ミス・ホームズ
1912年のアメリアの話です。ジュリーの近況にも触れます。
メラヴェル女男爵シリーズ本編第3部までのロマンスのネタバレ(本編ミステリのネタバレはありません)が含まれます。
「ベル・クラルテの幽霊/アメリア・グレンロスの冒険」本編はこちらの小話から派生した作品でした。
1907年、17歳のミス・アメリア・グレンロスはスイスのレマン湖畔にある名門仕上げ学校で学んでいた。
彼女がその学校に入ったのは、一昨年に亡くなった法廷弁護士の父の強い希望によるものだった。
父はアメリアが入学する前に亡くなったので、母は一人娘を外国の学校に行かせるべきか随分悩んだようだが、結局は亡き夫の遺志を尊重した。
そして、アメリア自身、この学校を気に入っていた。
語学、音楽、家政、会話術など様々なことを学べるし、スイスの自然も素晴らしい。
そして、何より、同年代の少女たちとの交流が楽しく、もう既に何人も打ち解けて話ができる友達ができていた。
中でも同じ寝室を割り当てられたジュリーことジュリア・ウィンクラーとは特に親しくしていた。
そして、今、アメリアはその学院の寝室で一人机に向かっていた。
勉強をするためでも、手紙を書くためでもなく、ただ楽しみに浸るため。
彼女は目の前に広げた本に夢中で目を走らせている。
そこには、心躍る冒険と深遠な謎が鮮やかに描かれていた。
とはいえ、冒険と謎にはいつも危険がつきものだ。
あるページの最後の行を読んでいたとき、アメリアは廊下を早足でやって来る足音を聞きつけた。
彼女は慌てて手に持っていた本を上着の中に隠し、近くにあったペンと紙を取って手紙の書き出しに悩んでいる体裁を取り繕った。
しかし、部屋に入って来たのは、彼女の予想とは違う人物だった。
「あなただったのね、ジュリー。私、てっきりマダム・ルメールかマダム・ローフォードかと思ったわ」
アメリアは部屋に入って来た少女ジュリーを見てペンを放り出した。
「嫌だわ、アメリア。私はマダムたちほど厳めしい歩き方じゃないわよ」
ジュリーはくすくすと笑った。
このアメリアのルームメイトは、ハーレー街で開業する裕福な内科医の令嬢だ。
アメリアはほっと息をついて、上着の中に隠していた本を机の上に置いた。
それを見たジュリーはにっこりと微笑んだ。
「ああ、それを読んでいたのね。今はどの話?」
「順番通りよ」
「じゃあ、『赤毛組合』ね」
アメリアが今読んでいる本はジュリーが貸してくれたものだった。
鮮やかなライトブルーの表紙には金字で「シャーロック・ホームズの冒険」と書かれている。
大のホームズのファンのジュリーは、密かにこの本を学校に持ち込み、寛大にも興味のある他の少女たちに貸し出してくれていた。
貸出希望者同士で話し合った結果、洗礼名のアルファベット順に順番を決めて回し読みすることとなり、アメリアはアデーレに続いて2番目にこの本を読む栄誉に与っている。
とはいえ、公平を期すために短編集の内一話を読み終わったら次の人に回さねばならないルールだ。
アメリアは一巡目で冒頭の短編「ボヘミアの醜聞」を読み終えていたので、二巡目の今は二番目の「赤毛組合」を読んでいる。
「そういえば、『ボヘミアの醜聞』についてはどう思って、アメリア?」
ジュリーは自分の椅子を引いて来てアメリアの隣に座り、その深い青の瞳を輝かせながら尋ねた。
「そうねえ……ホームズも素晴らしかったけれど、やっぱりアイリーン・アドラーの方が一枚上手——」
「あら、そこじゃないわよ。ホームズはアイリーン・アドラーに恋をしたのかしら?」
アメリアはつい笑みを漏らした。
ジュリーはホームズが相手に出し抜かれたことよりも恋愛に興味を引かれたらしい。
「恋はしてないと思うわ。ワトソン博士も冒頭でそう言っているもの。ホームズはそういう男性じゃないのよ」
「そうかしら?」
「そうよ。彼は女性より冒険と謎を愛しているのよ」
アメリアはそう言いながら本の表紙の「冒険」の文字を指でなぞった。
ジュリーは可笑しそうに笑った。
「もしかして、あなたってあまり恋愛には興味ないのかしら?」
「ええと……どうかしら?」
アメリアは曖昧に言って視線を逸らそうとしたが、ジュリーは彼女を真っ直ぐに見つめていた。
「ねえ、アメリア。私たち社交界に出たらきっと色々な紳士と出会うわ。誰かと恋に落ちるかもしれないし、恋に落ちた相手と結婚するかもしれないわ」
ジュリーは深い青の瞳をきらきらと輝かせている。
アメリアが将来どんな男性と結婚するのか想像を巡らせているようだった。
「結婚……」
アメリアは小さく呟いた。
彼女が自分の結婚について今言えることは、亡父がある准男爵家と口約束を交わしていたということくらいだ。
亡父は何故かアメリアには遠縁の男爵家の血が色濃く出ていると考えていて、そんな彼女と未来の彼女の長男をより相応しい身分——『レディ』や『サー』の称号を冠して呼ばれる身分——に据えたいと考えていた節がある。
ただ、その父が亡くなった今その縁談が実現するとは思えなかった。
それに、そもそも、アメリアは自分が恋に落ちるところも、結婚するところも、まるで想像できない。
アメリアはその考えを誤魔化すように、目の前の本を開いて先ほどまで読んでいた「赤毛組合」の続きに目を走らせた。
ジュリーは、読書に戻ってしまったアメリアを見て呆れたようにため息をついたが、結局は微笑んだ。
「とにかく、先生方に見つからないように気を付けてね」
ジュリーは、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
***
「——それで、結局君は全ての短編を読めたのかな?マイ・ディア」
1912年4月上旬、数年前に思いがけず遠縁の男爵位を継承し、メラヴェル女男爵となったアメリアはドーヴァー海峡を進む船の上にいた。
彼女に問いかけたのは、デッキを散策しながら彼女の仕上げ学校時代の「シャーロック・ホームズの冒険」にまつわる思い出話を聞いていた夫——とある侯爵家の三男アルバート・モントローズ=ハーコート卿だった。
前月に結婚したばかりの二人は、ハネムーンのためフランスに3週間ほど滞在した後、英国のバークシャーにあるメラヴェル男爵家のカントリーハウスに帰る途上にあった。
「いいえ。私は結局『ボヘミアの醜聞』と『赤毛組合』『花婿失踪事件』の三篇しか読めなかったの」
彼女はそう答えて頭の上の帽子を押さえた。
帽子はピンでしっかりと留められているが、デッキでは思ったより風が強くて少し不安になった。
「それは残念だったね」
「ええ、三巡目の途中でフランチェスカという子がサロンに本を置き忘れたのが見つかって没収されてしまったの」
「やれやれ、どこにでも迂闊な人がいるものだ」
デッキの柵に手をかけて海面の航跡を見つめていたアルバートは呆れたように言い、アメリアを振り返った。
いつの間にか彼らは船尾まで来ていた。
「でも、結局、その本は持ち主の元に戻って、その子が罰を受けることもなかったのが幸いだったわ」
アメリアのヘーゼルの瞳が一瞬輝いた。
それに気づいたアルバート卿は口元だけで笑う。
「君の計らいかな?」
「そうとも言えるかもしれないわ。私が没収したマダムを説得したの」
アメリアは彼と視線を合わせて悪戯っぽく笑った。
「君のことだから、きっとそのマダムが秘密にしていた謎を解いてしまったのだろうね。全く、手に余る生徒だよ」
アルバートは敢えて真面目な顔で言って、アメリアに腕を差し出した。
「どうかしら?あの頃の私は全然世の中を知らなかったから、謎を解いたというには程遠かったわ」
アメリアはそう言って微笑むと、彼の腕に自分の手を掛けた。
やはりデッキは風が強いのでそろそろ船内に戻った方が良さそうだ。
しかし、二、三歩踏み出したところで、彼女はふと視線を落とした。
「それにしても……残りの短編はどんな話だったのかしら……」
その呟きはほとんど風音に掻き消されたが、アルバートの青みがかった灰色の瞳は彼女の横顔を見つめていた。
***
それから半年ほど経った頃——。
1912年10月のある夜更け、アメリアはアルバートと共に、バークシャーの屋敷にある彼の書斎で過ごしていた。
普段は、夜二人で静かに話したいときには、アメリアの居間で過ごすことが多いが、今日は特別だ。
だって、今日は結婚後初めてのアメリアの誕生日だったのだから。
つい先ほどまで、誕生日祝いの晩餐会が催されており、二人は客人たちと賑やかに過ごしていた。
そして、帰宅する客人を見送り、宿泊する客人が客室に落ち着いたのを確認した後、アメリアはアルバートの提案に応じて彼の書斎で、特別な日のためにとっておいたヴィンテージのポートワインを嗜んでいた。
「——グレイスがあんなに歌が上手だなんて知らなかったわ」
アメリアは晩餐会の終盤に客人たちと応接間で過ごした際に、アルバートの妹でありアメリアの友人でもあるグレイスが披露した歌を改めて称賛した。
「ああ、グレイスはヘンリーがどうしてもと言ったときにだけ歌うんだ。ヘンリーが強硬に主張すればグレイスでも敵わないらしい」
アルバートはグラスの中の暗赤色のポートワインを見つめながら苦笑した。
今晩の彼女の歌のピアノ伴奏は、彼らの次兄ヘンリーが担当していたので、元々は彼の発案なのかもしれないとアメリアは思った。
そして、兄妹の中で随一の芸術家である次兄の奔放さにグレイスが珍しく押し負ける様子を想像して微かに笑った。
「しかし、君の誕生日のお蔭で久しぶりに親しい人たちと会えて良かったよ」
アルバートはしみじみと言った。
4月に起きたタイタニック号の沈没事故以来、英国中がそうであったようにアメリアとアルバートも社交を控えていた。
最近になって徐々に再開しつつあるが、親戚や友人が一堂に会して楽しめる会を催したのは久しぶりだった。
「ええ、本当にそうね」
アメリアも頷いてポートワインのグラスに口をつけた。
口の中に広がる濃厚な甘さを楽しみつつも、彼女はつい今夜会えなかった人々のことを考えてしまった。
単に都合が合わなかった人もいるが、タイタニック号の事故で近親者が犠牲になった人には当然声を掛けるのを控えた。
また、外国に住んでいる人の中には、出席したい思いはありつつも、まだ船に乗ることについて本人や家族が不安視していて来られなかった人もいる。
アメリアの仕上げ学校時代の友人ジュリー——今はアメリカで出版社を経営する一族に連なる紳士ミスター・ジョン・ハーモンと結婚し、ミセス・ジョン・ハーモンと呼ばれている——もその一人だった。
しかし、ジュリーは予めバースデーカードとお祝いの花を贈ってくれていて、先週それを受け取ったアメリアは遠く離れていても変わらぬ友情を改めて感じたところだった。
「マイ・ディア、少し疲れたようだね?」
アメリアが暫く静かだったからか、アルバートが彼女の表情を窺いながら言った。
「大丈夫よ、あなた。でも、あと少し飲んだらそろそろ休もうかしら」
「それが良いかもしれないね。じゃあ、これが最後の一杯かな?」
そう言いながらアルバートが彼女のグラスにクリスタルのデカンタからポートワインを注いだので、アメリアは「ありがとう」と微笑んで、再びグラスを口に運んだ。
一方、アルバートは少し真面目な顔になって口を開いた。
「ところで——」
そう言いながらアルバートはおもむろに立ち上がって自分のデスクの方へと歩いて行った。
そして、引き出しの中から何かを取り出した——白い薄紙に包まれた本のようだ。
彼はアメリアが座っている長椅子の空いたところに腰を下ろすと、手に持っていたそれを彼女に差し出した。
「君にこれを」
「あら?あなたからの誕生日プレゼントはもうもらったはずだけど……?」
アメリアは首を傾げた。
アルバートからの誕生日プレゼントとしては、二人きりの昼餐の際に、ガーネットと真珠のネックレスが贈られていた。
彼は何も言わなかったが、アメリアが彼の求婚を承諾した際に着ていたガーネット色のドレスに合わせて用意してくれたのだろう。
アメリアは心から喜んで、晩餐会でもその華やかなネックレスを身に着けたのだった。
「まあ、これは……誕生日プレゼントと言えるかは微妙なところかもしれない」
アルバートはそう言いつつアメリアに目配せした。
アメリアがそれに応えて静かに薄紙を開くと——中から現れたのは、何年も前に見たきりのライトブルーの本だった。
金色の題字「シャーロック・ホームズの冒険」が部屋の明かりに煌めいた。
「アルバート、これ!」
「ハネムーンの帰りに仕上げ学校時代の話を聞いて、もしかすると、今からでも読みたいんじゃないかと思ったんだ。そのとき君が読んだのもこの版で合っているかな?」
「ええ、ライトブルーの装丁に金色の題字——まさにこの版よ!」
アメリアは添えられていたアルバートの字で書かれたカードにも目を通してそっと微笑んだ。
そして、表紙を優しく撫でると、懐かしい記憶が次々と蘇ってきた。
スイスの仕上げ学校での日々。
そこで解いてしまった謎と思ってもみなかった真相。
疑問に向き合ったことで得られた大切なもの。
そして何より、ジュリーとの友情。
「アルバート、ありがとう。最高の贈り物だわ!」
アメリアは本を脇に置いて、アルバートの首に手を回し、躊躇いなく抱きついた。
彼は灰色の瞳を一瞬見開いたが、どこか愉快そうな笑みを浮かべながら妻を引き寄せた——。
***
翌日からアメリアは、誕生日をお祝いしてくれた人々へのお礼状を書く合間を縫って、その短編集を読み進めた。
そして、全てを読み終えると、ジュリー宛てにお礼状とは別に、ついに「シャーロック・ホームズの冒険」を読了したことと、あの頃伝えられなかった残りの短編の感想を書いた手紙を送った。
すると、わずか数週間後にジュリーからは長文の返事が届いた。
アメリアはその便箋の枚数に目を丸くしつつも一文字一文字を愛おしむように読み、すぐに返事を考え始めた。
それから、その本に添えられていたアルバートからのカードは、アメリアが宝物をしまう箪笥の引き出しに収められた。
“探偵女男爵の君がまだ『ミス・ホームズ』だった頃の記憶として——A”
アメリアは以降も他の宝物と共にそれを時々見返すことになる。
そして、あの澄んだ湖のほとりで過ごした日々と彼女が今生きている日々の両方を抱き締めるのだった。
外伝までご読了いただきありがとうございました。
下に女男爵になったアメリアが探偵女男爵として活躍しつつアルバート卿と色々あるシリーズへのリンクを張っておりますので、ご興味あればよろしくお願いいたします。




