわずかに落ちた。
「この先、急なカーブです。ご注意ください。」
車載ナビから、再び静寂を破ってアナウンスが流れた。
先ほどまでの「お気をつけてご走行ください」という親切で柔らかい案内とは、どこか微妙にトーンが異なる、簡潔で淡々とした事実の告知。
「ほらな」
高橋は満足げに呟いた。
「無駄な愛想や感情を交えず、ただ『危険がある』という事実だけを淡々と教えてくれる。人間のように余計な助言や同情を押し付けない。これ以上に誠実な存在が、この世のどこにあるんだ?」
木村は何も言わず、苦々しい表情で眉をひそめたまま、ナビが指し示す真っ暗な道路の影へと車を進めていった。
暗がりの中で、高橋のスマートフォンの画面が一瞬だけ明滅した。
画面の隅に表示されたヘルスケアアプリの「リスクログ」の項目に、まだ誰も気づかないような小さな灰色のドット
最初の「影」が、静かに発生していた。
お読みいただきありがとございます。
「ご注意ください」全10話完結です。
後9話、できれば最後までお付き合いいただけるとありがたく思います。




