キアリーナ
マダム・ローフォードとムッシュー・シャイデマンの補足的外伝です。
特に何もしていないのにR-15な気がします。
ヴィヴィアン・ローフォードがその男に初めて会ったのは、1905年の春のことだった。
その20年以上前、彼女はヴィクトリア朝英国の貧しくはないが決して裕福とは言えない牧師の家に生まれた。
そして、そうした家に生まれた娘の運命に逆らわず、18歳のときに裕福な家の子女を教育する家庭教師の職に就いた。
今も昔も、家庭教師は牧師の娘が中産階級としての体面を保ちながら働けるほぼ唯一の職業だった。
ヴィヴィアンは、それから数年間家庭教師として働き続けたが、あるときふと見つけた求人広告——「レマン湖のほとりの仕上げ学校で女性教師を募集中」——に興味を引かれ、結果として、スイスにある高級仕上げ学校<ベル・クラルテ学院>の教師となった。
今振り返ってもどうしてあんなに思い切りよく外国の求人に応募してみようと思ったのかは定かではない。
もしかすると、亡母が熱望しながらついぞ行けなかった音楽の都ウィーンに少しでも近づきたかったのかもしれない。
しかし、いずれにしても、彼女はすぐに<ベル・クラルテ学院>での仕事を愛するようになった。
令嬢たちをより良い未来へと導く仕事は非常にやりがいがあった。
28歳になる頃には主任教師マダム・ローフォードと呼ばれる立場になっていた。
そして、1905年の春、ヴィヴィアンは、その男、フランツ・シャイデマンと出会った。
彼は、オーストリア出身の音楽家で、スイスに来る前はウィーン、ベルリン、パリ、ヴェニスで主にピアニストとして活動していたという。
だが、思うように身を立てられなかったと見えて、前任者からの推薦でこのスイスの仕上げ学校の音楽教師の職に就くことにしたらしい。
当初、ヴィヴィアンは彼の採用について、校長のマダム・ルメールに異議を申し立てた。
彼は見た目が良すぎた。
やや長い黒髪、通った鼻筋、涼やかな目元——仕上げ学校の教師として、大きな減点要素だ。
万が一にも間違いが発生してお預かりする令嬢の経歴に傷をつけるようなことはあってはならないのだから。
しかし、校長の「主任教師のあなたと他の女性教師がしっかり監督すれば問題ないでしょう?」の一言で彼女の異議は却下された。
以降、ヴィヴィアンはシャイデマンのことを用心深く監視するようになった。
しかし、彼の着任から一か月で事態は予想外の方向に展開した。
「マダム・ローフォード、どうか私が前に手紙に書いたことを一度だけでも真剣にご検討いただけませんか?あなたのエメラルドの瞳とダークブラウンの髪は、私に故郷のザルツブルクの森を思い出させるのです。そんなあなたが私の妻になってくださるならそれ以上の喜びはないのですが」
ある日、誰もいない庭でうっかり鉢合わせしてしまったとき、彼は甘く微笑みながら言った。
過日、彼はあろうことかヴィヴィアンに手紙を送り、求婚していた。
その後も同じような手紙を何通も受け取っているが、ヴィヴィアンは返事をしていなかった。
「……あなたは2歳のときにザルツブルクからウィーンに移られたから、故郷のことは何も覚えていないと、この前の手紙でお書きになっていましたが」
「おや?読んではくださっているのですね!」
シャイデマンが屈託のない笑みを浮かべながら言った言葉に、ヴィヴィアンは思わず眼鏡の位置を直したが、彼は特に気にせずに続けた。
「故郷のことは頭では覚えていなくても、心では覚えているということです」
ヴィヴィアンはため息をついた。
「ムッシュー、冗談はやめてください。生徒たちにレディとしての範を示すべき教師として笑って差し上げるわけにもいきませんし、私は牧師の娘ですから、元々そういう冗談は好かないのです」
「冗談ではありませんよ。ですから、断るにしても一度真剣に検討してからにしてください」
ヴィヴィアンは微かに眉を寄せた。
ウィーン気質の音楽教師が堅物の主任教師に求婚する——冗談以外の何だというのだろう。
そもそも、主任教師の立場上、冗談でもこうした恋愛沙汰は困る。
少しでもおかしな疑いをかけられれば、解雇されてしまうのだから。
それに、万が一、結婚するつもりで真剣に交際するとしても、仕上げ学校の教師の職は辞さなければならない。
結婚したら家庭に専念するレディとしてのあるべき姿を生徒たちに示すためだ。
しかし、ヴィヴィアンはこのまま教師を続け、教師として一生を過ごすことに決めている。
誰かに惑わされることもなく自分のまま満足して死にたいのだから——と、そこまで考えて彼女は我に返った。
何故一瞬でも彼と結婚することを考えたのだろう。
彼女は軽く咳払いをした。
「真剣にと言われても、あなたは私のことを何も知らないではありませんか。そんな方から求婚されたとて……」
「あなたのことは知らなくても、自分のことはわかります。出会った瞬間、私はあなたと結婚すべきだとわかりました。『フィガロの結婚』の『恋とはどんなものかしら』が頭の中に流れ始めたのですから」
そう言って彼は、モーツァルト作曲の明るい恋の歌を歌い始めようとしたので、ヴィヴィアンは慌てて遮った。
「ムッシュー・シャイデマン、もう結構ですから!」
彼女は眼鏡越しに鋭い視線を向けたが、シャイデマンはただ肩を竦めただけだった。
そして、急に真剣な口調になって言った。
「いずれにしても、あなたはまだ理屈でしか答えてくださっていない」
「どういう意味です?」
「私はあなたの理性には拒まれましたが、感性には拒否されていないということです。いつかそれを呼び起こせると良いのですが」
彼は「ではごきげんよう、マダム」と言って歩き去ってしまった。
彼女が何も言えないでいるうちに。
***
数ヶ月後、意外なのかそうでないのかヴィヴィアンには何とも言えなかったが、シャイデマンは音楽教師として生徒の少女たちから慕われるようになっていた。
彼の麗しい容姿のためでもあるのだろうがそれだけではないことも、彼女にはわかっていた。
しかし、彼女は警戒を緩めなかった。
自分のような堅物の主任教師に、出会って数週間で求婚したくらいなのだから、生徒たちにも同じことをしかねない。
彼女は他の女性教師に監督役を任せきりにせず、時々、抜き打ちで音楽室での彼のレッスンの様子を見に行くことにしていた。
そして、いつも通り、予告なく彼のレッスンを見に行ったある日のことだった。
その日偶々他の仕事があった彼女はレッスンの中盤になってから音楽室に入室した。
すると、ある生徒——当時、学院で二、三番目にピアノの技量があったマドモアゼル・ラシーヌだ——を指導していたシャイデマンが微かに顔をしかめた。
そして、マドモアゼル・ラシーヌに向けて言った。
「今日は第二楽章だけやりましょう、マドモアゼル」
マドモアゼル・ラシーヌも何かを察したように頷き、落ち着いてその第二楽章を弾き始めた。
讃美歌のような旋律。
穏やかでまさにレディに相応しい曲調。
しかし、ヴィヴィアンはレッスン後、音楽室に残ってシャイデマンを問い詰めた。
「あれは何です?ムッシュー」
彼女が鋭く問うと、ピアノの前に立っていた彼は以前と同じように肩を竦めた。
「誤魔化せませんでしたか」
「ええ。マドモアゼル・ラシーヌが弾いていたのはベートーヴェンの『熱情』……彼女に教えるべきではない曲です」
ヴィヴィアンはため息をついた。
マドモアゼル・ラシーヌには、両親の希望でレディらしい穏やかな曲だけを教えることになっていた。
シャイデマンにも校長のマダム・ルメールから指示があったはずだ。
激しい情熱を表現したベートーヴェンの「熱情」は明らかにそれに反している。
いつもの監督役の女性教師は権限が弱いので、何も言わなかったのだろうが、主任教師としては見過ごせない。
「次回から別の曲に切り替えてください」
「そこを何とかお許しいただけませんか?」
ヴィヴィアンは眉を上げた。
ここまではっきりと言えば、シャイデマンは素直に従うと思っていたのだ。
「マドモアゼル・ラシーヌにはこれが必要なんです。……彼女は本国で叶わぬ恋に敗れてここに送られた。違いますか?」
そう問いかけた彼の暗い色の瞳が彼女を真っ直ぐに見ていた。
彼女は思わず眼鏡越しに彼を見つめ返した。
彼の言ったことは当たっていた。
マドモアゼル・ラシーヌは本国で身分違いの恋に落ちたが、結局相手は周囲からの反対に負けて本国を去って植民地へと行ってしまった。
それで彼女はすっかり荒んでしまい、両親のラシーヌ夫妻は、表向き仕上げ学校に入れることを理由に娘をスイスに送り、実質的には転地療養をさせようとしているのだ。
激しい音楽を避けるようにという要望も彼女を「正常な」娘に戻したいという思いからだ。
これは校長のマダム・ルメールと主任教師の彼女だけが、ラシーヌ夫妻から内々に聞いていた事情だった。
「なぜ、それを?」
「そんなの彼女の演奏を聞けば大体わかりますよ。やはりそうでしたか」
彼は深く頷いて先を続けた。
「そうであれば、どうあっても彼女に『熱情』の演奏を続けさせてもらいたい。彼女には情熱に身を委ねられる場が必要です。抑制するばかりでは行き場を失って潰れてしまいますよ」
普段の何を言われても屈託なく笑う男と同一人物とは思えないくらい真剣だった。
「お願いです、マダム」
ヴィヴィアンは暫く考えを巡らせていたが、ついには頷いた。
彼の言い分には一理あった。
マドモアゼル・ラシーヌは、学院に来た当初は他の生徒や教師たちとトラブルを起こしがちだった。
しかし、ここ最近は学友たちと穏やかに交流し、以前にはなかった笑顔を見せるようになっていた。
もしかすると、「熱情」を弾き始めたことで、行き場を失った情熱を上手く逃がせるようになったのかもしれない。
「わかりました。認めましょう。しかし、今後は勝手に指示に反さず、事前に私に相談してください」
「もちろんです。ありがとうございます!」
彼はいつも通りの笑顔に戻った。
ヴィヴィアンは何となく指先でピアノの縁を撫でた。
一方、彼は心底感心したように言った。
「それにしても、あなたがあのとき聞いたのは第二楽章だけだったのによく『熱情』だと気が付きましたね。第一楽章と第三楽章は有名ですが、第二楽章まで知っている人は少ない。それに、第二楽章は同じ曲とは思えないほど穏やかな部分です」
彼女はブラウスの襟を直しながら俯いた。
「熱情」は昔よく聞いた曲だった。
「子供の頃……私のピアノの先生が弾いて聞かせてくれました」
まだ子供だった頃、家に通って来ていたピアノ教師——彼はおそらくシャイデマンと同じオーストリア人で、近隣の貴族のお屋敷のお嬢様方を指導するために雇われて村に来た男だった。
彼はいつも少女だった彼女に当たり障りのない曲を指導した後で、自身が曲を演奏し、ときにはその曲の背景を解説しさえした。
どれも情熱的な曲だった。
「おや、変わったピアノ教師ですね。牧師のお嬢さんにわざわざ『熱情』を聞かせるとは」
「ええ、そうなんでしょうね」
「……何か他に目的があったようにも思われますね」
シャイデマンの指摘にヴィヴィアンの心臓が跳ねた。
彼女自身も後になって気づいた。
そもそも、辛うじて体面を保てる程度の収入しかない牧師の家が外国人ピアノ教師のレッスン代など用立てられるはずがなかった。
おそらく、彼はほぼ無償で彼女を教えていた。
厳密に言えば、母に付き添われていた彼女を——。
そこで彼女はふと思い出した。
「そういえば……彼がよく弾いていた曲の中に、一つだけ作曲者も曲名もわからないものがあって——」
そう言いながら彼女はピアノの蓋を開け、覚えている限りの旋律を奏でた。
伴奏の記憶はなく、彼女が弾けたのは途切れ途切れの主旋律のみだった。
しかし、暫く演奏したところで、シャイデマンが微笑みながら目配せした。
彼女がそれに応えてピアノの前を譲ると、彼はすぐに椅子に座って両手の指をピアノの上に乗せた。
そして、その優雅な指が彼女の記憶の中の曲を奏で始めた。
それは間違いなく、あの頃聞いた曲だった。
静かに燃える炎のような旋律。
胸に迫る三拍子。
せいぜい一分ほどの曲なのに圧倒されてしまう。
一音一音が皮膚の下を侵し、心の奥底にしまいこんでいるものを容赦なく暴く。
最後には自分が自分で居られなくなる——。
「ああ、その曲です。これは一体誰の何という曲なのです?」
短い演奏が終わると彼女はできるだけ抑制的に尋ねた。
「これはシューマンの『謝肉祭』の一曲『キアリーナ』ですよ。お気づきでしょうが『キアリーナ』というのはクララの愛称です。そのクララこそ後にシューマンが愛することになる才能豊かなピアニストですが……この曲の通りの女性だとすると随分と情熱的な人だったのでしょうね。後にシューマンがクララの父親の反対に抗い、法廷で争ってまで結婚を勝ち取るのも、彼女の情熱に感化されたからでしょうか?」
彼は何気なく言ったが、彼女は静かに息を呑んだ。
やはりあのピアノ教師は、この旋律で母に訴えかけていたのだ。
そして、母の心がそれに応えようとした瞬間があった。
「ありがとうございます、ムッシュー」
ヴィヴィアンはただ落ち着き払って微笑んだ。
そして、ゆっくりと息を吐き、静かに切り出した。
「ところで、ムッシュー。私、実はシューマンは苦手なのです。そして、シューマンを好む方も」
「……私のことですか?私が好むのはモーツァルトですが」
シャイデマンは微かに首を傾げた。
しかし、彼女はそれに気づかないふりをして続けた。
「ええ、理性ではそうなのでしょうね。でも、先ほどの演奏……あなたの感性は寧ろシューマンと同調しているように聞こえました」
「……おっしゃる意味がよくわかりませんが、マダム」
「わからなくても結構です。ただ、シューマンのような感性は……私には少し強すぎるのです」
ヴィヴィアンはそれだけ言うと、彼に背を向けて音楽室を出て行った。
これ以上は危険だ。本能がそう告げていた。
彼が弾いた「キアリーナ」はあのピアノ教師が弾いたものと同じだった。
それは今、母ではなく彼女自身に突きつけられている。
狂おしいほどの恋心、全てを押し流す激情。
規範に抗うことさえ厭わない。
そんな破滅的な旋律に身を委ねるわけにはいかない。
自分を見失い、全てを奪われてしまう。
亡母がそうだったように——。
***
それはヴィヴィアンが12歳のある秋の夜のことだった。
牧師の父が不在にしていた夜、彼女は自宅の寝室のベッドの上で膝を抱えていた。
母はいなかった。
子供たちに夕食を食べさせた後、出て行ったのだ。旅行鞄を持って。
ヴィヴィアンは弟と共に、父が少ない収入で辛うじて一人だけ雇っていた若いメイドと家に残された。
幼い弟は既に眠っており、呑気なメイドは奥様は頭痛で部屋に籠っていると思い込んでいた。
でも、娘であるヴィヴィアンにだけはわかっていた。
母は駅に向かったのだ。
ロンドン行きの最終列車に十分間に合う時間だった。
きっと駅ではあのピアノ教師が待っている。
二人はお互いを確認した後、離れた座席に乗るだろう。
しかし、それはロンドンに着いたら手を取り合うための前奏——。
だが、母は数時間で帰ってきた。
そして、姉弟をきつく抱き締め——泣いていた。
その夜以降、あのピアノ教師は教えに来なかった。
噂でウィーンに帰ったと聞いた。
まさに母が出て行って、帰ってきたあの夜に。
***
それから、ヴィヴィアンはシャイデマンとは、仕事に必要な会話しか交わさなかった。
彼女はもう彼に厳しい態度をとらなかった。
それどころか、これまでよりずっと親切に接したが、そのことが却って彼の表情を曇らせている気がした。
シャイデマンももうヴィヴィアンに手紙を送ることはなかった。
しかし、代わりに、いつの間にか慣例化していた水曜日のディナー前の小演奏会で曲を奏でた。
恋多きベートーヴェン。
正反対の女性と恋に落ちたショパン。
伯爵夫人とスイスに駆け落ちしたリスト。
そして、愛する女性の父親に結婚を反対されてなお愛を貫いたシューマン。
有名音楽家の曲をなぞっているように見せかけてはいるが、その実、彼女への問いかけだ。
「あなたは何故それを拒むのか」
「何故応えてくれないのか」
「それを望んでいるはずなのに」
彼女は前室でそれを聞きながら心の奥底の震えを押し殺して、教師として、レディとして、平静を装うしかなかった。
***
そして、また数か月が過ぎた頃——。
ある冬の日の午後、生徒からシャイデマンが呼んでいることを知らされたヴィヴィアンは、彼が待つ音楽室へと向かった。
彼女がドアを開けたまま音楽室に入室すると、シャイデマンはピアノの前に座っていた。
彼は視線で彼女に近くのソファを勧めたが、その指は鍵盤ではなく膝に置かれているにもかかわらず落ち着かなく動いていた。
ヴィヴィアンが彼が話し始めるのを待っていると、彼は一つ息を吐いてから切り出した。
「マダム、どうやら私が間違っていたようです」
彼によると、例の恋に破れてこの学院に送られたマドモアゼル・ラシーヌ——シャイデマンが彼女の心を解放するために「熱情」を指導していた令嬢だ——が、悪い状況に陥っているらしい。
「マドモアゼルは引き続きベートーヴェンを練習していまして、お伝えしていた通り『テンペスト』を弾かせていました。ただ、最近その曲の嵐のような激しさが深まり過ぎているのが気になっていました。そんな折、この前の土曜日に街で彼女が一人で歩いているのを見かけたのですが——」
シャイデマンによると、土曜の半休の折に街に出ていた彼女は監督役の女性教師をわざと避けて路地裏へと向かった。
そして、そこで若い男と逢引きしていたという。
「ただの恋愛であれば、私は密告などしなかったでしょう——私はウィーンに長く住んでいましたから自由恋愛を信奉しています。しかし、相手の男は明らかに挙動不審でした。マドモアゼルが去った後、男を問い詰めると、駆け落ちするつもりだと白状しました。それでも、男に金や職があるならまだ良いのでしょうが、あれは育ちが良いだけで何の保証もできない男です。このまま放っておけば、令嬢育ちのマドモアゼルが愛と現実の生活の狭間で苦しむのは目に見えています」
顔を上げた彼の暗い色の瞳は揺れていた。
ヴィヴィアンはさり気なくその瞳から視線を逸らした。
「情熱的な曲を弾かせれば、彼女の中に燻る熱を逃がすことができる……そう思ったのですが、別の破滅的な恋に向かわせる結果となってしまいました。私を信用して令嬢らしからぬ曲の指導を許可してくださったのに、申し訳ありませんでした」
そう言って彼は悔やむように俯いた。
「謝る必要はありません、ムッシュー。寧ろよく知らせてくださいました」
ヴィヴィアンは彼から視線を逸らしたまま静かに言った。
「……大方の人はあるべきでない情熱を抱いても、大事に至る前に立ち止まれるものです。しかし、それができないこともあります。立ち止まったとて手遅れになることもあります。それだけです。今回はおそらくまだ手遅れではありません。マドモアゼル・ラシーヌをすぐに本国に帰しましょう」
彼女は早速手配を始めようと、立ち上がって扉の方に歩き出した。
しかし、背後でシャイデマンが呟くように言う声が聞こえた。
「……私はあなたのことを知りません。ですから、あなたが何を抱えているのか、はっきりとはわかりません。でも、あなたはご自分もその途上にいるからこそ、懸命に抑えようとなさっていたことはよくわかりました」
ヴィヴィアンは、開けたままにしていた扉の前で足を止め振り返った。
彼の揺れるダークブラウンの瞳が彼女を見つめていた。
12歳の頃の母の記憶が蘇る。
あの夜、戻ってきた母は、二人の子供たちを抱き締めて泣いた。
少女だったヴィヴィアンは、それで全てが元通りになると思い、母にしがみつきながら密かに微笑んだ。
だが、現実は違った。
牧師の妻としての生活に戻った母は日に日に弱っていき、数か月後にはベッドから起き上がれなくなった。
熱に浮かされ、うわごとで「ウィーンに行きたい」と繰り返した。
父は妻に薬を与え、神に祈るだけだった。
しかし、ヴィヴィアンにはわかっていた。
薬も神でさえも母を治すことはできない。
母を治すためには、ウィーンに行かせてやるしかなかった。
その音楽の都にいるはずの彼との愛を取り戻すしかなかったのだ。
結局、その翌年、ついに起き上がることもないまま母は亡くなった——。
そして、今、ヴィヴィアンはその母の背中を追っている。
「フランツ……」
彼女の唇から零れたのは、書類の上でしか見たことがない彼の名だった。
そう呼ばれた彼の頬が強張った。
だが、彼女は静かに扉を閉めて鍵をかけると、ピアノの方に——彼の方に歩み寄った。
しかし、二、三歩歩いたところで、彼が彼女を制して言った。
「マダム・ローフォード」
彼はピアノに向き直りその蓋を開いた。
「私があなたに感性に身を任せてほしいと望んだのは本当です。しかし、それがあなたに破滅をもたらすのなら話は別です」
彼は鍵盤の上に指を置いた。
「この曲が終わる前に出て行ってください」
そう言って彼は鋭く息を吸うと、その曲を奏で始めた。
ヴィヴィアンは息を呑んだ。
それは「キアリーナ」だった——過日、彼が弾き、彼女を乱した曲。
遠い昔にあのピアノ教師が弾き、母が焼かれた曲。
一分ほどの短い曲だ。
その間に扉を開けて、出て行かなければならない。
早くしないと曲が終わってしまう。
留まったとしてどうなる。
職への愛と彼への愛の間で焼かれるだけだ。
終わりへと向かう一音一音が彼女を苛む。
彼の音が、指先が、言葉が、それを呼び起こす。
抑えなければ破滅する。
けれど、抑えても同じこと。
同じことなら、いっそ——。
***
彼は鍵盤だけを見てその曲を弾いていた。
しかし、彼の眼前には、彼女のあの緑色の瞳がちらつく。
あと数フレーズで行ってしまうその宝石。
あと数小節で永遠に手に入れられなくなるその眼差し。
あと数音で——。
しかし、その最後の数音は鳴らなかった。
制御を失った彼の指がでたらめに鍵盤を叩いたからだ。
最後まで美しく奏でられるはずだった曲は不協和音で終わった。
他でもない。背中に感じた彼女の手の熱さのせいだった。
ゆっくりと振り返れば、彼の背中に手を当てる彼女がいた。
彼は何も言わず立ち上がり、彼女の眼鏡をそっと外した。
現れたのはエメラルドの瞳。
その瞳の奥で炎が燃えていた。
彼女は既に飛び込んだ。
焼かれながら彼を待っている。
「ヴィヴィアン……」
絞り出した声は掠れていたが、彼は躊躇わなかった。
震える手がその炎ごと彼女を抱きしめた。
【登場曲】
ムッシュー・シャイデマンが歌おうとした「『フィガロの結婚』の『恋とはどんなものかしら』」(モーツァルト作曲)
Accessible Arias: 'Voi che sapete' sung by Rinat Shaham, from Mozart's The Marriage of Figaro
https://youtu.be/1nRObrCLKNs?si=pn2EaQC8ScOzR4Wh
(動画の通り実際のオペラでは少年役の女性歌手(ズボン役)が歌います)
マドモワゼル・ラシーヌが演奏した曲
①ベートーヴェンの「熱情」
Claudio Arrau Beethoven "Appassionata" (Full)
https://youtu.be/Tdg-DT8rTUQ?si=wtdPbJTQz4ianiIh
②ベートーヴェンの「テンペスト」
Barenboim: Beethoven - Sonata No. 17 in D minor, Op. 31 No. 2 "The Tempest"
https://youtu.be/Fkrr3nUZ0YU?si=-k-fNKvTWBkJPr-o
タイトルでもあるシューマンの「キアリーナ」
Schumann: Carnaval, Op. 9 - 11. Chiarina
https://youtu.be/km2HCXbji3w?si=GY4qKeebg-K-lF7e
【参考】
原光子「クララ・シューマン、真実なる女性 完全版」,古典教養文庫, 2018年(初版1941年, 第一書房)




