8. 献呈
翌日、水曜日の夕方――。
ジュリーとアメリアは、いつもの通り、寝室でディナーに向けて身支度をしていた。
ジュリーは毎回ディナーのドレス選びで悩んでしまうが、今夜は淡いローズピンクのシフォンドレスに決め、午後のテニスのレッスンの際に乱れてしまった髪型を器用なメイドの手を借りて再度優雅なポンパドゥールに整え直した。
学院では、ディナーもまた勉強の機会だ。
生徒たちはほぼ毎晩正装し、正式なマナーに従って食事をとることになっている。
仕上げ学校の特性上、そのままでは出席者は全員女性になってしまうので、男女半々で構成されるべき社交界の正餐会を再現するために生徒や女性教師は交代で紳士役を担う。
また、生徒たちを本物の紳士のエスコートに慣れさせるため、少数ながら本物の男性も招かれる。
男性の客人のほとんどは既婚かつ年配の男性教師だが、20代や30代の若い独身男性が姿を見せることもあり、毎週水曜日の音楽教師ムッシュー・シャイデマンや毎週金曜日のテニス教師ムッシュー・ピエルス、そして、特別な行事の折にだけ出席するルメール家の三人の子息がその例だ。
若い紳士がエスコート役に割り当てられた生徒は、燕尾服姿の彼らの手をとるときに密かに胸を高鳴らせるものだが、それが高揚によるものなのか、単なる緊張によるものなのかは人それぞれだ。
今夜は水曜日の夜なので、ムッシュー・シャイデマンがディナーに出席する。
加えて、ディナー開始前には、サロンにおいてムッシューによる小演奏会が催され、生徒たちは本物の演奏家によるピアノ演奏を聞くことができる。
ジュリーがある女性教師から聞いたところによると、一昨年の春にムッシューが学院で教え始めた当初、気まぐれにディナー前にピアノを弾いたのが思いの外好評でいつの間にか「定期小演奏会」ということになっていたらしい。
小演奏会の間、サロンの隣の前室では、マダム・ローフォードと数人の女性教師たちが歓談という名の外国語の訓練の場を提供しているので、生徒たちはそちらに参加しても良い。
ジュリーとアメリアの場合は、音楽好きのジュリーは小演奏会に出席し、語学に関心があるアメリアは会話の訓練の方に参加するのが常だった。
しかし、この夜、ジュリーはアメリアを小演奏会に誘った。
前日のレッスンの際に、ムッシュー・シャイデマンがシューマンの「献呈」を演奏すると言っていたからだ。
その演奏を一緒に聞けば、彼女と正直に話ができる気がした。
アメリアはその誘いを快諾した。
何か伝えたいことがあるのを察したのかもしれない。
サロンへ向かう二人が前室を通り過ぎたとき、歓談の準備をしていたマダム・ローフォードの眼鏡の奥の瞳がアメリアに向けられた。
ジュリーはその緑色の瞳に揺れを見た気がした。
しかし、その意味を掴むことはできなかった。
二人がサロンに着くと既に小演奏会の開演時刻の数分前だった。
ただ、ウィーン気質のムッシュー・シャイデマンはまだ姿を見せておらず、音楽好きの生徒たちと数人の女性教師がまばらに席に着いているだけだった。
「いつも前室で会話しながら演奏を聞いているけれど、サロンで聞くのは秋以来かもしれないわ」
アメリアはジュリーが選んだピアノの正面の席に着きながら言った。
彼女のシルクサテンのアイスブルーのドレスがシャンデリアの光を受けて艶やかな光沢を帯びていた。
「そのときの曲は……確かショパンだったわね、ジュリー?」
アメリアに問われてジュリーは記憶を探った。
前回アメリアと小演奏会を聞いたのは、二人が学院に入って間もない9月だった。
「ええ。ショパンのスケルツォ第2番よ。ムッシュー・シャイデマンが難曲を軽々と弾くものだから、さすがプロフェッショナルの演奏家だと思ったわ」
ジュリーはそのときのことを思い出して微笑んだ。
アメリアも「ああ、そうだったわ。指は忙しく動いているのに、聞こえてくるのは美しい旋律なのが興味深かったわ」と楽しげに笑った。
その笑顔を見たジュリーは一つ深呼吸をすると、ローズピンクのドレスの裾を一度撫でてから切り出した。
「あのね、アメリア。この前の話だけど……私、あなたが私の『シャーロック・ホームズの冒険』を取り戻すために一緒にマダムに謝罪すると言ってくれて本当に嬉しかったの」
アメリアは静かに頷いた。
「でも、私ったら、あなたのその優しさを失礼な言い方で拒絶してしまったわ。ごめんなさい」
「ジュリー……そんなこといいのよ。でも、あなたはどうして謝りたくないの?叱られるのが怖いのかと思っていたけれど、きっとそうじゃないのよね?」
「ええ、あれからよく考えたのだけど……私の中で『レディに相応しくない本に興味を抱いたことを謝罪する』という部分が引っ掛かっているの」
ジュリーは白い手袋を着けた両手を組み替えながら言葉を探した。
アメリアは彼女が次の言葉を紡ぐのを辛抱強く待ってくれた。
「なぜ未婚のレディは推理小説に興味を持ってはいけないのかしら?というより、なぜ未婚のレディは頭の中や心の中まで制限されるのかしら?私、どうしても納得できる答えを見つけられなくて……。こんな風に考えてしまうのはレディ失格よね」
ジュリーが恐る恐るアメリアの顔を見ると、彼女は意外にも微笑んでいた。
あの「完璧な令嬢」のアメリアが「レディ失格」の告白に微笑むなんて信じられなかった。
「ジュリー、そういうことだったのね。私、あなたの言っていることがよくわかるわ。実は、私も同じように思うことがあるの」
そう言いながらアメリアは白い手袋で覆われた手をジュリーの手に重ねた。
手袋越しの体温にジュリーの緊張が少しずつほぐれていく。
「私、本当はもっと色々知りたいことがあるの。ただ、レディでいるために、それを隠さなければいけないこともわかってはいて……」
アメリアは少し視線を落としてから続けた。
「最初は社交界で上手くやるために隠さなければならないと思っただけだったわ。でも、その内に、自分自身からも隠すようになっていたの。そんなことは思っていないはずだと言い聞かせて……。自分の中にレディらしくない考えや気持ちがあることを認めたくなかったのね。だって、それってすごく怖いことでしょう?」
ジュリーは頷いた。
アメリアの言う通りだ。
レディらしくなくなるのは恐ろしい。
なぜなら、レディらしくない令嬢は幸せになれないからだ。
そういう令嬢は、結婚相手が見つからず「結婚できない女性」になる。
つまり、世間が指し示すレディの幸福で安全な居場所——「家庭」を手に入れることができない。
「でも、認めようと認めまいと、やっぱりその考えや気持ちはそこにあるのよ。それなのに、世間や社交界では、それを持ってはいけないと言われるわ……。どうすべきなのか、私ももっとちゃんと考えたいわ。だから、今はマダムに謝るのはやめておきましょう。シャーロック・ホームズには悪いけれど、少なくとも納得できる答えが出るまでは」
アメリアはヘーゼルの瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「ありがとう、アメリア。ああ、あなたならきっとわかってくれると思ったわ」
ジュリーは安堵のため息を漏らし、両手でアメリアの手を握った。
「ジュリー、感謝するのは私の方よ。お蔭で大事なことに気づけたわ。それに何より、私を信じて打ち明けてくれたのでしょう?」
そう言ってアメリアも両手でジュリーの手を握り返した。
「ええ。でも、そう思えたのは、ムッシュー・シャイデマンのお蔭なの。ムッシューが昨日のレッスンで私が悩んでいることに気づいて、励ましてくださったの。今夜演奏するシューマンの『献呈』で、大切な人への想いを表現するから、大切なご友人を連れて聞きに来なさいって。ムッシューのシューマンは年明け最初の小演奏会以来だから本当に楽しみだわ。つい勢いで打ち明けてしまったけれど、本当は『献呈』を聞いてから話すつもりだったの」
「まあ、そうだったの。……あら?じゃあ、ムッシューはあなたを励ますために、シューマンの『献呈』を弾くことになさったのかしら?随分お優しいのね」
アメリアはジュリーの手を握ったまま少し首を傾げた。
「まさか、それはあり得ないわよ。元々今夜は『献呈』を弾くつもりだったみたい。でも、いずれにしても願ったり叶ったりだわ」
ジュリーはこれまで聞いた彼の演奏を思い出した。
「ムッシューのシューマンはこれまで六回か七回くらい聞いているはずだけれど、とにかく素晴らしいの。特に10月末の『クライスレリアーナ』や年明け最初の小演奏会で聞いた『幻想曲』が印象的だったわ。それから、クリスマス直後の『キアリーナ』も……前に話した通り、そのせいで眠りが浅くなって例の幽霊を見ることになってしまったのだけれど。どれもロベルト・シューマンが最愛の妻にして天才ピアニストのクララを想って作曲した曲だからこんなに心を動かされるのかしら?前に音楽雑誌でそんな逸話を読んだことがあるの。だから、今夜の『献呈』もきっと素晴らしいと思うわ。だって、まさにクララとの結婚前夜に彼女に『献呈』された曲なんだもの!」
ジュリーが一息に言うと、アメリアは少し眉を上げた。
ジュリーははっとして握り合っていた手を解き、その手で両頬を包んだ。
つい話し過ぎてしまった。
「ごめんなさい。音楽のことになるとつい……」
ジュリーは顔が熱くなるのを感じた。
すると、ふと昨日のムッシュー・シャイデマンの言葉が思い出された。
「そういえば、昨日ムッシュー・シャイデマンが、来月で<ベル・クラルテ学院>を去るようなことをおっしゃっていたのだけど。アメリア、何か知っているかしら?」
「いいえ、今初めて聞いたわ。オーストリアにお帰りになるのかしら?」
「そうかもしれないわ。『幸いなるオーストリアよ』とか何とかとおっしゃっていたから……」
「『幸いなるオーストリアよ』?……ムッシューは本当にそうおっしゃったの?」
ジュリーはそう聞き返すアメリアのヘーゼルの瞳に閃きが走るのを見た。
「ええ、確かにそうおっしゃったけれど……」
閃きの意味を捉えきれないジュリーが戸惑っていると、アメリアは真剣な顔で口を開いた。
「『幸いなるオーストリアよ』……それって、きっと『戦いは他のものに――」
アメリアが何かを言いかけたとき、遅れていたムッシュー・シャイデマンが燕尾服の裾を翻してサロンに入室してきた。
「お嬢様方(Mesdemoiselles)!今夜は素敵な晩ですね!」
彼は陽気に挨拶するとすぐに曲目を紹介し始めた。
事前にジュリーが聞いていた通り、「献呈」を始めとしたシューマンの曲だった。
それから間もなく始まったムッシュー・シャイデマンの演奏は、いつもの通り素晴らしかった。
しかし、ジュリーはどうにも集中して聞くことができなかった。
つい隣のアメリアの横顔を盗み見てしまう。
そこに何らかの確信が映っている気がして仕方がなかったのだ。
演奏が終わると、喝采を浴びたムッシュー・シャイデマンは深々とお辞儀をした。
喝采が止むと、ムッシューも聴衆たちもバラバラと前室へと移動し始めた。
そろそろディナーの準備が整う時刻なので、前室の人々に合流した方が良さそうだ。
しかし、アメリアは椅子に座ったまま動かなかったので、ジュリーもそれに倣った。
そして、サロンに人気がなくなると、彼女はジュリーに目配せしてから立ち上がった。
そのまま歩き出した彼女が向かったのは、先ほどまでムッシュー・シャイデマンが弾いていたベヒシュタイン社製のピアノの影にある飾り棚だった。
「ジュリー、誰か入ってこないか、扉の方を見ていて!」
アメリアは小声だがはっきりと言った。
ジュリーは訳もわからないまま、体ごと扉の方を向いた。
差し当たって誰かがサロンに戻って来る様子はなかった。
そうしている内に、背後でアメリアが飾り棚を開けて何かを取り出した気配を感じた。
「アメリア、何をして――」
「ごめんなさいね、ジュリー」
ジュリーが振り返ろうとしたとき――アメリアの謝罪の声を聞くと同時に頭に違和感を覚えた。
「ええ?!」
ジュリーは思わず声を上げ、ディナーの前にメイドが念入りに整えてくれた髪を押さえた。
そうせざるを得なかった。
アメリアが彼女の膨らんだ髪の中に何かを入れたからだ。
「アメリア?!」
「本当にごめんなさい、ジュリー。今夜はあなたの髪の方がよく膨らんでいるものだから。どうかそれをディナーが終わるまで落とさないで!」
レディのドレスにポケットなどない。
ヘアパッドを入れて膨らませたポンパドゥールは物を隠すのには最適ではある。
でも――。
「一体何を……?」
髪の中で重くはないが軽くもない何かが少し動くのを感じた。
固いもののような気がする。
ジュリーは、アメリアに不安な視線を向けた。
一方のアメリアのヘーゼルの瞳はジュリーを真っ直ぐに見つめていた。
「これはまだ見つかっていなかったのね。でも、気づかれたら最後、すぐに隠されてしまうわ。そうなったらもうこの件を追及することはできなくなると思うの。しかも、今夜が最後の機会かもしれないわ……。どうか頼むわよ、ジュリー。今、あなたの髪の中に入っているものが、マダム・ローフォードを救う鍵になるのだから」
「マダムを救うって何から?誰から?」
ジュリーが問いかけたとき、隣の前室で人々が動き出す音が聞こえた。
皆が食堂に移動する準備を始めたのだ。
アメリアはジュリーの腕をとり、頭をあまり大きく動かせない彼女を支えるように歩き始めた。
そして、耳元で囁いた。
「それは、もちろん、『ベル・クラルテの幽霊』――ムッシュー・シャイデマンからよ」
推理中の方向けのご案内です。
次章以降アメリアによるHowとWhy中心の推理が展開されます。
推理をご準備いただけるとよりお楽しみいただけるかと思います。
【登場曲】
ムッシュー・シャイデマンが9月に演奏した「ショパンの『スケルツォ第2番』」
Krystian Zimerman - Chopin: Scherzo No. 2 in B-Flat Minor Op. 31
https://youtu.be/RQn34klqSQI?si=_rVtWorm4bsjQPmQ
(この曲とリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」が演奏家としての彼の十八番です)
ムッシュー・シャイデマンが演奏した「シューマンの『献呈』」
Evgeny Kissin - Schumann-Liszt - Widmung (Liebeslied)
https://youtu.be/-5_jzx1mPLA?si=DPDhtrSEB9zZz_Am
(元は歌曲集「ミルテの花」の第1曲ですが、実際にムッシューが演奏したのは上記リストによるピアノ編曲版です)
【補足】
・実際、この時代のジュリーやアメリアのような上流中産階級の令嬢が結婚できなかったらどうなる?
→自分に十分な財産があったり親に養ってもらえる場合は、経済面は心配ありませんが、女性として劣っている思われる等肩身の狭い思いをすることになります。
(にもかかわらず、親兄弟の世話のために敢えて娘を手元に残す例もあり、現実はなかなか複雑です)
財産がない場合は、上流中産階級に留まりたければ、親戚を頼るか、裕福なレディの付き添い人(家庭教師まで「落とす」と階級が一段落ちてしまいます)になるくらいしか選択肢がありませんでした。世話をしてくれる人の心づもり次第の生活です。
【参考】
原光子「クララ・シューマン、真実なる女性 完全版」,古典教養文庫, 2018年(初版1941年, 第一書房)




