6. ベイカー街の二人とベル・クラルテの二人
その晩、ジュリーは医務室で過ごした。
翌朝にはすっかり元気になったジュリーだが、世話をしてくれた管理人のマダムからの「月の障りの間は無理しないように」との助言を素直に受け止め、その日は一日講義を休んで寝室のベッドに留まることにした。
そして、午後、ジュリーを心配したアメリアが自由時間の折に様子を見に来てくれたので、ジュリーはベッドの上で身を起こして彼女を迎えた。
アメリアは書き物机用の椅子をベッドに寄せ、それに腰かけてから切り出した。
「ジュリー、昨日は本当にごめんなさい。私のせいだわ。私が余計なことを追究したから……」
ジュリーは「完璧な令嬢」であるアメリアが涙を流したところを後にも先にも一度も見たことがないが、その時の彼女のヘーゼルの瞳はほんの僅かに潤んでいた気がした。
「アメリア、違うのよ。もちろん、幽霊の件はショックだったわよ?でも、体調不良とは関係ないの。ほら、『いつもの不調』があっただけよ」
アメリアはジュリーの婉曲表現をもちろん理解した。
しかし、彼女はその上で首を振った。
「だとしてもよ、ジュリー。私たちはレディとしての仕上げのためにここにいるのに、私はそれを忘れてしまっていたわ。この件はもうここまでにしましょう。あなたが見たのは本物のガブリエル・ド・モンペラの幽霊だったの。でも、今後は規則を守って夜中に出歩かなければ、もう二度と見ることはないのだから大丈夫よ」
ジュリーはレディとしての慎みを忘れて思い切り眉を寄せてしまった。
「それはおかしいわよ、アメリア。あなたなら気づいているでしょう?」
「何のことかしら?」
「じゃあ、言うけれど、あの『ド・モンペラ家年代記』の家系図、右下が不自然に破れていたわ。例のガブリエルの名前のすぐ右側よ。なんだか怪しいわ。破れ口は古びていなかったから、つい最近破られたのではないかしら?おそらく意図を持った誰かに」
ジュリーはアメリアに鋭い視線を向けたが、彼女は沈黙したままだった。
「それから、マダム・ローフォードもそうよ。何故あんなにタイミングよく図書室に現れたのかしら?私たち……というより、あなたを監視していたのではないかしら?前にあなたが言っていた通り、マダムの反応はどうも気になるわ」
ジュリーが言い切ると、アメリアは視線を落とした。
一瞬、そのヘーゼルの瞳が輝いた気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
「ねえ、アメリア。あなたは私よりもっと色々なことに気づいているはずだわ。それにあなた自身もこの件の真相を突き止めたいのではないの?」
「ジュリー、私はそんなこと思っていないわ。全然思っていないの」
「いいえ、私はあなたを『見ている』だけでなく、『観察』しているからわかるの――」
ジュリーはそう言ってしまってから口を噤んだ。
ずっと避けていた話題だった。
「君は見てはいても、観察はしていない」——それは彼の台詞だった。
ベイカー街の探偵が友人の医師に言った台詞。
「ボヘミアの醜聞」の事件の折に。
あの鮮やかなライトブルーの本の中で。
「ねえ、ジュリー。そのことだけど――」
「お願い、アメリア。今その話はやめて」
「でも、やっぱり、そのこと――例の『シャーロック・ホームズの冒険』の件で、あなたはマダム・ローフォードを少し悪く捉え過ぎじゃないかしら?」
アメリアは遠慮がちに言った。
ジュリーは「そんなことは」と言ったきり、言葉が続かなかった。
その発端は、クリスマス休暇明けにジュリーに届いた小包だった。
ジュリーはクリスマス休暇前に、英国の実家ウィンクラー家に手紙を出していた。
宛名は家の家政婦長だった。
ジュリーの両親は冬の始めからインドの親戚のところへ行き、弟たちは英国内の寄宿学校に残るため、この冬は家政婦長以下の使用人がウィンクラー家の留守を守ることになっていた。
ウィンクラー家に長年仕えている家政婦長はジュリーのことをたいそう可愛がっており、ジュリーの頼みごとなら何でも聞いてくれた。
そこで、ジュリーは彼女への手紙の中で一つ用事を頼んだ——ジュリーの部屋にある彼女の愛読書「シャーロック・ホームズの冒険」をスイスに送ってほしいという内容だった。
そもそも、ジュリーは秋に<ベル・クラルテ学院>に入学する際に、その本を持って行こうとしたのだが、母が渋い顔をした。
確かに推理小説となれば、窃盗や暴力、生々しい金銭の話、不適切な男女交際、何より殺人――レディに相応しくない内容が盛りだくさんだ。
ジュリーの両親はその点には寛容で「シャーロック・ホームズの冒険」は父からの誕生日の贈り物ですらあったが、仕上げ学校では制限されるだろうというのが母の見立てだった。
結果として、母の見立ては正しかった。
学院に到着してすぐに、ジュリーは教師たちがフランスの恋愛小説などと共に推理小説の持ち込みも禁じていることに気がついた。
しかし、一方で、ジュリーは教師たちが理由もなく生徒の私的な所持品や小包を検めることもないことにも気がついた。
つまり、両親が家を空けている隙に家政婦長にこっそり頼んで送ってもらえれば、学院にいてもシャーロック・ホームズの推理を楽しむことができるというわけだ。
そして、彼女は難なくその用事をこなしてくれた。
今思えば、ジュリー一人の楽しみにするだけで満足すべきだった。
しかし、ホームズの物語をこよなく愛するジュリーはその楽しみを友人にも分け与えるべく、その本を希望者に順番に貸し出した。
「シャーロック・ホームズの冒険」は短編で構成されていたので、一つ短編を読了するごとに次の人に回すルールだった。
そして、その貸し出しも三巡目に入っていた4月初めのイースター休暇のすぐ後に、フランチェスカという少々うっかりした学友がその本をサロンに置き忘れ、マダム・ローフォードに没収されてしまったのだ。
マダムはその持ち主を特定することはできなかったようで、生徒全員に向けて呼びかけた。
「持ち主が名乗り出て、レディに相応しくない本に興味を抱いたことを謝罪するならお返しします」と――。
「ねえ、ジュリー」
思い出したくない記憶に囚われていたジュリーは、アメリアに呼びかけられて我に返った。
「私もあなたに借りて『シャーロック・ホームズの冒険』を読んだわ。とても面白くてついつい楽しんでしまったの」
ジュリーが本を貸し出した学友の中にはアメリアもいた。
三巡目で没収されたので、律儀に順番通りに読み進めていたアメリアは、最初の三つの短編――「ボヘミアの醜聞」「赤毛組合」「花婿失踪事件」だけ読んだと言っていた。
「だから、私も一緒に名乗り出て謝るから、マダムに本を返してもらってはどうかしら?」
アメリアは穏やかに提案した。
しかし、ジュリーは受け入れる気にはなれなかった。
「アメリア、私には無理なの」
「どうして?あの本はお父様からの贈り物なのでしょう?取り返すには不本意でも――」
「どうしても無理なの。『レディに相応しくない本に興味を抱いたことを謝罪する』……上手く言えないけど、何故か私にはそれができないし、したくないの」
ジュリーは自分の身体を覆っているブランケットを握りしめた。
現実的に考えてアメリアの言っていることは正しい。
ジュリーが本を取り戻すにはそれしかない。
しかも、ただ借りて読んだだけの彼女も一緒に名乗り出ると言ってくれているのだから、アメリアは正しいだけではなく優しい。
それに、マダム・ローフォードの言っていることだって正しいのだ。
この学院を出た後、ジュリーは社交界に出て結婚相手を見つけなければならない。
そこではレディとしてもっと厳しい目で見られるはずだ。
そんなときに『レディに相応しくない本への興味』を持っている場合ではない。
しかし、「でも」とジュリーは思ってしまう。
でも、そうだとしたら、ジュリーはいつになったら、シャーロック・ホームズを堂々と読めるのだろう。
結婚して既婚のレディになってから――でも、子供も生まれていないのにと言われたら?
子供を産んでから――でも、まだ一人しか産んでいないのにと言われたら?
子供を二人以上産んでから――でも、夫や子供にもっと目を配るべきと言われたら?
そもそも、夫が妻が推理小説を好むことを許さなかったら?
ジュリーは滲んでいく視界を誤魔化すように俯いた。
アメリアはただ優しい口調で言った。
「とにかく、私はいつでも一緒にマダム・ローフォードのところに行くから、あなたの心の準備ができたら知らせてちょうだい。ね?」
ジュリーが黙っていると、アメリアはジュリーの手を一度だけ握って、寝室を出て行った。
一人残されたジュリーは頬に零れ落ちた涙をそっと拭った。
というわけでここまでの引用は全て「The Adventures of Sherlock Holmes」からでした。抄訳は作者によります。
Arthur Conan Doyle 「The Adventures of Sherlock Holmes」(1892)
https://www.gutenberg.org/ebooks/1661
原作はパブリックドメインです。(念のため)




