第五話 夢と現実の狭間で(2/2)
そして二日目の昼下がり――。
二人の眼前に、巨大なトンネル「大神様の大坑道」の入り口がその姿を現した。
岩肌をどのような手段で削り出したのか、それは見事なまでの正方形にくり抜かれ、巨大な口を開けて獲物を待ち構えているかのようであった。
大坑道の入り口を前に、キャロルは馬車を停車させた。その刹那、それまでの穏やかな表情は霧散し、眉間に深い皺が刻まれる。
「ここからは、警戒を厳にします。気を引き締めてください」
低く、地を這うような声。彼は御者台後方の荷台から重厚な鎧櫃を引き出すと、その蓋を厳かに開いた。中には、騎士団の正規装備一式が、主を待つ獣のように静かに鎮座していた。
キャロルは躊躇うことなく制服の上着を脱ぎ捨てる。露わになった肉体は、日々の過酷な鍛錬を物語るように一切の無駄がなく、隆々とした筋肉が機能美すら感じさせた。
彼は一つ一つのパーツを、肌に馴染ませるように丁寧に装着していく。磨き上げられた鉄の鈍い輝きが、彼の精悍な顔立ちをより鋭く際立たせていく。堅牢なブーツ、腰を保護するスカート、胸当て、背当て、肩当て――。そして、頭部を完全に覆うフルヘルム。最後に両腕の甲手を確実にはめ込むと、鋼の隙間から、射抜くような鋭い眼光が放たれた。そこにいたのは、もはや自信なさげな見習い騎士ではない。死線を潜り抜けてきた歴戦の戦士そのものであった。
二人はその後、再び馬車を走らせた。だが、特に何事も起きぬまま、大坑道の崩落箇所はおろか、壁面に傷一つ見つけることさえなく二日目の夜を迎えた。
あまりに順調で、あまりに快適な旅。リズは内心、この単調な旅に飽きさえ感じ始めていた。
巨大なトンネルの内部は、壁面や天井そのものが淡い光を帯びており、松明すら必要としないほど昼間のように明るい。しかし、一向に変化の訪れない幾何学的な景色は、徐々に彼女の好奇心を摩耗させ、鈍い退屈へと変えていった。
代わり映えのしない景色に抗うように、リズは夕食の合間を縫ってキャロルへ言葉を投げかけた。
「ねえ、キャロルさん。この『大神様の大坑道』がどうやって造られたか、知っているかしら?」
スープの湯気の向こうから、彼女は興味深げにキャロルの反応を伺う。
キャロルは当然の嗜みとして、淀みなく答えた。
「ええ、もちろん。二百年以上前、この地を治めていた当時の四天王が、土の大神様の権能を振るい、わずか一夜にして穿ったとされています。幅、高さ共に二十七メートル、全長三十二キロメートルにも及ぶこの巨躯を、歪みのない正方形にくり抜いた……と」
帝国学院で高度な教育を修めた貴族の子弟にとって、こうした歴史や地理の知識は、呼吸をするのと同義の常識であった。
しかし、リズはさらに踏み込んだ問いを重ねる。少しだけ身を乗り出し、その瞳に鋭い知性の光を宿して。
「では――その『大神様』とは、一体何者なのかしら?」
この問いには、キャロルもすぐには口を開かなかった。しばしの思案の後、暖炉代わりの魔法の灯に照らされた顔を上げる。
「大神様、ですか……。表向きはアビーク帝国独自の土地神とされていますが、その起源はさらに古い。かつて大陸を統一した古代魔法王朝の時代、対魔神兵器として召喚された四柱の精霊王――それこそが彼らの真の姿です」
キャロルの語る言葉は、学院の教科書には載らぬ、秘匿された歴史の断片であった。
「火、水、風、土の四属性を司る精霊王たちは、当時の大魔法師が鋳造した『支配の錫杖』によって縛られ、使役されました。魔法王朝が崩壊した後も、錫杖による隷属の呪縛は解けず、彼らはこの地に留まることを余儀なくされたのです。それを建国王アテロム一世が拾い上げ、再び四柱を従えて大陸を統一した……。建国後、王はその強大な力を四天王へと分かち、錫杖と共に各州の統治を委ねました。民はその絶大な加護、もたらされる豊穣に跪き、いつしか畏敬の念を込めて彼らを『大神様』と呼ぶようになった。クエルタ州が奉じているのは、そのうちの一柱、土の精霊王というわけです」
これは、高位魔法師の私塾や、限られた一族の書庫でしか触れられない、世界の深淵に属する知識であった。リズはキャロルの言葉を一つ一つ噛みしめるように聞き入り、漆黒の坑道の奥へと視線を巡らせた。
キャロルの淀みなき回答を耳にし、リズはそれが自身の持つ知識と寸分違わぬものであると深く首肯した。彼は単なる名門の御曹司ではない――文武の研鑽を怠らぬ、真に秀でた人物であることを改めて確信した。物腰はあくまで穏やかで控えめだが、内に秘めた知見と冷静な分析力は、見習い騎士という今の肩書きからは想像もつかぬほどに深い。彼女は、彼に対する評価を胸の内で密かに、かつ大きく上方修正した。
会話の端緒は、そんな知恵比べのようなものから、やがて現在の帝国の統治体制という重い命題へと移ろっていった。
リズは、わずかな酒の熱にあてられたのか、あるいは積もり積もった鬱屈が限界を超えたのか、その物言いは普段以上に率直で、刺々しいものへと変わっていった。
「あたしはね、キャロルさん。あのソレス市長が心底大嫌いなのよ。あんな器の小さな男の部下でいなきゃいけないなんて、本当に勘弁してほしいわ。……ねえ、あなたの力でどうにかできないの?名門ジャスティン家の権力をもってすれば、少しは融通が利くんじゃないの?」
吐き出された言葉には、喉元までせり上がった苛立ちが苦く滲んでいた。
それに対し、キャロルは表情一つ崩さず、静かに、そして冷静に返した。
「ソレス市長は、このクエルタ州を治める四天王、クエルタ公爵閣下によって直接任命されています。彼を失脚させること自体は不可能ではありませんが、そうなれば公爵閣下の任命責任が問われることになる。それは貴族としての経歴に拭い難い汚点を残すも同義です。故に、公爵はありとあらゆる手段を講じてソレスを守り抜くでしょう」
彼の声に感情の揺らぎはなく、ただ冷徹な事実を一つずつ並べていくようであった。
「なによ、その『ありとあらゆる手段』って?」
リズはさらに身を乗り出し、射抜くような視線をキャロルへ向けた。
「そうですね……婚姻や血縁関係を網の目のように手繰り寄せることもあれば、より直接的な手段――買収による元老院への工作も厭わないでしょう。そうしてソレスの罷免を求める声を『一部の偏った意見』として封じ込め、元老院の議決を否決へと導くのです」
キャロルの淡々とした語り口は、かえって政治の生々しい実態を浮き彫りにした。華やかな貴族社会の裏側で蠢く複雑な権力構造と、冷酷なまでの保身の論理。リズは、自分が踏み込もうとしている世界の深淵を、彼の言葉の端々から垣間見た気がした。
「それって……」
リズは言葉を失い、絶句した。政治の世界、あるいは貴族社会に昏い闇が潜んでいることは知識として知っていた。だが、これほどまで露骨で、救いようのない構造だとは想像もしていなかった。彼女が胸に抱いていた公正で公平な政治という理想が、目の前の冷徹な現実によって無残に削り取られていく。
「あたし、文官なんてやめようかしら」
リズは、誰に聞かせるともなく小さく呟いた。
「国政に直接関わらなくても、国や人を幸せにできる方法は、他にもあるはずだわ」
その瞳には、深い失望の色が澱のように沈んでいた。
キャロルは意外そうな、驚きの表情を浮かべた。
「天才魔法師と名高いあなたでも、そんな風に迷い、悩むことがあるのですね」
その言葉には、ごく僅かな皮肉と、それを上回る純粋な驚嘆が入り混じっていた。
「それって、嫌味かしら?」
リズは眉をひそめ、不機嫌さを露わにする。自らの才能を揶揄されることに対して、彼女の心は敏感に反応した。
だが、キャロルは即座に真剣な面持ちへと戻り、静かに、しかし熱を孕んだ声で続けた。
「ソレス市長を失脚させるには、ソレス以上にクエルタ公爵閣下に重用されるほかありません。それも、卑劣な裏工作に頼らず、正々堂々とその実力を見せつけることで。……我々までが闇に手を染めてしまえば、そこらに蔓延る腐った貴族と同じ成り下がってしまうからです」
彼は一度言葉を切り、夜の坑道の奥を見据えた。
「私がこうして見習いを続けていることに、焦りがないわけではありません。ですが、ソレスのような男に認められたところで、所詮はたかが知れています。……私は、公爵閣下の目に直接留まるような、より大きな機を待っているのです」
キャロルの言葉は、静かな夜の空気を震わせるほど力強く、揺るぎない決意に満ちていた。その横顔には、これまでの自信なさげな面影はなく、自身の信じる正道を突き進もうとする強靭な意志が刻まれていた。
リズは、キャロルの言葉を一言も漏らさぬよう耳を傾けていた。その瞳は濁りなく、まっすぐに自分を見据えている。嘘偽りのない真摯な眼差し。彼女は、静かな湖面の下で牙を研ぐような彼の野心と、それを実現するための途方もなく周到な計画の存在を、肌身で感じ取っていた。
ふいに、キャロルは周囲に誰もいないことを確かめるように幾度か辺りを見回した。そして、夜の静寂に溶け込ませるように声を潜める。
「……ここだけの話ですが。先日、帝都から元老院の極秘記録が私の元へ届きました。それによれば、数ヶ月前から現皇帝アテロム八世陛下の勅命として、古代の森への侵攻が開始されたとのことです」
彼の声には、微かな緊張と隠しきれない高揚が入り混じっていた。
「土の大神様をも戦力として投入し、クエルタ公爵閣下自らが将軍として、この侵攻作戦の全指揮を執っている……と」
「え……?」
リズは、思わず息を呑んだ。信じがたい言葉を突きつけられ、黒色の瞳が大きく見開かれる。
「そんな話……民衆どころか、私のように元老院に列していない多くの貴族にさえ、一切知らされていないわよ」
リズの声は震えていた。それは困惑ではなく、内側から噴き上がる激しい怒りゆえだった。国家の命運を左右する重大な決断が、民を、そして同じ貴族さえも欺き、一部の権力者の密室で進められている。その身勝手な不透明さが、彼女の知性と正義感を激しく逆なでした。
リズはなおも、堰を切ったように言葉を重ねた。
「土の大神様を戦に投入したということは……本来、民や国への恩恵として注がれるはずの強大な精霊力が、その流れを止めてしまったのではないかしら? その結果、この地の精霊力の均衡が崩れ、ウージー村の不作やあの地震を引き起こした……そうは考えられない?」
まくし立てる彼女の瞳には、切実な訴えと、抑えきれない憤怒が炎のように揺らめいている。キャロルは冷静を装いながらも、わずかに身振り手振りを交え、宥めるように、あるいは自らの無知を弁解するように口を開いた。
「私は魔法師ではありません。精霊の理について深く通じているわけではないのです。ですから、リズさんの立てた仮説が真理を突いているのかどうか、私には判断しかねます」
彼は一度言葉を切り、深く息を吐いてから続けた。
「ですが――言い換えれば、天才魔法師と称されるリズさんがそう断じるのであれば、それこそが正解に最も近い答えなのでしょうね」
その響きには、彼女の知性と天賦の才に対する、揺るぎない敬意と信頼が込められていた。
二人は沈黙の中で、互いの顔をじっと見つめ合った。この予期せぬ危局を、いかにして反撃の好機へと変えるか。歪み始めたこの地の治世をどう正し、そしてこの国の未来をどこへ導くべきか――。
夜が更け、薪が爆ぜる音だけが周囲を包み込んでも、二人の熱い議論が途絶えることはなかった。
焚き火の残光が、その真剣な眼差しを静かに、しかし鮮烈に照らし出している。二人の胸中には、これまで抱いたことのないほど強靭な、変革への使命感が芽生え始めていた。
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