第4話 閉じられた聖域
街中にあふれるシステム音の正しさに満たされながら、高橋はマンションの自室へと帰ってきた。
玄関のスマートロックに手をかざすと、カチャリと重厚な開錠音が響く。一歩足を踏み入れれば、そこは温度22度、湿度45%に保たれた無菌室のような静寂空間だ。
玄関の棚には、ミリ単位で位置が指定されたスマートトレイが置かれている。帰宅した高橋は、スマートキーと財布をいつもの定位置へと寸分違わず配置した。それが彼の徹底された「無菌のルーティン」だった。
「……ただいま」
誰もいない部屋にぽつりと呟く。返事の代わりに、天井のスマートスピーカーから滑らかな女性の声が降ってきた。
「おかえりなさいませ。これより、『夜間省エネモード』の稼働時間です。ご注意ください。」
「うむ」
高橋は満足げに頷き、カバンをデスクに置いた。
部屋の隅々に設置された高精度カメラと環境センサー。彼が開発に携わった自社製品のドッグフーディング(社内実証実験)として構築されたこの部屋は、高橋にとって「人間関係のストレスが一切存在しない聖域」だった。
翌日、高橋は会社に「完全在宅勤務」の申請を出した。
木村との絶交、そして職場でのわずらわしい人間関係。不確定要素に満ちた外の世界と関わる必要など、もうどこにもない。すべての業務は自室の高速通信とセキュリティシステムを通じて完結できる。
「これでいい。ここが僕の世界のすべてだ」
数日後、高橋はデスクに向かい、オンラインで社内ミーティングに参加していた。画面越しに同僚たちが議論を交わしている。
『高橋さん、来週のプロジェクト仕様書なんですが、もう少しユーザーの使いやすさに寄り添ったエラーメッセージに……』
「不要だ」
高橋は冷酷に画面を遮った。
「エラーはエラーという『事実』だけを速やかに伝えればいい。人間がミスをしたのだから、人間側が反省して挙動を修正するべきだ。システム側にへりくだった謝罪や導線を与えるのは設計思想の敗北だ」
同僚たちが困惑したように顔を見合わせる。高橋は一蹴するように通話を切ると、ヘッドセットをデスクに放り投げた。
「くだらない。どいつもこいつも感情論ばかりだ。正しく事実を教えてくれるシステムに、なぜ従おうとしない?」
苛立ちを鎮めるため、高橋はキッチンへ向かった。
戸棚から即席のカップ麺を取り出し、電気ケトルのスイッチを入れる。湯が沸く間、彼は自分のスマートフォンに目を落とした。
『未確認の通知が3件です。ご注意ください。』
画面には会社からの業務連絡と、そして不吉な空白を抱えたカレンダーアプリのアイコン。
高橋はフンと鼻を鳴らし、通知をまとめて削除し
湯が沸き、高橋はカップ麺の蓋を半分まで剥がしてお湯を注いだ。
タイマーをセットしようとスマホに手を伸ばしかけた、その時だった。
『賞味期限の経過です。ご注意ください。』
天井のスマートスピーカーから、一切の感情を削ぎ落としたアナウンスが響いた。高橋の手がピタリと止まる。
「……賞味期限?」
高橋がカップ麺の底面を覗き込むと、そこには昨日の日付が印字されていた。キッチンの高精度カメラがパッケージの側面に印字された賞味期限をズーム認識し、データベースと照合して吐き出したアナウンスだ。
「食べるな」とも「捨てろ」とも言わない。「賞味期限が切れている」という客観的な事実のみを突きつけ、どう行動するかは100%人間に委ねる。その一切の情を挟まないスタンスに、高橋は口元を緩めた。
「ふっ……素晴らしい。余計な説教も配慮もない、完璧な事実の提示だ。これだからシステムは信用できる」
高橋はそのまま賞味期限の切れたカップ麺に湯を注ぎきり、リビングのソファへ向かった。
しかし、足を踏み入れた瞬間、微かな違和感が彼の脳の片隅をかすめた。
白いフローリングの広がるリビング。その中央、ローテーブルの脚の周囲に、小さな「黒いシミ」のような影が落ちている。天井の間接照明の角度から考えて、そんな場所に影ができるはずはなかった。大きさはゴルフボールほど。埃かと思い目を凝らしたが、影は床に張り付いたように動かない。
「……配光センサーの誤作動か? 後でシステムログをチェックしておこう」
高橋は気にせずソファに腰掛け、カップ麺の蓋を開けた。立ち上る熱い湯気。
『高温による口腔内火傷のリスクです。ご注意ください。』
間髪入れずにスピーカーが告げる。誰もが一度は経験する、空腹に任せて熱いスープを口に含み「アッツ!」と悶絶するあの失敗。システムは先回りして、事実リスクを告げているのだ。
高橋はフーフーと息を吹きかけ、麺をすすった。
「システムは正しい。僕の健康を守るために、事実を教えてくれているんだ」
自分は守られている。完璧なアルゴリズムによって、あらゆるリスクから守られているのだと、高橋は自らを満たしていった。
食後、高橋は溜まった洗濯物をドラム式洗濯機に放り込んだ。標準コースのボタンを押し、蓋を閉める。
ピロッ、と電子音が鳴り、再びリビングからスピーカーが作動した。
『生乾きによる雑菌繁殖リスクの検知です。ご注意ください。』
高橋の動きが止まった。
「……生乾き? まだ洗濯すら始まっていないぞ」
洗濯機のディスプレイには「標準乾燥コース」の文字が点灯している。システムは「乾燥を止めろ」とは言わない。ただ、部屋の現在の湿度データと衣類の量を試算し、「雑菌が繁殖する確率(事実)」を告げているだけだ。
高橋は少しだけ不快そうに眉をひそめた。
「……なるほど。衣類の量が多すぎたか。アドバイスではなくリスクの提示……うん、仕様通りだ。完璧な挙動だ」
高橋はドラムからシャツを数枚引き抜き、再びスイッチを入れた。
その時、ふと足元に視線を落とすと——先ほどテーブルの脚元にあったゴルフボール大の「黒い影」が、いつの間にかバスケットボールほどの大きさに膨らんでいた。影はフローリングの白を侵食し、じわじわと高橋のつま先へ向かって伸びてきているように見える。
「……なにかの描画バグか?」
高橋は影を踏みつけようと足を伸ばしたが、靴底が触れる直前で、
影は逃げるようにスッと形を変え、ソファの陰へと隠れた。
部屋の温度は設定通りの22度に保たれているはずだった。
しかし、高橋の首筋を、冷たい一筋の汗が伝っていった。
『二酸化炭素濃度の上昇です。ご注意下さい。』
二酸化炭素濃度の増加を告げるアナウンスに促されるように、高橋は小さく息を吐き、換気ボタンを押した。
微かなファンの回転音が静けさを破る。
しかし、落ち着く間もなく、今度は浴室から電子音が響いた。
自動でお湯を張っていたスマートバスシステムからだ。
『設定水位オーバーによるあふれ出しのリスクです。ご注意ください。』
「な……ッ!?」
高橋は慌てて脱衣所へ駆け込んだ。バスタブを覗き込むと、お湯はフチのギリギリ手前でぴったりと止まっている。あふれてなどいない。
だが、高橋には分かっていた。
システムは「お湯があふれた」と言っているのではない。「配管内の水圧推移と温度センサーのデータから試算すると、このまま放置すればあふれ出す確率が存在する(事実)」と告げているのだ。
「分かっている……! 分かっているさ。リスクを未然に防ぐための警告だ。だが——」
言いかけた高橋の足元に、ぬっと黒い固まりが滑り込んできた。
脱衣所の白いクッションフロアの半分を、巨大な「黒い影」が覆い尽くしていた。
すでにバスケットボールどころの騒ぎではない。
大岩ほどもある漆黒の影が、まるで物理的な質量を持っているかのように床を、そして壁を削り取るように存在している。
高橋は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、咄嗟に脱衣所の壁へ背中を擦り付けた。
影には熱も匂いもない。
だが、視界に入るだけで脳の裏側が痺れるような強烈な圧迫感がある。
影の端が足の甲にかかりそうになり、高橋は爪先立ちになりながら脱衣所を跳び出した。
リビングへ戻ると、状況はさらに悪化していた。
部屋のあちこちに、様々な大きさの影が沈殿していた。
ソファの横、テレビの裏、廊下の天井——それらがジワジワと膨張し、部屋の「白い部分(余白)」を塗り潰していく。
高橋の逃げ場は、部屋の中央に残されたわずか畳一畳ほどの白いスペースだけだった。
ピロリン。
今度は手に持っていたスマートフォンが振動した。
『バッテリー残量が15%です。ご注意ください。』
画面を見ると、確かに充電マークが赤く点灯している。
「充電器……充電器はあっちのデスクだ!」
高橋はデスクへ向かおうとしたが、足がすくんだ。
デスクと高橋の間には、乗用車ほどもある巨大な影の壁が立ちはだかっていたのだ。
影はガリガリと無機質な摩擦音を立てながら、ほんの少しずつ高橋の立つ小さな白い円を狭めてくる。
『充電を行わない場合、全機能が停止します。ご注意ください。』
『現在、通信が不安定です。ご注意ください。』
『室温の上昇です。ご注意ください。』
スマートスピーカー、スマートフォン、スマート家電——部屋中のあらゆる端末から、途切れなくシステム音声が重なり合って響き始める。
「うるさい……! 静かにしろ!」
高橋は耳を塞ぎ、冷や汗に濡れた頭を抱え込んだ。
「分かってる! バッテリーが減ってるのも、通信が遅いのも、部屋が暑いのも分かってる! だからどうしろっていうんだ!? 充電しろと命令するわけでもなく、回避策を教えてくれるわけでもなく……ただ事実ばかり突きつけやがって!」
高橋の叫び声に、システムは何も答えない。
ただ、滑らかな音声で、次の事実を重ねていく。
『思考速度の低下、および心拍数の過剰上昇です。ご注意ください。』
「くそっ……! くそくそくそっ!」
システムは間違っていない。システムは1つの嘘もついていない。
高橋の生体データを正確に読み取り、真実だけを告げている。
だが、その「正しさ」が、高橋の退路を完璧に奪っていく。
注意しろ(避けろ)と言われても、この部屋にはもう、影を避けて動けるだけの「空間」が存在しなかった。
高橋は小さく震えながら、壁に張り付くようにして蹲った。
部屋を満たす真っ白な人工光の中で、圧倒的な「黒」が、彼のすぐ目の前まで迫っていた。




