11. 彼女たちの領土
※登場人物の個人的なシャーロック・ホームズの解釈が含まれます。
その夜以降、ジュリーとアメリアは「ベル・クラルテの幽霊事件」の秘密について沈黙を守った。
その後も三階の廊下で幽霊を目撃する生徒がいたようだが、仮面の男の話を聞くことはもう二度となかった。
そして、マダム・ローフォードとムッシュー・シャイデマンが5月いっぱいで<ベル・クラルテ学院>を去ることは、対照的な方法で生徒たちに伝えられた。
マダム・ローフォードの退職は、生徒全員が集まった席で「家族の都合で英国に帰ることになった」との理由と共に発表された。
主任教師として彼女を頼りにしていた校長のマダム・ルメールや同僚の女性教師たち、そして、厳格な彼女を恐れながらも慕っていた生徒たちは彼女との別れを惜しんだ。
ムッシュー・シャイデマンについては、学院側から正式な知らせはなかった。
マダム・ルメールが何かの話のついでに、5月いっぱいで彼の指導は終わり、6月からは新しい音楽教師が指導にあたることを告げただけだった。
ムッシュー・シャイデマンがマダム・ローフォードからジュリーとアメリアが「ベル・クラルテの幽霊」の正体に至ったことを聞いたかは定かではなかったが、彼のピアノの指導はそれまでと何も変わりがなかった。
ジュリーが最後に彼から教わったのは、モーツァルトのピアノソナタ第8番だった——彼女はこの曲を特別好きになったわけではなかったが、それでも何故かその後も折に触れて弾くことになる。
後から独学で習得した「キアリーナ」と共に。
ただ、5月の終わりが近づいても、マダム・ローフォードにもムッシュー・シャイデマンにも、何の変化も見て取れなかったことは、ジュリーを少しやきもきさせた。
二人が本当に結婚するつもりがあるのか、よくわからなかった。
しかし、それをアメリアに告げると、彼女は少し微笑みながら、マダムがゲーテの「イタリア紀行」を熱心に読んでいるのを見かけたことを教えてくれた。
そして、ジュリー自身もムッシューがレッスン後の音楽室でパガニーニの「ヴェニスの謝肉祭」のピアノ編曲版を楽しげに弾いているのを聞いて、腑に落ちた。
恋人たちは、内心ではヴェニスでの新生活を楽しみにしていたということだ。
そして、1907年5月末日、マダム・ローフォードは学院を去った——ムッシュー・シャイデマンの学院での最後のレッスンは数日前に終わっていた。
一同が馬車で去っていく彼女を見送った後、学院の講義は休みとなり、生徒たちは学院内で思い思いに過ごすことが許された。
ジュリーは庭で過ごすグループに加わりつつも、監督役の女性教師やおしゃべりに勤しむ他の生徒たちから離れたベンチに腰を下ろし、そこから見える青く透き通るレマン湖を眺めていた。
すると、誰かが彼女に歩み寄ってきた。
繊細なレースで装飾された白いブラウスと暗い茶色の長いスカート、ふんわりと結われた暗い栗色のポンパドゥール——もちろんいつも通りのアメリアだった。
ただ、彼女のヘーゼルの瞳はいつになく悪戯っぽく輝き、口元には含みのある笑みが浮かんでいた。
しかも、背中に何かを隠しているようだ。
「アメリア、どこに行っていたの?マダムのお見送りのときに姿がなかった気がしたけど……」
ジュリーが声を掛けると、アメリアはにっこりと微笑んで彼女の隣に腰を下ろした。
「少し用事があって直前までマダムと話していたから、そのときにお別れを済ませてしまったの。でも、サロンのバルコニーから見送ったわ」
そう言いながら彼女は背中に隠していたものをゆっくりと差し出した。
ジュリーの深い青の瞳が見開かれた。
ライトブルーの布装丁の本。
金箔で型押しされたタイトル。
ロンドンの風景を描いた挿絵。
見間違いようがない。
ジュリーがマダム・ローフォードに没収された「シャーロック・ホームズの冒険」だ。
「アメリア!これ、どうやって?!」
ジュリーはアメリアから本を受け取ると信じられない気持ちでそれを眺めた。
「ジュリー、あの夜、あなたは言ったでしょう?『レディだからといって、相応しくない本に興味を持ったらいけないのはおかしい』って」
「ええ、言ったわ。けれど、だからこそ、マダムには謝らないままだったから、本は取り戻せないものだと……」
「でも、マダムもあのとき確かに言ったのよ。『私もおかしいと思うわ』と」
ジュリーはアメリアの言葉に首を傾げた。
確かにマダムはジュリーの言葉に同調してくれたが、それがこの本が戻って来たことと何の関係があるのだろう。
戸惑うジュリーにアメリアは言った。
「だから、さっき出発前のマダムを訪ねて言ってみたの。『あの夜、マダムもレディだから相応しくない本に興味を持ってはいけないのはおかしいとおっしゃったのですから、没収した本を持ち主に返しても良いのではないでしょうか』とね。そうしたら、呆れながらも私に本を委ねてくださったわ」
「アメリア、あなたって!」
「弱みにつけこむようになってしまってレディらしくはなかったわよね。でも、どうしても返していただきたかったの」
「アメリア、ありがとう!レディらしくないあなたは最高だわ!」
ジュリーはそう言って手に持っていた本を抱き締めた。
大好きな本だから、誕生日に父から贈られた本だからだけではない。
今やそれはジュリーとアメリアが二人で守った大事な本だった。
「それにしても、ジュリー。あなたって本当にシャーロック・ホームズが好きねえ」
アメリアは本を抱き締めたまま離さないジュリーをからかうように言った。
「ええ。でも、正確には私が好きなのはワトソン博士なの。彼は凡庸に見えて、ホームズのこととなると素晴らしい観察眼を発揮するわ。物事を観察して事件を解決するのはホームズだけど、ワトソン博士はそのホームズを観察して彼自身を解明しようとしているのよ」
「まあ、そんな見方があるなんて。あなたってすごいのね」
「いやだわ。『シャーロック・ホームズの冒険』を何百回も読んだというだけよ」
ジュリーが笑って言うと、アメリアもまた笑った。
二人の笑い声が午後の庭に柔らかく響いた。
「ねえ、アメリア。この本の続きを読む?まだ最初の三篇しか読んでいなかったでしょう?」
その問いにアメリアは少し視線を落として思案したが、首を横に振った。
「いいえ、今はやめておくわ。この本は一刻も早く英国に送り返すべきよ。あなたの大事な一部——あなたがあなたでいられる『領土』だもの。安全な場所に隠しておきましょう」
「そうね。そうかもしれないわ」
ジュリーは深く頷き、アメリアに向き直って問いかけた。
「ねえ、アメリア。あなたの『領土』は安全なのかしら?」
「どうかしら?でも、私は隠すのが上手いから大丈夫よ」
「でも——」
言いかけたジュリーは首を傾げた。
アメリアの口元に笑みが浮かんだからだ。
「でもね、ジュリー。これからは少なくとも自分自身には隠さないことにするわ。そして、見せても安心だと感じられた人がいれば、その人の前では少し自分を解放してみようと思うの」
アメリアのヘーゼルの瞳がジュリーを見つめる。
「そして、その内の一人は、ジュリア・ウィンクラー、間違いなくあなたよ」
ジュリーの深い青の瞳もまたアメリアを見つめ返した。
「アメリア・グレンロス、あなたの『領土』に招いていただけるなんて光栄だわ」
今、5月が終わる。
次に6月も終われば、ジュリーとアメリアもこの<ベル・クラルテ学院>を去り、英国に戻る。
その後は、暫しの準備期間を経て、社交界にデビューし、結婚相手を見つけなければならない。
それが彼女たちのような令嬢の「仕事」だ。
誰かの妻という居場所を確保できなければ、この世界のどこにも彼女たちの居場所はない。
けれど、それでも、二人はもう自分だけの「領土」を手に入れた。
それは他人から与えられたのではなく、自分自身で築いた領域。
誰にも奪われることのない、自分が自分でいられる場所。
見つめ合う二人の澄み切った瞳には、互いの心の奥底にある「領土」が映っていた。
***
それから、僅か十数年後、それぞれの「領土」を守り抜いたジュリーとアメリアは、戦争により様変わりした世界を生きることになる。
その頃には、レディに課せられる制約はずっと少なくなり、二人の「領土」を隠しておく必要もなくなっていく。
だが、彼女たちは決して忘れない。
あの頃、あるレディが愛に引き裂かれた末に、作り出さねばならなかったあの「ベル・クラルテの幽霊」のことを。
スイスの仕上げ学校という最も事件と縁遠いはずの場所に、確かに存在した少女の「ホームズ」と「ワトソン」のことを。
そして、あの春の日に見た湖の青さと互いの澄んだ瞳のことを。
【登場曲】
ジュリーが最後にムッシュー・シャイデマンに教わった「モーツァルトのピアノソナタ第8番」
Mozart Piano Sonata No 8 A minor K 310 Barenboim
https://youtu.be/bZZqSZqJz4Y?si=f-q7boyFAPRNbhna
ムッシュー・シャイデマンが楽しげに弾いていた「パガニーニのヴェニスの謝肉祭のピアノ編曲版」
Martha Argerich Chopin Souvenir de Paganini (2022 Japan)
https://youtu.be/xxR_BuPGZhI?si=lltrRN0-UvKwCgzZ
(実際に弾いていたのは、上記ショパンの「パガニーニの思い出」だと思われます)
ご読了ありがとうございました。
下のシリーズのリンクから数年後にアメリアが思いがけない身分となり、事件を解決しながらロマンスも色々ある話を読むことができます。
ご興味があれば是非よろしくお願いします。




