第四話 悩めるエリートたち(2/2)
行政省へと向かう道すがら、リズは昨日までとは一変した街の情景に目を留めた。大通りを行き交う人々は一様に落ち着きを欠き、開いたばかりの店先には長い列が伸びている。昨日の地震を受け、食料や生活必需品を買い求めようとする市民が殺到しているのだ。
(防壁の外にあるスラムの人々は、無事かしら……)
裕福な者たちでさえこれほどの不安に駆られているのだ。持たざる彼らの生活は、より過酷な状況に追い込まれているに違いない。その懸念はリズの胸に澱のように沈み、足取りを僅かに重くさせた。普段であれば旺盛な好奇心に輝く彼女の瞳も、今日ばかりは深い憂いの色に翳っている。
イマータ市の中心部に建つ、荘厳な行政省の庁舎。その正面玄関を潜り、リズは最上階にある市長室を目指した。高い天井の下、磨き上げられた大理石の床が続く廊下を歩きながら、彼女は小さく溜息をつく。
最上階へと続く階段は、魔法師特有の華奢な体躯を持つ彼女にとって、少々骨の折れる仕事であった。魔法の力を用いれば容易いことだが、平時における無許可の魔法行使は厳禁とされている。それは現在の帝国では、魔法を忌み嫌う風習が根強く残っているからだった。
市長室の前に辿り着いたリズは、軽く息を整えてから、意を決してその重厚な扉を押し開けた。
扉の向こうには、不必要なまでに広く、豪華絢爛な空間が広がっていた。足元には高価な絨毯が敷き詰められ、壁面は著名な画家による大作で彩られている。室内の調度品は、昨日の激震が嘘であったかのように整然と配置されていた。市長の側近たちが、己の安否を差し置いて夜通しで片付けた成果だろうか。そんな皮肉めいた思考を巡らせながら、リズは巨大な執務机の奥に座る男――市長ソレス・アカンガナン子爵へと、静かに視線を向けた。
市長は、手元の分厚い書類から顔を上げた。リズの姿を認めるなり、その口元に薄い笑みを浮かべて言い放つ。
「ようやくお越しになりましたな、リズ卿」
慇懃な言葉の端々には隠しきれない嫌味と皮肉が棘のように混じっていた。
室内には市長のほかに、もう一人の人物が立っていた。リズにとっては初対面の相手である。その男は、絵画のように端正な顔立ちをしていた。
「初めまして。キャロル・ジャスティンと申します」
キャロルは礼儀正しく頭を下げた。だが、その整った顔には、どこか自信を欠いた翳りが漂っている。
(ああ、あなたが……あの有名なキャロル卿なのね。それに噂通り男性だわ)
リズは心の中で密かに呟いた。帝国の貴族社会において、その名を知らぬ者はいない。名門侯爵家の嫡男という輝かしい血筋にありながら、なぜか長年にわたって正騎士への昇格を逃し続けている――そんな、少しばかり不名誉な噂と共に語られる人物であった。
「リズ・メインウェアリングです」
リズもまた、簡潔に名乗りを返した。その名を聞いた瞬間、キャロルの瞳に驚きの色が奔った。彼はすぐに平静を装ったが、リズの鋭い観察眼はその僅かな動揺を見逃さなかった。
(……なによ、その反応。私のことを、何か妙な誤解でもしているのかしら?)
リズは心の中でそう問い返しながら、自身を見つめる青い瞳を冷静に分析していた。
形式ばかりの挨拶を終えると、キャロルとリズは再び市長へと向き直った。
ソレス市長は、二人に課すべき任務を事務的な口調で淡々と告げ始める。
「まず、昨日の地震がイマータ市に与えた影響を詳細に調査せよ。復興に要する費用の概算を早急に算出、報告してもらいたい。特に、市民の生活に直結するインフラの被害状況を重点的に、だ」
そこまでは行政都市の長としての正当な指示に聞こえた。しかし、次に告げられた任務は異質な響きを帯びていた。
「それから、ウージー村へと続く街道にある『大神様の大坑道』が崩落したとの情報が入っている。信憑性は低いが、ウージー村からの報告が途絶えているのも事実だ。念のため現地へ赴き、状況を確認してこい」
ソレスは最後に、喉の奥で転がすような笑みを漏らして付け加えた。
「もし、この二つの任務を二人で無事に達成したならば――キャロル卿には正騎士への、リズ卿には騎士付き魔法師への推薦状を私が書こう」
その言葉には、二人の能力を値踏みするような、厭味ったらしい挑戦的な響きが混じっていた。
リズは以前から、このソレス・アカンガナン子爵という男を「極めて器の小さい人間」だと分析していた。自分よりも遥かに若く、しかも女性でありながら「天才」と謳われるリズの才能を激しく妬み、いつか自分の地位が脅かされることを病的なまでに恐れている。だからこそ、彼女を不当に文官の地位に留め置いているのだと。
(……今思うと、キャロル卿も同じ境遇なのかしら)
リズはふと、隣に立つ美しい青年を盗み見た。名門侯爵家の正統な跡継ぎであり、武術は達人級、教養も深い。そんな非の打ち所のない若者は、ソレスのような男にとっては脅威以外の何物でもないだろう。己の地位を揺るがしかねない若芽を、こうして不毛な任務に追いやり、摘み取ろうとしているに違いない。
冷ややかな確信がリズの胸に刻まれるうちに、市長の訓示は終わった。
リズとキャロルは、背後に残る老いた権力者の視線を振り切るように、二人で市長室を後にした。
市長室を辞した二人は、そのまま重々しい空気が漂う会議室へと足を運んだ。今後の具体的な進め方を協議するためである。議論は白熱し、窓の外で陽が落ち、銀色の月が中天に掛かる頃、二人はようやく重い扉を開けて廊下へと姿を現した。
それまでの数時間、会議室では復興予算の編成方針を巡り、徹底的な議論が交わされていた。地震被害の規模予測、復旧に要する人員と資材の算出、そして財源の確保――。膨大な資料と格闘した末、ようやく大まかな方針が定まった。あとは現地の詳細な被害状況さえ把握できれば、予算の試算まで漕ぎ着ける段階にいた。
キャロルの提案により、詳細な実態調査は行政省内にいる彼の信頼できる同僚たちへ委ねることとなった。騎士団員としての機動力と情報収集能力を活かすためだ。だが、彼らからの正確な報告が手元に届くには、あと数日の猶予が必要だった。
二人はその空白の時間を利用し、もう一つの任務である「大神様の大坑道」の調査へ赴くことを決めた。出発は明日の正午、街の北門。
すべての予定が決した時、二人の顔には隠しようのない疲労が色濃く刻まれていた。
会議室を出た際、キャロルが少し躊躇うような素振りを見せ、リズに声をかけた。
「リズ卿……」
何かを言い淀むようなその様子に、リズは咄嗟に身構えた。
(まさか、こんな時間から食事の誘い? 悪いけど、あなたみたいなタイプは私の趣味じゃないのよね)
心の中で冷ややかに先手を打つリズ。しかし、彼女に向けられたキャロルの表情には、相変わらずの自信なさげな揺らぎが浮かんでいるだけだった。
結局、彼から発せられたのは「お疲れ様でした」という、どこか力ない一言のみであった。リズは短く頷いてそれに応えると、夜の静寂に包まれた街路を、足早に自分の屋敷へと歩き出した。
翌朝、リズは早朝から旅支度に取り掛かった。他都市への出張経験も豊富な彼女の動きに迷いはない。着替え、必要最小限の魔導具、そして数冊の書物。魔法師ゆえに、一般的な旅人に比べて荷が嵩まないのは幸いだった。
支度を終え、しばらく留守にする旨をメイドに伝えて屋敷を出る。ふと、昨夜のまま放置された自室の惨状を思い出したものの、「今は坑道の調査が最優先」と自分に言い聞かせ、その懸念を意識の隅へと押しやった。
一方、キャロルの屋敷の前には、ひときわ異彩を放つ豪華な馬車が据えられていた。磨き上げられた漆黒の黒檀で作られた車体は、朝陽を浴びて重厚かつ鈍い光を放ち、要所に施された精巧な金細工がジャスティン家の権威を無言に誇示している。
御者台と客車の間にある荷台には、常用する武具を収めた堅牢な鎧櫃が積み込まれた。愛用の長剣と盾もまた、すぐに手に取れるよう御者台の足元に厳かに備えられている。騎士団の制服に身を包んだキャロルは、その立ち居振る舞いに貴族の端正さと騎士の規律を漂わせていた。
準備が整うと、キャロルは執事長と短い言葉を交わし、数日の不在を伝えてから自ら御者台へと乗り込んだ。
「ハッ!」
鋭い掛け声と共に手綱が鳴る。二頭の栗毛の駿馬は、その逞しい足並みを軽やかに躍動させ、まるで踊るような足取りで石畳を蹴った。
黒檀の馬車がゆっくりと動き出し、大通りへと消えていくまで、執事長は深々と頭を下げ続けていた。その表情には、主への揺るぎない忠誠と、隠しきれぬ案じる眼差しが宿っていた。
約束の刻限より少し早く、リズは待ち合わせ場所である北門に到着していた。
陽光に照らされた門の周辺は、未だひっそりと静まり返っている。昨日の市長室でソレスから投げつけられた嫌味が、依然として彼女の心に刺さったままだった。
(これから旅を共にするキャロル卿も、もしあんな風に尊大な男だったら……)
そんな警戒心を抱きながら、リズはキャロルの到着を独り静かに待っていた。
ほどなくして、遠くから規則正しい蹄の音と車輪の響きが近づいてきた。やがて、陽光を弾く漆黒の馬車がリズの目前に静止し、御者台から騎士団の制服を纏ったキャロルが姿を現した。そのあまりに場違いな優雅さを前に、リズは思わず目を見開く。
(……正気? こんな調査の旅に、わざわざこれほど豪華な馬車で来るなんて。さすがは名門侯爵家のお坊ちゃん、と言ったところかしら)
リズの内心の驚きを露ほども知らず、キャロルは軽やかに地を踏むと、流れるような身のこなしで彼女をエスコートすべく歩み寄った。
「リズ卿、お待たせしました。さあ、こちらへ」
恭しく差し出されたその手を見て、リズはさらに混乱を深めた。
(これは、ただの観光旅行ではないはず。道中、魔獣や盗賊に襲われる危険だってあるというのに、こんな浮世離れした出発で本当に大丈夫なの……?)
戸惑いを隠せないまま、それでもリズは促されるままに彼の手を取り、導かれるように車内へと乗り込んだ。
馬車の内装は、外見からの想像を上回る贅を尽くしたものであった。しなやかな革張りのシート、精緻な彫刻が施された調度品、そして控えめながらも機能的な小テーブルまでもが備わっている。
清々しい秋の陽光が降り注ぐ正午過ぎ。二人の、少しばかりぎこちない調査旅が幕を開けた。重厚な黒檀の馬車はゆっくりと北門を抜け、未知の不穏を孕んだウージー村へと続く街道を滑るように進んでいった。
【100万字超・完結済み・執筆済み】
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