9. 少女たちの恐れ
※少女たちが性被害を心配する描写が含まれます。関連して現代から見れば偏った1900年代の価値観への言及があります。
結論から言えば、ジュリーはディナーを乗り切った。
できるだけ頭を動かさないように気をつけながら、完璧な角度でスープスプーンを持ち上げ、魚の骨も手際よく避けた。
生徒たちの練習のために、敢えて出された皮付きのオレンジだってデザート用のナイフとフォークで優雅に口に運んだ。
もちろん、隣に座った生徒とも難なく会話をこなし、サロンで紅茶をいただく際は、最小限の移動でやり過ごした。
アメリアが言っていたこと——「マダム・ローフォードをムッシュー・シャイデマンから救う」——も気になって仕方がなかったが、髪の中にあるものを落とさないことに必死で、マダムやムッシューを観察するどころではなかった。
そして、ディナーの全行程が終わると、寝室に戻ってすぐメイドの手助けを待たずに髪を解いた。
そこから出てきたのは――。
***
「――どうしてこのロケットなの、アメリア?」
ジュリーは首にかけたロケットを一度撫でて言った。
ディナー前にサロンの飾り棚から持ち出されたロケット――元はド・モンペラ家の所有だったものが、この屋敷と一体となって売却されたのだろう――は、ジュリーの髪から取り出された後、手持ちのペンダント用チェーンが通されていた。
「それこそがマダム・ローフォードが、ムッシュー・シャイデマンの夜の訪問を隠すために幽霊の話を作り上げた証拠なのよ」
アメリアは言い切った。
消灯後、密かに寝室を抜け出した二人は三階の廊下の南側、マダム・ローフォードの寝室の隣のリネン庫に身を潜めていた。
狭いリネン庫は、棚に保管されている真っ白なリネンから香る爽やかなラベンダーの芳香に包まれていた。
その部屋の隅に立つアメリアの手には先ほど密かに図書室から持ち出した「ド・モンペラ家年代記」が握られている。
彼女の隣に寄り添うジュリーは、首にかけたロケットを開き、手元のランプで照らした。
ロケットには、巻き毛の黒髪の若い女性の肖像画がはめ込まれており、縁に「ガブリエルを偲んで(En souvenir de Gabrielle)、1860」と刻印されている。
ジュリーはそれをそっと閉じてからアメリアに問いかけた。
「アメリア、私全然話についていけていないの。さっき、幽霊の正体はムッシュー・シャイデマンだと言ったわね?つまり、この三階の廊下で目撃された仮面の男はムッシューだったということ?」
ジュリーは困惑してランプを持っていない方の手で紺色のスカートを撫でつけた――消灯後にベッドを抜け出した二人は、互いに手伝い合ってナイトドレスから人前に出られる服に着替えていた。
「ええ、そうよ。あなたや他の子たちが目撃した仮面の男は、マダム・ローフォードの部屋を訪ねるムッシュー・シャイデマンだったのよ」
アメリアの確信のこもった口調に、ジュリーは息を呑んだ。
未婚のレディであり、教師でもあるマダムが夜中に男性の訪問を受けていたなど大問題だ。
校長や他の教師に知られれば、マダムは即日この学院を追い出される。
「まさか!どうしてそう言い切れるの?」
「実は、最初から少し疑ってはいたの」
アメリアは「ド・モンペラ家年代記」を片手に持ち直し、空いた手でスカートのポケットから一枚のメモを取り出した――生徒たちの幽霊の目撃証言をまとめたメモだ。
彼女はそのメモをジュリーが持っているランプの明かりが十分に届く位置で広げた。
「ほら、これを見て。生徒たちが目撃した男性の幽霊は、いつも水曜日深夜か木曜日の未明に現れているわ」
ジュリーはアメリアが指し示した仮面の男の幽霊が目撃された日付を辿った。
日付がわかっているものは、メアリーの10月31日の深夜、ジュリー自身の12月27日の未明、シンシアの1月3日の未明。
どれも「水曜日の深夜か木曜日の未明」の条件に当てはまる。
「確かに、水曜日はムッシュー・シャイデマンが学院のディナーに出席する日ね。じゃあ、ムッシューは毎週のディナーの後でマダム・ローフォードに会いに来ていたということ?」
「おそらく、毎週ではないと思うの。ほら、あなた言っていたじゃない。ムッシューが小演奏会で弾くシューマンが印象的だって」
「ええ、言ったけれど……」
ジュリーは改めて目撃情報のメモを見返しながら考えた。
メアリーの10月31日の深夜――その夜ムッシュー・シャイデマンはシューマンの「クライスレリアーナ」を弾いた。
ジュリー自身の12月27日の未明――この前夜はシューマンの「謝肉祭」。特にその内の一曲「キアリーナ」が印象的だった。
シンシアの1月3日の未明――この前夜、年明け最初の小演奏会の曲目はシューマンの「幻想曲」だった。
「あら?どの日もムッシューが小演奏会でシューマンを弾いた直後だわ」
「ええ、それが『今夜会いに行く』という合図だったのよ。小演奏会の間、マダムはいつも前室で生徒たちと歓談しているから、ちゃんと聞こえていたはずよ」
アメリアのヘーゼルの瞳はランプの明かりに煌めいていた。
「ムッシューは、シューマンの曲で訪問予告をしておいて、ディナー後に帰るふりをして暫く屋敷内のどこかに隠れていたのよ。この屋敷にはたくさん部屋があるから隠れ場所には困らないわ。そして、夜中に使用人が寝室に引き上げるのを待って、三階に移動したのだわ。ムッシューが目撃された廊下の南側には、使用人用の階段があるから、それを使ってね。そして、マダムの部屋で過ごした後、明け方にその階段で下まで降りて使用人用の裏口から帰ったのよ。明け方の目撃が集中している午前4時半頃なら、下働きの使用人が働き始める午前5時まで少し余裕があるから、他人に見られることなく帰れると思ったのね。実際には生徒に見られてしまったわけだけど……」
アメリアの説明には筋が通ってはいるが、ジュリーは俄かには信じられなかった。
「でも、どうして、ムッシューがマダム・ローフォードを訪ねたとわかるの?他の先生かもしれないし……生徒かも……」
そう言いながらもジュリーは、ピアノのレッスンでいつも皆の演奏を褒めてくれるムッシュー・シャイデマンがよりにもよって生徒を夜に訪ねたなんて思いたくなかったし、かといって、あの厳格なマダムが夜に男性の訪問を受けたとも思えない。
「第一には、前も言った通り、1月3日に仮面の男を見たシンシアがマダムに相談して以来、目撃が止んだのはタイミングが良すぎるわ。それに、ムッシュー・シャイデマンがシューマンを弾かなくなったのも同じタイミング。きっとマダムがムッシューに訪問を控えるように警告したから、訪問予告のシューマンを弾く理由がなくなったのね。そして、第二には、さっきあなたが教えてくれたムッシュー・シャイデマンの言葉よ。ムッシューは昨日、近々学院を去ることを示唆しつつ『幸いなるオーストリアよ』とおっしゃったのよね?」
「ええ、そうおっしゃったわ」
「私も昨日、マダム・ローフォードから気になる言葉を聞いたの——『戦いは他のものに任せよ』と」
「あら?それ、どこかで……」
ジュリーの脳裏に数年前、英国で家庭教師に欧州の歴史を習ったときの記憶が過った。
<ベル・クラルテ学院>に来てからも、やはり歴史の講義で同じことを聞いた。
その言葉がジュリーの口をついて出た。
「『戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ――結婚せよ』」
これは、諸国との婚姻を通じて戦わずして勢力を拡大したオーストリアの統治者のハプスブルク家――ひいてはオーストリアの幸運を称える格言だ。
ジュリーは目を見開いた。
「二人は同じ格言を口にしていて、それは『結婚せよ』に繋がる……。まさか、二人は結婚しようとしているということなの、アメリア?」
「ええ。他の状況と合わせて考えると、間違ってはいないと思うの」
アメリアがそう言ったとき、どこからか微かな物音がした気がした。
アメリアは素早くリネン庫の扉に寄って、扉を微かに開けて廊下の様子を探ったが、首を振った。
廊下に変わった様子はないようだ。
「でも、二人が結婚しようとしているのなら、私たちがマダムをムッシューから救おうとしているのは何故?そりゃあ、夜中に会っていたのは不品行なんでしょうけど、きっと想いが……その……行き過ぎてしまったのよ。でも、結局、結婚するのであれば、二人は婚約中ということだわ。このままマダムが先日のマドモアゼル・ベルナールのように結婚退職すれば問題にするほどのことではないのではなくて?」
ジュリーが疑問を呈すると、アメリアは重々しく言った。
「夜中に会ったのが一度きりだったらそうかもしれないけれど……。でも、仮面の男が最初に目撃されたのは去年の9月――それから何ヶ月もの間ムッシュー・シャイデマンはマダムの部屋に通っているわ。しかも、私たちが知る限りで9月が最初というだけだから、本当はもっと前からかも……」
「確かにおかしいわね。真剣な交際なら、何ヶ月も不品行を続けずにすぐ結婚するはずだわ。特にマダムは真面目な女性だもの」
「ええ、そうなの。それにマダム・ローフォードは最近様子がおかしかったわ。この前は、ひどく疲れているように見えたかと思えば、昨日は何かを諦めてしまったかのような……。だから、私……マダムはこれまで不本意にムッシューの訪問を受け入れていて、更に今は、不本意に結婚しなければならない状況に追い詰められているのではないかと思っているの」
「どうして?家同士が決めたことでもなさそうだし、本当に嫌なら断ることもできるのではないかしら?」
「あのね、ジュリー。こんなこと考えるべきじゃないのはわかっているのだけど……でも、私たちの母や家庭教師、この学院の先生方がいつも警告していたことを考えると、恐ろしい可能性に思い当たってしまうの」
アメリアのヘーゼルの瞳に揺れが映った。
「つまり、マダムが純潔を……不当に奪われてしまったのだとしたら?」
ランプに照らされたアメリアの顔は強張っていた。
いつかの母の言葉がジュリーの耳の奥で響いた――「特に若い男性は警戒してもし足りないくらいよ」。
もし、マダムが不当に純潔を奪われ、それを盾に不本意な要求を呑まされ、強引に結婚を迫られているとしたら?
ジュリーの心臓に氷のような冷たさが広がっていく。
不当に純潔を奪われるというのがどういうことなのか、令嬢育ちのジュリーにははっきりとはわからない。
しかし、恐ろしいことに違いない。それだけは確かだ。
「校長先生や他の先生に相談するわけにはいかないわ。どんなに不当な手段で奪われたのだとしても、皆に知れたら、『軽率だった』『誘惑した』と責められて解雇されるのはマダムの方だもの。不名誉な解雇では次の職のための紹介状も得られない……。かといって、望まない結婚を強いられるのも違うと思うの」
アメリアのヘーゼルの瞳の奥には何かが燃えていた。
「だから、私は今夜、ムッシュー・シャイデマンを止めたいの。ムッシューは今夜シューマンを弾いたからきっとここに来るはずよ。でも、ジュリー、もし怖かったら部屋に戻ってちょうだいね。ここまで一緒に居てくれただけで感謝しているのだから」
そう言ってアメリアは心配そうにジュリーを見つめた。
正直、ジュリーは怖かった。
あの仮面の男の「幽霊」を見たときと同じように、体の底に震えを感じていた。
でも、ここで逃げ出すのは嫌だった。
ジュリーは真っすぐにアメリアを見つめ返した。
「いいえ、アメリア。私はここにいるわ。マダムは声を上げることができないのだもの。私たちで止めないといけないわ!」
ジュリーが言い切ると、アメリアは頷いた。
「ありがとう、ジュリー。本当に心強いわ」
アメリアは真剣な顔で続けた。
「おそらく、ムッシューはこの三階に来たらすぐにマダムの部屋に入るはずよ。廊下で騒ぐわけにはいかないから、私たちも一緒にマダムの部屋に入ってしまった方がいいわね。それからムッシューを説得しましょう」
「それしかないわね。でも、もし白を切られたら?例えば『これは今夜一回きりのことで、すぐに結婚するから見逃してくれ』と言われたら反論できないわ。マダムは騒ぎ立てるより、耐えて従うことを選ぶでしょうし……」
ジュリーが不安げに言ったが、アメリアは口元に笑みを浮かべた。
「大丈夫。私たちには証拠があるもの。マダムには申し訳ないけれど、まずはマダムがシンシアに沈黙を守らせるために敢えて『仮面の男』が幽霊であるかのような話を仕立てたことを認めてもらうわ」
アメリアは自分が持っている「ド・モンペラ家年代記」とジュリーの首にかかっているロケットを視線で指し示した。
「それにね、ムッシューはシンシアに目撃されたことがわかった時点で一旦夜の訪問をやめているわ。だから、ここまで知った生徒がいるとわかれば、結婚についても事を荒立てずに諦めてくれるとは思ってはいるのよ……」
アメリアは笑みを崩さなかったが、その表情はどこか固く口調も不確かだった。
少女に過ぎない二人が大人の男性に立ち向かえるのかは定かではなかった。
しかし、やはりここまでわかっていて、何もせずにいられるわけがない。
そのとき、リネン庫の扉の向こうで物音が聞こえた。
先ほどとは違ってはっきりとした物音だ。
「ムッシュー・シャイデマンが来たのかしら?」
二人は恐る恐る扉を開け、廊下へと出た。
ジュリーはランプを高く掲げ、そこにいた人影を照らした。
しかし、そこにいたのは彼ではなかった。
ジュリーはその人の視線がアメリア――と彼女が持っている本に向けられた気がした。
そして、その人は大きなため息をつき、英語で言った。
「お嬢様方(Young ladies)。全く、お二人とも言っても聞かないのですから……」
それは白いナイトドレスの上に深緑色のドレッシングガウンを羽織った眼鏡の女性――マダム・ローフォードだった。
推理中の方向けのご案内です。
次章で全ての謎が明かされます。
マダムが幽霊話を仕立てた証拠とは?
そして、事態は必ずしもアメリアの思惑通りには展開していないようですが、本当に彼女の推理は全て正しいのでしょうか?
というあたりを考えていただけるとよりお楽しみいただけると思います!
次回更新でエピローグまで投稿し、本編は完結となります。




