3. ベル・クラルテの幽霊
「不可解な事件ほどわかりやすく、平凡な事件ほどやっかいだ」――と彼は言ったが、ジュリーはその事件がどちらに分類されるのかよくわからなかった。
***
ジュリーがそれに遭遇したのは1906年12月半ばから翌1907年1月はじめにかけてのクリスマス休暇のある夜のことだった。
クリスマス休暇中、<ベル・クラルテ学院>のほとんどの生徒は本国の家族のもとに戻るが、学院に残る生徒もいた。
少し前から両親がインドの親戚のもとに滞在中のジュリーもその一人だった。
休暇前にジュリーが学院に残ることを知ったアメリアは、自分も学院に残ろうかしらと言ったが、ジュリーは強く帰国を勧めた。
アメリアはこの学院に入学する一年ほど前に父を失ったばかりだった。
そんな状況で、一人娘もクリスマスに帰らないなど彼女の母は必ず寂しがるだろうと思ったのだ。
しかし、すぐにそれを後悔することになった――。
「――じゃあ、ジュリー、あなたはクリスマス休暇の間に幽霊を見たのね?」
そう言いながらアメリアが隣を歩くジュリーに視線を向けたとき、当時の彼女が日曜日に好んで使っていた華やかなピクチャーハットのリボンが揺れた。
毎週日曜日、仕上げ学校の生徒たちは盛装して教会の日曜礼拝に出席する。
行き先は宗派により異なるが、ジュリーとアメリアの属する英国国教会のグループは街中にある教会に行くことになっていた。
教会までの道すがら、二列に並んで歩く生徒たちの最後尾についた二人は、監督役の女性教師に気づかれないよう声を落として、未明に一度打ち切った幽霊の話を再開していた。
「ええ。夜中に廊下の南側の端の化粧室に行こうとして……見たの。男性だったわ」
ジュリーは無意識にベージュの薄手の外套に覆われた腕を撫でた。
しかし、勇気を振り絞って目撃した幽霊の姿をできるだけ詳細に説明した。
その夜、化粧室に行こうとしたジュリーが寝室の扉を少しだけ開けて廊下に人気がないのを確認していると――南側の廊下の端にその姿を見た。
外套を着た男性が、各部屋のある側から使用人用階段の方向に廊下を横切った。
堂々としていて機敏な歩き方からして、せいぜい30代くらいの若い紳士に見えた。
そして、何よりジュリーを震え上がらせたのは、その男が持っていたランプに照らし出された顔だった。
その顔は白い仮面で覆われていた……。
その異様な姿の記憶にジュリーは一瞬眩暈を感じたが、街の石畳を踏みしめる足に力を入れてやり過ごした。
「とにかくその白い仮面が不気味だったの。顔全体が覆われていて……ヴェニスのお祭りの仮面のようだったわ。父の書斎にあったイタリアの画家の画集で見たことがあるの。それで私はベッドに戻って震えて朝を待つしかなかったのよ」
結局、ジュリーは無事に朝を迎えたが、クリスマス休暇中で一番仲良しのアメリアがいなかったので、誰にも相談できなかった。
その後、アメリアが休暇から戻ってきたときには、本当にそんな男の幽霊を見たのか自信がなくなってきていて、何となく言い出せなかった。
「それは正確にはいつのことだったのかしら?」
「あれは12月27日の午前4時半だったわ」
ジュリーはすぐに答えた。
その点には自信があった。
「前夜の12月26日の夜は、ピアノ教師のムッシュー・シャイデマンの小演奏会があったから、日付をはっきり覚えているの。ムッシュー・シャイデマンは、クリスマス休暇中も毎週水曜日の小演奏会を続けてくださっていたのよ」
ムッシュー・シャイデマンは<ベル・クラルテ学院>の音楽教師の一人で、週何回か生徒たちのピアノ指導に来ている紳士だ。
「あなたは音楽にもとても熱心だもの。その記憶はきっと確かね」
アメリアが「音楽にも」と言ったのにジュリーは気づかないふりをした。
もう一つとても熱心だったことについては、今は考えたくなかった。
代わりにあの夜の経緯を思い出そうとした。
「前夜にムッシュー・シャイデマンがシューマンの『謝肉祭』を演奏したのだけど、その中の一曲、『キアリーナ』のせいで眠りが浅かったのだと思うの。すごく印象的だったから……」
ジュリーの頭の中で、そのシューマンの「キアリーナ」が再現され始めた。
作曲家の最愛の女性への思慕が凝縮された情熱的な曲——思わず陶酔しそうになったところでジュリーは我に返った。
幽霊の話を続けなければならない。
「ともかく、それで、日の出前に目覚めてしまって、時計を見たら午前4時半だったから、まだ起床時刻まで3時間もあると思ったのが記憶に残っているわ」
「午前4時半に、三階の廊下の南側に仮面を着けた若い男……」
アメリアはジュリーが語ったことを繰り返した。
そして、眉を寄せながら呟いた。
「まさかとは思うけど……本物の男性だったなんてことは――」
その言葉にジュリーは凍り付いた。
その可能性は考えたこともなかったが、そうだとしたら幽霊以上に恐ろしいかもしれない。
ジュリーが本国で指導を受けていた家庭教師も、この<ベル・クラルテ学院>の女性教師たちも折に触れて制御を失った男性の恐ろしさを説く。
母や親戚の女性たちも同じだ。
「ジュリー、いいこと?あなたのお父様のような紳士は珍しいのよ。特に若い男性は警戒してもし足りないくらいなんだから」――いつか母が語った言葉を思い出したところでジュリーは我に返った。
「でも、それはないわよね?あなたが目撃した幽霊は『堂々とした』歩き方だったというから、男性の使用人ではなく、紳士なのでしょうけど……紳士が夜中に学院の屋敷内に入るなんて考えにくいわ」
アメリアが確かな口調でそう言ったので、ジュリーの表情は和らいだ。
この学院の屋敷には、基本的には生徒の少女たちと女性教師、そして、メイドなど女性ばかりが居住している。
例外は数人の男性使用人だが、彼らは夜は半地下に割り当てられている寝室にいるはずだし、昼間であっても女性たちの私室がある三階には許可なしに近づいてはいけないことになっている。
それにアメリアが言った通り、やはりあの幽霊の服装や歩き方は中産階級以上の紳士に見えた。
この学院の関係者で中産階級以上の紳士と言えば、学院の経営一族のルメール家の男性、または、生徒たちを教える男性教師だ。
しかし、彼らが夜を学院の屋敷内で過ごすことはない。
彼らは学院の外に住んでいて、行事や講義などの用事に合わせて都度訪問してくる。
「確かにそうね。ルメール家の紳士や先生方は、時々客人としてディナーに参加することはあるけれど、ディナー後はお帰りになるわ。屋敷の玄関は就寝前に管理人のマダムが閂をかけるし、窓も施錠されるわね。クリスマス休暇中に玄関が破られたとか、窓が割られたなんて騒ぎもなかったし……」
ジュリーが言ったのにアメリアも頷いた。
しかし、アメリアは再度深い思考に沈んでいるようだった。
暫くの沈黙の後、彼女は呟いた。
「ただ、内部にいた教師や生徒が男性を引き入れたのだとしたら……?」
ジュリーは息を呑んだ。
理論上あり得ることではあるが、レディとしてあってはならない仮説だった。
「あら、ジュリー、驚かせてごめんなさい。でも、それもあり得ないわよね。だって、そんなことをしたら誰であれここから追い出されてしまうもの」
ジュリーはアメリアの言う通りだと思いたかった。
<ベル・クラルテ学院>では、生徒もそれ以外の者も私的に男性の訪問者を迎えることは禁止されている。
まして夜中に男性を引き入れるなど――発覚すれば教師やメイドなら即日解雇だし、生徒ならすぐに家に送り返される。
仕上げ学校という令嬢をレディとして仕上げる場が、令嬢の最大の資産である「純潔」に傷をつける場であってはならない――そもそも、傷どころか一片の疑いすら許されないのだ。
やはりそんな大きすぎる危険を冒してまで男性を引き入れる者がいるとは思えない。
「そうすると、やっぱり幽霊……」
ジュリーの声は震えていた。
本物の男性も恐ろしいが、幽霊だってやっぱり怖い。
「あらあら、そうと決まったわけじゃ――」
アメリアはジュリーの腕をとろうと手を伸ばしかけた。
しかし、その手がジュリーの腕に触れる前に、彼女は別の方に顔を向けた。
前を行く二人の生徒が後ろをちらと振り返ったのに気づいたからだ。
彼女たちは一瞬目配せすると、顔だけを半ばジュリーとアメリアの方に向けた。
「あの……あなたたち、今、幽霊と言ったわよね?」
「もしかして、幽霊を見たの?」
そう声をかけてきたのは、二人と同じく英国からこの学院に来ているサラとメアリーだった。
彼女たちは普段からジュリーやアメリアと打ち解けて会話する学友だが、今日の二人の表情は固かった。
「ええ、まあ……」
ジュリーは少し警戒しながら言った。
幽霊話のような不穏な話はレディに相応しくない。
規則違反として教師に言いつけられては大変だ。
しかし、サラとメアリーは規則のことなど微塵も持ち出さなかった。
代わりに、まずはメアリーが静かに言った。
「私たちも見たことがあるのよ……『ベル・クラルテの幽霊』」
アメリアとジュリーは顔を見合わせた。
幽霊を見たのはジュリーだけではなかったようだ。
冒頭の引用元は下記作品です。抄訳は作者によります。
※現段階では若干ネタバレになりますので、後から確認されることをお勧めします。
https://www.gutenberg.org/ebooks/1661
ジュリーが幽霊を見た未明に目覚めた原因、シューマンの「謝肉祭」の一曲「キアリーナ」はこちら。
Schumann: Carnaval, Op. 9 - 11. Chiarina
https://youtu.be/km2HCXbji3w?si=GY4qKeebg-K-lF7e




