第五話 夢と現実の狭間で(1/2)
秋の日は釣瓶落とし――茜色の残照が、イマータ市を出て北へ向かう街道を長く染め上げていた。空気はひんやりと澄み渡り、遠くの森からは断続的に虫の音が響いてくる。クエルタ州の主要都市を結ぶこの交易路は、平時であれば荷馬車の軋む音や御者たちの活気ある掛け声で賑わっているはずだが、先日の地震の爪痕は深く、行き交う人影はまばらであった。路面には今も細かな亀裂が走り、時折、馬車の車輪がカタカタと乾いた音を立てて微かに跳ねる。
そんな寂寥とした街道を、ひときわ異彩を放つ馬車が進んでいた。磨き上げられた黒檀の車体は、沈みゆく陽光を浴びて鈍く重厚な光を放ち、要所に施された精巧な金細工が鮮やかに浮かび上がっている。二頭の栗毛の駿馬は、その逞しい足並みを軽やかに躍動させ、まるで踊るような足取りで街道を駆けていく。
御者台に控えるのは、端正な顔立ちの青年――キャロルだ。彼は、その豪奢な佇まいに向けられる稀な視線など意に介さず、手綱をしっかりと握り、前方をまっすぐに見据えている。時折、吹き抜ける風に金色の髪がさらりと揺れた。
キャロルは、背後の客室にいるリズを気遣うように、静かに声をかけた。
「リズ卿、そろそろ日が暮れます。この先、しばらくは小さな村一つありませんので、今夜は野営となりますが、よろしいでしょうか?」
その声は、執務室で見せていた自信なさげな響きとは異なり、落ち着いた確かな力強さを伴っていた。
手綱を握る指先に力を込め、キャロルは背後に続く客車の重みを、その掌にしっかりと感じていた。自分の後ろには、年若く可憐な文官が乗っている。何があっても、彼女を傷一つなく送り届けなければならない。震災後の不穏な空気の中、自分が揺らげば守れるものも守れなくなる――そんな切実な使命感が、彼の背筋を自然と伸ばさせていた。
客室の中では、リズが深紅の革張りのシートにゆったりと身を預けていた。窓から差し込む夕焼けの帯が、彼女の白い肌をほんのりと朱に染めている。
これまでの道程は、彼女の想像をはるかに超える快適さであった。しなやかな上質の革シートは、まるで高級なソファーのように体を包み込み、長時間の移動による疲労を全く感じさせない。何らかの魔法的な術理が組み込まれているのか、馬車の揺れもほとんど身体に響かなかった。
街道周辺はクエルタ州の騎士団による巡回が徹底されているらしく、魔物の気配はおろか、獣の唸り声や不審な盗賊の影すら見当たらない。あまりの平穏と心地よさに、リズは今回の旅が決して楽しいピクニックではないという事実を、危うく忘れかけていたほどであった。
キャロルの声に、リズは客室前方にある小さな仕切り窓から、顔をひょっこりと覗かせた。燃えるような夕焼け空を背負い、まっすぐに伸びる漆黒の髪が、縁取られた光を浴びて神々しいほどに輝いている。
「ええ、構わないわ。むしろ楽しみなくらいよ」
クエルタ州の文官として、他都市への出張で幾度か野営を経験している彼女にとって、それは決して苦な行事ではなかった。むしろ、閉塞感のある執務室を離れ、遮るもののない開放的な空の下で過ごす夜は、格好の気分転換にさえなる。
リズの快い返諾を聞き届け、キャロルはゆっくりと手綱を引き絞った。馬車が街道を左へと逸れ、乾いた土の音から、柔らかな草を踏みしめる湿った音へと変わる。小川の涼やかなせせらぎが近づくにつれ、視界は開けた草原へと繋がっていった。
やがて、選ばれた一角に馬車が静かに停車する。馬たちが低く鼻を鳴らし、蹄が土を叩く音が夕暮れの静寂に小さく波紋を広げた。完全に動きが止まると、キャロルは御者台から軽やかに飛び降り、後部客室のドアへと歩み寄った。
「さあ、リズ卿、こちらへ」
差し出された掌。それは騎士見習いとして日々剣を振るう者にふさわしく、節くれ立ち、確かな力強さを宿していた。リズはその手を取り、吸い込まれるように外へと降り立った。
茜色の空の下、ふわりとしたローブに包まれた彼女の華奢な輪郭が浮き上がる。吹き抜けた風が、黒く艶やかな髪を優しく揺らした。
キャロルはすぐさま野営の支度へと移った。手際よく二頭の馬に水を与え、持参した飼葉桶にたっぷりと燕麦を注ぐ。馬具の調整、馬を繋ぎ止めるための杭打ち。その一連の動きには一切の無駄がなく、洗練された騎士の所作そのものであった。
リズは少し離れた場所から、その光景をぼんやりと眺めていた。移ろいゆく空を見上げ、足元の草花を指先で摘んでみる。ふと我に返った彼女は、好奇心と、一人で立ち働かせることへの僅かな申し訳なさを瞳に宿し、キャロルの傍へと駆け寄った。
「……私も、手伝うわ」
リズは、傍らに立てかけた身の丈ほどもある魔法の杖へ、そっと唇を寄せた。
「――光よ」
杖の先端に、柔らかな光の球が灯る。それは小さな太陽のごとく、すっかり夜の帳が下りた草原を円形に切り取った。周囲の草木がその光にさらされ、昼間よりもいっそう深い緑を瞳に焼き付けてくる。
キャロルはその光を頼りに、焚き火の準備を始めていた。乾いた薪を丁寧に組み上げ、火打ち石と打ち金を打ち合わせる。硬質な金属音が何度か響いた後、鋭い火花が火口に爆ぜた。ついに小さな炎が這い上がり、乾いた薪へと燃え移っていく。パチパチと爆ぜる軽快な音が静寂に混じり、周囲に心地よい熱が広がった。
さらにキャロルは、馬車の床下にある格納スペースから、折りたたみ式のテーブルと椅子を迷いのない手つきで取り出した。木製の天板が開き、金属製の脚が「カチッ」と小気味よい音を立てて固定されていく。
「まさか野営で、これほど立派な家具が出てくるなんて……!」
リズは再び、その黒色の瞳を丸くした。
「さすがは由緒あるジャスティン侯爵家のお坊ちゃん、と言うべきかしらね」
吐息と共に漏れた言葉には、純粋な感嘆と、ほんの少しの皮肉が綯い交ぜになっていた。
夕食もまた、キャロルの用意した逸品であった。通常の野営ならば、岩のように硬いパンと塩辛い干し肉が定番だが、名門のそれは一線を画していた。
パンは噛みしめるほどに小麦本来の甘みが弾け、口の中でほろりと解けていく。なぜか、とてつもなく美味しい。干し肉もまた、単なる塩漬けではなかった。数多の香辛料とソースが芯まで染み込んでいるのか、噛むたびに豊かな風味が溢れ出し、鼻を抜ける芳醇な香りが空腹の二人の食欲を執拗に突き動かした。
リズは、この非日常的な夜の特別感を存分に享受していた。温かな野菜スープをゆっくりと啜り、その熱が喉を通る感覚を楽しみながら、ふと視線をキャロルに送った。
(……どうして彼は、見習いの身でありながら、これほどまでに立ち回れるのかしら)
単なる育ちの良さだけではない。この無駄のない動きの裏にあるのは、彼の本質的な生真面目さ故なのか。火に照らされた彼の横顔を、リズはスープの湯気越しに静かに見つめていた。
食後の片付けを終えると、キャロルは折りたたみ式の什器を丁寧に収めながら、リズへと向き直った。
「夜の見張りは私が務めます。リズ卿は、どうぞ車内でゆっくりとお休みください」
焚き火の残光に照らされた彼の声は、穏やかで、深い気遣いに満ちていた。
だが、リズはその申し出を即座に撥ねのけた。
「あら、遠慮なんていらないわ。私は魔法師よ? 周囲に不審な影が近づけば即座に検知する魔法くらい、とうの昔にマスターしているもの」
彼女は薄い胸を張り、そんな初歩的な魔法など朝飯前だと言わんばかりの、自信に満ちた表情を浮かべる。そして「だから、あなたもちゃんと休んでちょうだい」と、念を押すように付け加えた。
続けて、リズは唇の端を吊り上げ、悪戯な笑みを浮かべて言い放つ。
「ねえ、二人で客室のソファーに横になりましょうよ。その方が、きっと疲れも取れるわ」
キャロルは絶句した。見る間に、その白い頬がほんのりと熱を帯びていく。
「それは……いけません。私は、その……婚姻関係にもなく、ましてや婚約もしていない麗しい女性と同じ部屋で夜を過ごすなど、騎士としての倫理観が許しません」
彼はきっぱりとした口調で、断固として客室での休息を拒絶した。付け入る隙のないその頑なさに、彼の本質的な実直さが透けて見える。
「あら、そう」
リズは、どこか楽しげに目を細めてそれを受け入れた。
「残念だわ」
その言葉に、本心から惜しんでいる様子がないことは明白だった。
キャロルは自分がからかわれたことに気づき、内心で少しばかり口を尖らせた。彼はややぎこちない足取りで御者台によじ登ると、持ち込んだ厚手の毛布を広げ、横になる準備を始める。見上げた夜空には、無数の星々が瞬き始めていた。
リズは、馬車を中心に極めて微弱な警報の魔法を静かに展開した。目に見えない魔法の結界が、薄膜のように馬車を優しく包み込んでいく。
役目を終えると、彼女は足早に客室へと乗り込んだ。窓の隙間から、御者台に背を向けているキャロルに向かって「おやすみなさい、キャロル卿」と声をかける。
深呼吸をして、しなやかな革張りのソファーに身を横たえる。窓の外に広がる満天の星々が、彼女の黒色の瞳に優しく映り込んだ。
遠く、森の奥でフクロウの鳴き声が、静寂をなぞるように響いていた。
東の地平線が白み始め、夜の帳をゆっくりと剥ぎ取っていく。昨夜、魔法で灯した光はとうに消え、代わりに薄紫色の朝もやが草原を低く這っていた。小川のせせらぎは夜通し響き続け、草の葉に結んだ露が重みに耐えかねて地面へ滴り落ちる。その冷ややかな静寂を破るように、二頭の馬が低く鼻を鳴らした。
キャロルは自ら早朝に起床し、客室でまだ微睡みの中にいるリズへ声をかけた。
「リズ・メインウェアリング卿、朝です。朝日が昇ってきました」
その声は、昨夜の生真面目な響きよりも幾分か柔らかく、静かな朝の空気に溶け込むような温かさを持っていた。
普段の生活とは違う、少し低く、そしてどこか遠慮がちな呼び声。それを耳にして、リズは自分が旅の道中にあることを思い出した。寝ぼけ眼を擦りながらゆっくりと上体を起こし、「おはようございます、キャロル卿」と、まだ少し掠れた声で応じる。
二人は、昨夜の残りのパンと干し肉、そして温かいお茶で簡素な朝食を済ませると、手際よく身支度を整えて北へと向かう旅を再開した。朝日に照らされた草原は、露に濡れて宝石のようにキラキラと輝き、馬車の行く先を祝福しているかのようだった。
出発の間際、リズは少し改まった口調でキャロルに向き直った。
「あのね、キャロル卿。私のことを『リズ卿』って呼ぶのは、なんだか堅苦しいからやめてほしいの。リズでいいわ。その代わり、私もあなたのことをキャロルさんって呼ぶから」
彼女の真っ直ぐな言葉には、この旅を通じて確かな親交を築きたいという、飾り気のない意思が込められていた。
キャロルは一瞬、戸惑うように視線を彷徨わせたが、リズの真剣な眼差しに押されるようにして頷いた。
「わかりました。では……リズさん、と呼ばせていただきます」
ややぎこちない承諾。返した言葉とは裏腹に、彼の耳はほんのりと赤く染まっていた。
旅はその後も順調に進み、リズにとってはまるで夢のような穏やかな時間が流れた。キャロルとの会話は昨日よりもずっと打ち解けたものになり、互いの趣味や興味など、様々な話題が尽きることなく溢れ出した。
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