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7. 戦いは他のものに任せよ


 それからも、ジュリーとアメリアはお互いに<ベル・クラルテ学院>での一番の仲良しだった。

 しかし、二人の間で交わされる会話はそれまでとは決定的に違っていた。

 

 講義で学んだことについては意見を交換したが、幽霊事件についての意見は交換しなかった。

 次の休日の過ごし方については希望を語り合ったが、将来についての希望は語り合わなかった。

 フランス語の文法の疑問については議論したが、人生の疑問については議論しなかった。


 ジュリーはアメリアをこんなにも遠く感じたことはなかった。

 しかし、今、彼女を遠ざけているのは自分の方であることもよくわかっていた。

 「あなたの心の準備ができたら知らせてちょうだい」とアメリアは言ったが、そんな日が来ることはないのだとどう伝えれば良いのかわからなかった。


 そんな日々が一週間ほど続いた後、ジュリーは<ベル・クラルテ学院>のカリキュラムの中で最も好きな時間を過ごしていた。

 音楽教師ムッシュー・シャイデマンによるピアノのレッスンだ。

 ピアノのレッスンは大人数ではできないので、生徒たちはレベルごとに二、三人に分けられ、何回かに分けてレッスンを受ける。

 ジュリーは学院の中での上から二番目のグループに属していて、毎週火曜日の午後が彼女たちに割り当てられた時間だった。


「お嬢様方(Mesdemoiselles)、ショパンのノクターンは今月で終わりです。来月はまたモーツァルトに戻りますからね!」


 レッスンの冒頭、音楽室で生徒たちの前に立ったムッシュー・シャイデマンは、そのブラウンの瞳に歓喜を滲ませながら、微かに訛りのあるフランス語で宣言した。

 オーストリアのザルツブルク生まれの彼は地元の偉大な音楽家モーツァルトを贔屓しているのだ。

 とはいえ、少し長めの黒髪に整った顔立ちの彼は、ジュリーがいつか音楽雑誌で見た作曲家リストの若い頃の肖像に似ていた。

 ちなみに、このレッスンにはジュリーと他二人の生徒に加えて、監督役の女性教師が同席している。

 教師といえど、男性である限りは監督役の付き添いなしに生徒たちに教えることはできない。

 特にムッシュー・シャイデマンは、未婚かつ年齢も30代半ばと他の男性教師に比べて若いので、同じく未婚で30歳前後のテニス教師ムッシュー・ピエルスと並んで厳しく監督されているような気がするとジュリーは思っていた。


 生徒たちは順番にそれぞれの課題曲を演奏し、ジュリーの番になった。

 演奏するのはショパンのノクターン第1番――今月初めから練習しており、ほぼ仕上がっている。

 このときばかりは、ジュリーも余計なことは考えずに演奏に集中しようとするが、その抒情的でもの哀しい旋律に引っ張られてついつい最近の出来事を思い出してしまった。

 廊下で見た幽霊、没収されたシャーロック・ホームズ、ド・モンペラ家の悲劇、アメリアとの行き違い――。


「いやあ、素晴らしいですね、マドモアゼル・ウィンクラー。特に後半の盛り上がりにきちんと指がついていっているのが良かった。大抵の人はそこで疲れてしまうものです」


 ムッシュー・シャイデマンは演奏を終えたジュリーをいつも通りに褒めた。

 オーストリア人で、スイスに来る前はウィーンに長く住んでいたムッシューは大らかな気質なので、どんな演奏でもまずは褒めてくれる。

 とはいえ、今日のジュリーの演奏はそれなりの出来だったので、全くのお世辞ではないのだろう。


「しかし、何というかな……何か心配事があるような音でしたね。自信がない部分がありますか?」


 ムッシュー・シャイデマンの指摘にジュリーの頬は少し赤くなった。

 演奏上の心配事はないのに彼がそう感じたのなら、おそらく私的な心配事が演奏に表れてしまったということだ。

 ジュリーが言葉に詰まっていると彼は全てを察したように頷いた。


「なるほど、なるほど。若さ故のことなのでしょうね。でも、ピアノの演奏には好都合です。それを利用して曲の情感を高めましょう」


 そう言ってムッシュー・シャイデマンは、ノクターンの何か所かを示して、情感の表現を指導してくれた。

 ジュリーは彼が彼女の「心配事」を深く追及しなかったことに安堵していた。

 もっとも、監督役の女性教師の前なので、あまり私的な会話はできないのだが。


 その日は、ジュリーも他の生徒たちもあまり直される部分はなかったので、レッスンは早めに終了した。

 音楽室を出る前に、ジュリーはムッシュー・シャイデマンにずっと気になっていたことを質問した。


「ムッシュー、毎週の水曜日の小演奏会ですが、もう当分シューマンはお弾きにならないのでしょうか?」


 ムッシューは年明け最初の1月2日の小演奏会で、シューマンの「幻想曲」を演奏した。

 シューマンが一度は引き裂かれつつも後に結婚する恋人クララへの愛を込めて作曲したというこの曲の激しくも美しい旋律がジュリーの記憶に深く刻まれていた。

 しかし、彼は、それ以降この4月末に至っても、小演奏会で一曲もシューマンを弾いていなかった。


 ムッシュー・シャイデマンは少し眉を上げた。


「おや、あなたはシューマンがお好きなのですか?」

「ええ。以前はそうでもなかったのですが、ムッシューがお弾きになったのを聞いて好きになりました。どの曲の演奏も素晴らしかったですが、先日の「幻想曲」や10月末の『クライスレリアーナ』などが心に残っています。作曲家の情熱がそのまま表現されている気がしました」


 ジュリーは率直に答えたが、音楽室の隅に座っている監督役の女性教師の方をちらと振り返った。

 未婚のレディが男性に対して音楽の話題でも「情熱」などという言葉を使うのは不適切かもしれないと思ったのだ。

 しかし、女性教師は他の生徒と話していて、ムッシュー・シャイデマンとジュリーの会話を聞いていないようだった。


「ありがとう。確かに私はロベルト・シューマンに共感することが多いのですよ。もちろん、一番好きな作曲家はモーツァルトなのですけどね」


 彼は冗談めかして言った。

 そして、顔にかかった黒髪を耳に掛けてから続けた。


「でも、そうだな……明日の小演奏会では、シューマンを弾くと思いますよ」

「本当ですか?」

「ええ、おそらく『献呈』と、あと数曲弾くことになろうかと思います」


 ジュリーは思わずその深い青の瞳を見張った。

 最近落ち込むことも多かったが、これは間違いなく朗報だ。

 「献呈」といえば、シューマンが結婚前夜に妻に贈った歌曲集の最初の曲。

 ムッシュー・シャイデマンが弾けば、きっとより素敵な曲になるはずだ。

 

 自然と微笑んだジュリーに向けて彼も微笑みを返した。


「大切な人への想いを表現しますから、あなたも大切なご友人を連れて聞きにいらしてください。マドモアゼル、あなたのお悩みはきっと大切なご友人とのことでしょう?」


 ジュリーの心臓が跳ねた。

 先ほどショパンのノクターンを弾いたときに、見透かされてしまったようだ。

 ジュリーは頬が熱くなるのを感じ、つい両手を頬に当てた。


「はい、そうします」


 恥じ入りながら答えたジュリーを見て彼は少し笑った。

 そして、真面目な顔になって続けた。


「マドモアゼル・ウィンクラー、恥ずかしい話ですが、私はウィーンで演奏家として身を立てることができず、職を求めてベルリンやパリ、ヴェニスを転々とした後、スイスに来ました。最初は仕上げ学校での指導なんて、ご令嬢方の暇つぶしのお付き合いだと思っていたのですが、大きな間違いでした。ご令嬢方の中にも才能をお持ちの方がいて、そうした『演奏家』の演奏は私にとって大いに勉強になりました。あなたの自由闊達で素直な演奏もその一つでしたよ」

「急に何をおっしゃるのです?ムッシュー」


 ジュリーは首を傾げた。

 まるでもう<ベル・クラルテ学院>を去ってしまうような言い方だ。


「いえ……ここでの全ての出会いに感謝しているということです。しかし、まあ、『幸いなるオーストリアよ』とはよく言ったものです。来月のモーツァルトまでは、きちんとやりきりますからご安心を」


 そう言ってムッシュー・シャイデマンは片づけに没頭し始めてしまった。

 その後、暫くジュリーは彼の言葉の意味に思いを巡らせたが、答えを出すことはできなかった。


 ***


 ジュリーがムッシュー・シャイデマンのレッスンを受けていた頃、アメリアは他の生徒たちと共にサロンで午後のお茶会に出席していた。

 もちろん、これも単にお茶や軽食を楽しむ時間ではない。

 将来、生徒たちが家庭の女主人となった際に、適切にお茶会を催すための訓練なのだ。

 今回、アメリアと他数人の生徒が主催の女主人役となり、客人役の生徒や女性教師のカップの紅茶を注いだ。

 ただし、彼女たちの階級の女主人がしても良いのは、せいぜいお茶を注ぐことだけだ。

 軽食のとりわけなどの他の給仕は使用人の仕事であり、彼女たちに期待されるのは使用人を監督すること。

 そして、もう一つ大切なのは場の制御だ。

 話し過ぎる人をさり気なく牽制し、話していない人に会話を振ることで、その場の誰にも不満を持たせないようにしなければならない。

 アメリアはそんな女主人役として期待されている役回りをこなしながらも、ついジュリーのことばかりを考えていた。

「『レディに相応しくない本に興味を抱いたことを謝罪する』……上手く言えないけど、何故か私にはそれができないし、したくないの」――あのときのジュリーの言葉が棘のように胸に刺さっていた。

 

 思い出したのは子供の頃に聞いた両親の会話だった。

 アメリアの両親は全く性格の違う二人だった。

 一昨年亡くなった父は、優しく大らかだがどこか貴族的無頓着さのある紳士だった。

 一方、今は一人で家を守っている母は、厳しいが愛情深く、中産階級的堅実さのあるレディだ。

 そんな両親だが、不思議と喧嘩になることはなかった。

 しかし、ただ一度だけ危うく議論が議論を超えそうになったことがあった――。

 

 心ここにあらずのアメリアだったが、体に染み付いたマナーは彼女を裏切らず、無事に女主人役をやり切った。

 しかし、ひどく疲れていた。 

 アメリアは今すぐにでもサロンの長椅子に倒れ込みたいのを何とか堪えた。

 すると、部屋の反対側からマダム・ローフォードが彼女に歩み寄ってきた。

 アメリアは先日ジュリーが体調を崩したとき以来、マダムとはほとんど会話を交わしていなかったので少し身構えた。

 しかし、彼女に声を掛けたマダムの口調はいつになく穏やかだった。


「マドモアゼル・グレンロス、その後マドモアゼル・ウィンクラーはどうですか?……まだ幽霊のことでショックを受けているのではないかと心配しています」

「ええと……マドモアゼル・ウィンクラーは、幽霊のことはあまり不安には思っていないように感じています、マダム」


 アメリアはひとまず正直に答えた。

 あのとき、確かにジュリーは幽霊が本当にいる可能性に衝撃を受けたように見えた。

 しかし、その後冷静に話した際には、寧ろ「幽霊説」には懐疑的でマダム・ローフォードに疑念を持っているようだった。


「そうですか……それなら良かったわ」


 マダム・ローフォードは柔らかく微笑んだ。

 アメリアは、先日図書室で会ったときに、マダムはどこか疲れているように感じていたが、今日は違った。

 彼女は微かに明るい表情をしていた。

 しかし、どこか諦念が漂っているようにも見えた。


「それから、マドモアゼル・グレンロス。あなたには厳しく言い過ぎてしまいました。ごめんなさい」


 マダムの謝罪にアメリアは眉を上げた。

 アメリアが幽霊事件を調べることでレディとしての規範を逸脱しかけたのは事実なのだから、マダムが謝罪する所以はないように思われた。


「あの、マダム・ローフォード?一体……?」


 アメリアが戸惑っていると、マダムは静かに続けた。


「あなたはどこか私に似ている気がしました。幸福より戦いを選んでしまうような……そんな気がしたのです。でも、考えてみれば、あなたは私よりずっと高貴なお生まれですし、思慮も深いわ。きっと迷わず幸福を選べますね」

 

 頷くのが精一杯のアメリアの脳裏に、両親の行き過ぎになりかけた議論のことが思い出された。

 アメリアが12歳の頃だった。

 「これ以上アメリアの知性を刺激しないでくださいな。レディとして相応しくない探究心を持てばこの子が苦しむだけです」――父の教育方針に従った結果、アメリアのドイツ語とイタリア語が()()()()()()()()ことに気がついた母が言った。

 「大丈夫だよ、エレノア。探究心があることは素晴らしいじゃないか。しかも、この子は隠すのが上手い。それが何よりの幸福だね」――父は何でもないことのように言い、それからも母に隠れてアメリアにレディに相応しくないこと――ラテン語、応用数学、父の専門だった法学――を教えた。

 

 父はアメリアの探究心を抑えずに育てたが、それを隠すことが前提だった。

 母は娘の探求心をレディに許される範囲に抑えようとしたが、それは隠すことの苦しさを知っていたからだった。

 もし、許される範囲を超えて持ってしまったら、上手く隠さなければレディとしての幸福は得られない。

 

 アメリアが黙っているとマダムは続けた。


「Bella gerant alii…きっとそういうことなのよね……」


 最後にマダムはそう呟くと「またディナーで会いましょう、マドモアゼル」とだけ言って、行ってしまった。

 アメリアはそのラテン語を聞いて眉を上げた。

 マダムは、アメリアがラテン語を解することは知らないはずだ――通常女性はせいぜい教養として簡単に学ぶくらいだ。

 しかし、娘の教育に熱心すぎた父により、本格的なラテン語の指導を受けていたアメリアはマダムの言葉を理解してしまった。

 「戦いは(Bella)他のものに(gerant)任せよ(alii)」――ただ、そこに込められたマダムの意図については、ただ首を傾げるばかりだった。


推理中の方向けのご案内です。

次章の最後に幽霊(仮面の男)の正体が解き明かされます。

それ以外の部分(主にHow/Why)の解明は次々章以降なので、次章を読んでからゆっくり推理していただいても大丈夫です。


【登場曲】

ジュリーの課題曲「ショパンのノクターン第1番」

Chopin: Nocturne No. 1 in B-Flat Minor, Op. 9 No. 1

https://youtu.be/4N_ZatMoaAo?si=KyNHz__A-d7LGK2V


1月2日の小演奏会でムッシュー・シャイデマンが弾いた「シューマンの『幻想曲』」(第1楽章)

Schumann: Fantasie in C, Op. 17: I. Durchaus fantastisch und leidenschaftlich vorzutragen - Im...

https://youtu.be/9dYgNt32YXo?si=aqjBH8aC49XRX16K


10月末にムッシュー・シャイデマンが弾いたシューマンの「クライスレリアーナ」(第1曲)

Schumann: Kreisleriana, Op. 16: No. 1, Äusserst bewegt

https://youtu.be/mR3GqKA25cg?si=fYHIuE6bkB9wab7c


【補足】

・ジュリーのピアノの実力は現代日本の高校生でいえば「音大志望ではないが相当上手い(ただし、曲により得手不得手が出やすい)」くらいに設定しています。

・アメリアの母ミセス・グレンロスのファーストネーム初出回でした。

・シリーズ関連話→「棘のある薔薇」https://ncode.syosetu.com/n5293km/2(本編第1部直後のロマンス番外編です。亡父がアメリアに授けたものが某卿に深く刺さってしまう話。後編に音楽も出てきます)

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シリーズ本編はこちらから。

メラヴェル女男爵ミステリーシリーズ

エドワード朝英国を舞台に、探偵役メラヴェル女男爵(アメリア・グレンロス)が活躍するヒストリカルミステリー×ロマンスシリーズです。
― 新着の感想 ―
ジュリーとアメリアはそれからお互いにモヤモヤしてしまってる状態なのかな…? シャイデマンさんは学院を去ってしまうのでしょうか… マダムローフォードの言葉の意味… 続きを楽しみに読んでいきます(*^^*…
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