2. 仕上げ学校の夜
<ベル・クラルテ学院>三階の間取り図はこちらです。
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「ベル・クラルテの幽霊事件」を語る際、ジュリーはどうしても事件とは直接関係のないある夜から始めたくなる。
どうせ直接関係ないのであれば、スイスの高級仕上げ学校が舞台なのだから、もっとそれらしい場面から始めたいにもかかわらず。
例えば、示し合わせたように同じ髪型――当時流行していた頭頂部をふんわりと膨らませたポンパドゥール――の少女たちが、これまた示し合わせたように同じような服装――白いブラウスと足首まで隠れる長さのスカート――で、女性教師たちに見守られながら湖畔でピクニックをしている場面。
例えば、同じ少女たちが仕上げ学校の広いサロンで、頭に乗せた本を落とさないようピンと背筋を伸ばして歩く訓練をしている場面。
本来であれば、そんな美しくも儚い場面から始めたい。
しかし、始まりはやはりあの夜だ。
少女たちが皆、白いナイトドレスに着替え、昼間は膨らませていた長い髪を下ろしてきっちり編んでからベッドに入る夜。
切実な悩みに直面する夜。
それは1907年4月の半ば、イースターの祝宴の熱もすっかり収まった後、まだ冬の寒さが残る夜だった。
その夜、もうすぐ17歳になるジュリーは狭いベッドの上で目覚めた。
頭の中では何故かショパンのワルツ第7番が流れていた――何年か前、英国の実家で音楽教師に教わったジュリーのお気に入りのワルツだ。
はっきりとしない意識の中で、彼女はここがロンドンの屋敷にある自分の寝室ではないことを今更ながらに思い出した。
ここは欧州の良家の令嬢が学ぶ全寮制の仕上げ学校――<ベル・クラルテ学院>だった。
とはいえ、何も知らない人が見れば、学院の屋敷は瀟洒な貴族屋敷にしか見えない。
実際、元々はド・モンペラ家という地元貴族の一族が住んでいたと聞く。
ド・モンペラ家は18世紀に隆盛を極めた貴族で、彼らの本拠として建てられたこの屋敷は100室以上の部屋を擁する規模を誇る。
しかし、19世紀後半になり、時代の変化により経済的苦境に立たされた一族は、屋敷を売りに出さざるを得なくなった。
それを買い取ったのが亡夫から莫大な財産を相続したフランス出身の教育家マダム・ルメールだった。
彼女は女子向けの語学学校<ベル・クラルテ学院>を開校し、学院の初代校長となった。1861年のことだった。
そして、そのマダムの息子の妻、二代目マダム・ルメールが1880年代にその学院を良家の令嬢向けの高級仕上げ学校に刷新し、1907年の今に至る。
学院の生徒は16歳から18歳の少女たち。
そして、彼女たちと一緒に暮らすのは、校長マダム・ルメールをはじめとする女性教師、そして、一同の身の回りの世話をする使用人。
ジュリーは前年の秋からそんな生活の中に身を置いていた。
暫くするとジュリーは完全に目覚めてしまった。
彼女の周りにはすっかり見慣れた光景が広がっている。
そこは屋敷の三階にある生徒用の寝室のうちの一つだった。
それなりの広さの部屋にベッドが二つ。
書き物机、クローゼット、小さなチェストもそれぞれ二つずつ。
ジュリーが身を起こして部屋の反対側を見ると、消えかけた暖炉の火が真っ暗な室内を薄く照らしていた。
その光を頼りにマントルピースの置時計を見たジュリーは小さく息を呑んだ。
午前4時半――あの日と同じだった。
ジュリーは逡巡した後、意を決してベッドを出て、彼女のような令嬢が就寝時に決まって身につける白いナイトドレスの上に厚手のドレッシング・ガウンを羽織った。
暖炉が温めていたはずの室内は、既に早朝の冷たい空気により冷え始めていた。
ジュリーはガウンの前を合わせ、きちんと編まれた蜂蜜色の髪を背中に避けた。
そして、もう一つのベッドで眠る少女に囁くように呼びかけた。
「アメリア!アメリア!起きて!」
アメリアと呼ばれた少女は壁側に向けた顔以外はうつ伏せに眠っていた。
ジュリーからは彼女の白いナイトドレスの背中と濃い栗色の髪――ジュリーと同様きちんと編まれている――しか見えない。
いくら呼びかけられてもアメリアは微動だにしなかった。
「ねえ、アメリア。起きてったら!起きているときはあんなに明晰なのに、どうしてこう寝覚めが悪いのかしら?」
とうとうジュリーが彼女の肩を揺さぶると、彼女はゆっくりと寝返りを打ってジュリーの方を向いた。
その瞼は固く閉じられているが、ツンとした赤みのある唇から何か言葉が発せられた。
この学院の共通語であるフランス語だった。
「Je suis encore toute fatiguée. Laisse-moi me reposer...」
フランス語の苦手なジュリーにはよく聞き取れなかったがまだ寝ていたいと言っていることはわかる。
半分眠った状態であるにもかかわらず、アメリアのフランス語は流暢すぎる。
アメリアは17歳の英国人の少女。
彼女はここでのジュリーの一番の友人だった。
「アメリア! Bitte, steh auf!」
ジュリーは試しにドイツ語で呼びかけてみた――ジュリーの家はドイツ系なのでフランス語よりは親しみがあるのだ。
何より少し頭を使わせてやれば、アメリアも目覚めるかもしれない。
思った通り、暖炉の弱い光の中で彼女のヘーゼルの瞳が開いたのが見えた。
「ジュリー、Es ist doch noch gar nicht Zeit zum Aufstehen...」
しかし、アメリアの瞼は再び閉じてしまう。
ジュリーは慌てて英語で呼びかけた。
「お手洗いに行きたいのよ!ついて来てくれないと困るわ!」
アメリアの瞼が再度開いた。
そして、欠伸混じりに言う。
「あらまあ、またなの?」
「うん、ごめんなさい……でも、お願い!」
アメリアは緩慢だが確かな動作でベッドから這い出てきた。
ジュリーはほっとため息をついた。
「ジュリー、行きましょう」
ようやく自分のドレッシング・ガウンを羽織ったアメリアは、先に立って廊下に繋がるドアへと向かった。
背後からでも欠伸をかみ殺しているのがわかった。
ジュリーも音もなく彼女に続いた。
アメリアはドアを半分ほど開き、そこから顔を出して廊下を念入りに見回した。
このときばかりは彼女のヘーゼルの瞳はしっかりと見開かれていた。
夜中に寝室から出るのは規則で固く禁じられている。
同じ階に寝室がある女性教師たちに見咎められると大変なことになる。
消灯時間以降は、差し障りがある場合でも、生徒たち一人ひとりに割り当てられているチェンバーポットを使うのが規則なのだ。
しかし、ジュリー含め学院の生徒たちは誰もチェンバーポットを使いたがらない。
まず、ほとんどの生徒が二人部屋なので、羞恥と遠慮が先に立つ。
それに、裕福な家に生まれた彼女たちのほとんどは、本国の屋敷では最新式の水洗設備を備えた化粧室を使っている。
チェンバーポットは毎朝メイドが掃除することになっているが、それでも、水洗式に慣れていると当然衛生面が気になってしまう。
ともかく、アメリアは廊下に人の気配がないことを確認した。
二人は頷き合うと底冷えする廊下に踏み出した。
目指すのは、廊下の南側の端にある水洗式の化粧室だ。
できればランプを使いたいところだが、誰かに見つかるリスクを冒すわけにはいかない。
ただ、その夜は、あまり問題にはならなかった。
ジュリーがふと廊下の窓の外に目を向けると、建物の西側に広がる森が月明かりに照らされていた。
その月の光は、二人の足元も照らしてくれている。
二人は通り過ぎる部屋から人が出てくる気配があればすぐに身を隠せるよう神経をとがらせながら進んだ。
特に化粧室の何部屋か手前にある主任教師マダム・ローフォードの部屋は要注意だ。
マダム・ローフォードはこの学院唯一の英国出身の女性教師で、基本的には親切な女性なので、生徒たちからも慕われてはいる。
ただし、規則には非常に厳しい。
夜明け前に寝室の外にいるところを見つかれば罰則を科されることは間違いない。
そうでなくとも、今、ジュリーは彼女とはあまり顔を合わせたくなかった。
二人がやっとの思いで、南の端の化粧室に辿り着くと、ジュリーは手早くドアを開け、中に滑り込んだ。
扉を閉める前にアメリアを振り返ると彼女は壁に寄りかかって目を閉じていた。
ジュリーが「ありがとう」と囁くと、彼女は目を閉じたまま頷いた。
暫くして、ジュリーが化粧室から出てくると、アメリアは先ほどと寸分違わぬ姿勢で壁に寄りかかっていた――立ったまま眠っていたらしい。
ジュリーが声を掛ける前に、気配を察したアメリアは姿勢を正した。
そして、彼女たちはまた頷き合って廊下を進んだ。
反対側の北の端に設置されている鏡が、忍び足で廊下を行く白いナイトドレス姿の二人の少女の姿を映していた。
元の寝室に戻り、最後にジュリーが音を立てずにドアを閉めれば、任務完了だ。
「アメリア、本当にありがとう」
二人がそれぞれのベッドに戻る間に、ジュリーが言った。
「いいのよ、ジュリー。けど、一体どうしたの?クリスマス休暇前まではこんなことなかったのに、休暇明けから急に何度も……。どこか調子が悪いの?」
「ええと……その……」
ジュリーは口ごもった。
アメリアの言う通り、ジュリーは昨年のクリスマス休暇にある出来事を経験して以来、夜中目が覚めてしまうことが増えていた。
しかも、ジュリーは昔から夜中に目が覚めると、一度化粧室に行かないと落ち着いて眠れない体質だった。
とはいえ、以前はそういうことがあっても一人で化粧室に行っていたのに、今はそれができない。
怖いのだ。
「もしかして、あのことで気が滅入っているの?……でも、あれはつい先週のことだから関係ないのかしら?」
アメリアは自分のベッドに潜り込みながら心配そうに言った。
どこか自分自身に問いかけるようでもあった。
「ううん、あのこととはまた別なの……」
ジュリーもまた自分のベッドに入り、ブランケットを握りしめた。
つい先週の出来事のせいで気落ちしているのは確かなのだが、これは全く性質の違う問題だ。
ジュリーは少し考えてから口を開いた。
「これは……その……幽霊のせいなの」
「幽霊」と聞いたアメリアが身じろぎした気配がした。
「それは……ちゃんと話を聞く必要がありそうね」
アメリアはそう言いつつも、ブランケットに潜っていった。
「でも、もう一秒も起きていられそうもないから、明日でもいいかしら?」
ブランケットの中からくぐもった声が聞こえた。
その言葉通り、半分夢の中にいるような口調だ。
「ええ、もちろん」
ジュリーの言葉が届いたのかはわからない。
既にアメリアは穏やかな寝息を立てていた。
ジュリーの頭の中に流れていた「ショパンのワルツ第7番」はこちら。
Rafał Blechacz - Chopin: Waltz No. 7 in C-Sharp Minor, Op. 64 No. 2
https://youtu.be/WRMI5VsbI64?si=xCorhhNYYdlB1JNf




