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あの日、小麦色の風が吹いた。  作者: 古代 ルミオン
第一章 黄金色の大地と灰色の尖塔

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第四話 悩めるエリートたち(1/2)

 その地を、人々は「ホットナック大陸」と呼ぶ。

 四方を果てなき海に囲まれたその大地は、東西に約二千六百キロメートル、南北に約二千二百キロメートルという広大な版図を有している。北西から南東へと長く伸びるその地は、北へ向かうほど寒冷となり、南へ下るほど温暖な気候へと移り変わる。多様な亜人種や、時に人智を超えた魔物が生息するこの大陸において、強大な力をもってほぼ全土を支配しているのが、人間種による唯一の国家、アビーク帝国であった。

 建国王アテロム一世によって約二百五十年前に打ち立てられたこの帝国は、一億を超える人口のすべてが人間種で構成されている。広大な領土は四つの州に分割され、それぞれが王家を守護する「四天王してんのう」と呼ばれる強大な貴族によって統治されていた。

 大陸南東部には、その一つであるクエルタ州があり、そこは温暖な気候に恵まれ、肥沃な大地を有している。帝国一と名高いパスタを生産するウージー村は、このクエルタ州の北部に位置する。

 各州には州都のほか、三つの行政都市が置かれ、帝国の統治を支えている。ウージー村は、クエルタ州北部にある行政都市の一つイマータ市の統治下に置かれていた。


 秋晴れの空は、どこまでも高く澄み渡っていた。朝の柔らかな陽光が、イマータ市の石畳を温かなオレンジ色に染め上げている。

 この街はクエルタ州北部の統治を担う行政都市であると同時に、南へは州都イジューフ、東はもう一つの行政都市アコージース、西は他州の主要都市へと街道が伸びる、クエルタ州きっての交易の要衝ようしょうであった。行き交う人々の多くは逞しく生きる一般市民であり、豪奢ごうしゃな装いの貴族階級の姿は稀である。

 日の出を迎えたばかりの街は、昨日の昼下がりに突如として大地を揺らした、あの地震の余波の中にあった。表面上はいつもの朝を装っているものの、街の空気は微かなざわめきを孕んでいる。

 幸いにも、帝国の威信を象徴する強固な石造りの建物が倒壊するような甚大な被害はなく、人命に関わる悲劇も免れたとの報告が上がっていた。しかし、予期せぬ大地の咆哮は、人々の心に目に見えない亀裂を生じさせていた。拭いきれない不安と動揺が、陽光に照らされた街の隅々にまで、薄く、重く漂っている。

 街の中心部には、周囲の景観を圧倒するほどの威容を誇る、三階建ての壮麗な屋敷がそびえ立っていた。磨き上げられた白壁は朝陽を受けて眩いほどに輝き、丹念に手入れされた庭園では、色とりどりの花々が秋風にそよぎ、甘い香りを振りまいている。

 この堂々たる存在感を放つ邸宅の主は、アビーク帝国クエルタ州騎士団に属する二十六歳の青年、キャロルであった。

 彼は名門ジャスティン侯爵家の嫡男ちゃくなんとして生を受けた。「キャロル」という名は、一般には柔らかで女性的な響きを持つが、名門ジャスティン家においてはその将来を大きく嘱望された嫡男にのみ与えられてきた、由緒ある男子名である。それは剛を誇るための名ではなく、しなやかに状況を受け止め、なお折れぬ強さを宿す者――すなわち“しなやかにして強か”であれ、という一族の期待が込められた名であった。

 そしてジャスティン家は帝国の黎明期れいめいきより続く由緒ある家柄であり、百十数年前には四天王家の一翼として、現在のクエルタ州にあたる広大な領土を統治した歴史を持つ名門中の名門である。

 キャロルの容姿は、まるで一流の絵師が描いた肖像画から抜け出たような美しさを湛えていた。やや癖のある金色の髪は短く端正に整えられ、朝の光を吸い込んで微かにきらめいている。澄んだ青い瞳は美しいが、その奥底には、どこか自信なさげな揺らぎが常に潜んでいた。貴族らしい清潔感を漂わせる色白の肌は、大切に慈しまれてきた育ちの良さを物語っている。

 両親の強い意向もあり、国をより良く統治し、民の幸福と繁栄を願う為政者への道として、彼は正騎士の座を目指した。輝かしい家名と騎士としての実績さえあれば、いずれは国政の中枢を担えると考えていたからだ。しかし、入団して五年。未だ正騎士への昇格を叶えられずにいる現状に、彼は人知れず焦燥を募らせていた。


 屋敷の内部には、一族が代々受け継いできた高価な調度品が整然と並び、格式の高さを誇示している。広大なダイニングルームは二十名もの賓客を優雅に迎え入れ、華やかな晩餐会を催すに足る風格を備えていた。また、二十室近いゲストルームは常に一点の曇りなく清められ、遠方からの客人をいつでも温かく迎え入れる準備が整えられている。

 キャロルは屋敷の最上階にある自室で、地震の爪痕が残る調度品を憂鬱ゆううつな表情で見下ろしていた。差し込む朝陽は部屋を明るく照らしているが、壁に立てかけられたまま傾いた絵画や、床に散らばった数冊の書物、そして倒れた花瓶から零れて絨毯に暗い染みを作っている水が、昨日の激しい揺れを無言で物語っている。

 昨晩遅く、市長ソレス・アカンガナン子爵より届いた「明朝早くに登省せよ」との伝言が、彼の心を鉛のように重く沈めていた。窓の外に広がるイマータ市の街並みは晴れやかだが、彼の心象風景はそれとは程遠い。

 金糸の刺繍が施された豪奢な寝台から身を起こし、眠気の残る青い瞳を擦る。整った顔立ちには、普段彼が装っているはずの自信はなく、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。

 階下からは、五十名を超える執事やメイドたちが慌ただしく後片付けに励む物音が微かに響いてくる。廊下を忙しなく行き交う足音や、割れた陶器の破片を掃き集める乾いた音、家具を元の位置へと戻す際の軋み。

(彼らの家族は無事だったのだろうか。あの揺れの瞬間、どこで何をしていたのか……)

 名門貴族の嫡男として育ちながらも、キャロルは自分を支える使用人たちの生活を深く案じる優しさを持っていた。雇い主として何かできることはないかという、答えの出ない自問が胸を重く押し潰す。

 逃れられない責務を背負うように、彼はゆっくりと身支度を始めた。真新しい騎士団の制服に身を包み、黒革のブーツに足を入れる。鏡に映る自分の顔は、いつもより幾分か青ざめているように見えた。普段は端正に整えられている金色の髪も、今は寝癖で少しばかり跳ねたまま、鏡の中で彼を不安げに見返していた。

 重い足取りのまま、キャロルは屋敷のエントランスへと向かった。

 広々とした玄関ホールには、年配の執事長がいつものように背筋を伸ばして控えていた。白髪の混じる頭髪をきっちりと撫でつけ、深く皺の刻まれた顔には、昨日の激震さえも遠い出来事であったかのように一切の動揺が見られない。その冷静沈着な佇まいは、長年ジャスティン家に仕え、数多の荒波を越えてきた老練さを物語っていた。

 キャロルは立ち止まり、今夜は帰りが遅くなるかもしれないと手短に告げた。足早に屋敷を後にしようとする彼の横顔には、隠しきれない焦燥の色が張り付いている。

 たとえ天変地異が起ころうとも、執事長は変わらぬ優雅さで深々と頭を下げた。

「お気をつけて、キャロル様」

 その声音はいつも通り慇懃いんぎんであったが、主を見送る響きには、いつもより僅かに低い憂いを含んでいるように聞こえた。


 イマータ市の喧騒から少し離れた静かな住宅街。そこに、ごくありふれた二階建ての邸宅が佇んでいた。周囲には同じような規模の屋敷が軒を連ね、庭には季節の花々が穏やかに咲き誇っている。豪商の豪邸のような煌びやかさはないが、帝国の上位中流階級が暮らすには十分な広さだ。手入れの行き届いた庭には、朝露が宝石のようにキラキラと輝いている。

 そこが、クエルタ州に仕える魔法師にして文官、リズ・メインウェアリングの住まいである。

 彼女の経歴は異彩を放っていた。帝国で成人年齢とされる十五歳から受験可能な文官登用試験に、若干十三歳で合格。後に年齢詐称が判明し、登用が見送られるという前代未聞の事件を巻き起こした。しかしその二年後、正式に成人となった十五歳で再び試験に臨むと、今度は文句なしの最年少、かつ首席という偉業を成し遂げて合格してみせたのである。

 現在、十六歳。その若さにして彼女の並外れた才能は、すでに大陸の隅々にまで知れ渡っていた。メインウェアリング家は代々続く帝国の貴族だが、爵位は最下級の男爵に留まる。富豪と呼ばれる一般市民よりも財産面で劣ることさえあるが、リズ自身は家柄を卑下ひげすることなど微塵もなかった。むしろ、人の価値を爵位の上下で測るような世俗の慣習を、滑稽こっけいなものだとさえ感じている。

 透き通るような白い肌。それとは鮮やかな対照をなす腰まで伸びた漆黒の髪は、絹糸のような光沢を放ち、朝の光を浴びて静かに輝いている。普段は、可奢な体躯を覆い隠すゆったりとした深い紺色の文官ローブを身に纏っているため、その可憐かれんな容姿が人目に触れる機会は少ない。

 知的な輝きを湛えたその瞳は、常に真理を見通そうとしていた。

 本来、魔法を行使できるほどの能力があれば、より上位の「騎士付き魔法師」から始まり、為政者として華々しいキャリアを積むのが通例である。しかし、リズは市長ソレスに仕えて一年の月日が流れた今も、一介の文官という地位に据え置かれたままであった。若すぎる天才に対する市長や周囲の貴族たちの嫉妬、そして男爵家という家格の低さが、彼女の昇進を阻んでいるのだ。

 それでも、リズが文官として職務に励むのは、自らの魔法師としての能力を政治という舞台で活かし、国と民を豊かにすることこそが、己に課せられた当然の務めだと信じているからであった。


 二階の自室で、若いメイドの声に穏やかに揺り起こされたリズは、深い微睡みを引きずりながらゆっくりと上身を起こした。

「リズ様、おはようございます。市長様から、朝一番で登省せよとのお呼び出しが……」

 その言葉で、リズは昨晩遅くに届けられた急な伝言を思い出した。

「ああ、そうだったわね」

 小さく呟く。普段は朝寝坊を決め込むことの多いリズにとって、日の出直後の起床は極めて稀なことであった。

 象牙の櫛で、長く艶やかな黒髪をゆっくりと梳きながら、彼女は足の踏み場もないほどに散らかった部屋を見渡した。床には読みかけの学術書や魔導書がいくつも塔のように積み上がり、机の上にはインク壺や羽根ペン、書きかけの羊皮紙が所狭しと並んでいる。昨日の激しい揺れで、さらに数多の物が倒れ、混沌に拍車をかけていたが、彼女にとってはそれさえも日常の延長に過ぎなかった。

「……普段と、あまり変わりないかしら」

 リズは自嘲気味に口角を上げると、ベッドを抜け出して身支度を始めた。袖を通すのは、機能性を重視して仕立てられた、飾り気のない深い紺色の文官ローブである。

 朝食の準備に取り掛かろうとするメイドを制し、リズは今夜の帰りが遅くなる可能性が高いこと、そしてこの散らかった自室には手をつけなくていいことを言い残し、慌ただしく邸を後にした。

 昨年、不慮の事故で両親を亡くした彼女は、十六歳という若さでメインウェアリング家の当主を務めている。今は住み込みのメイドと二人、この静かな屋敷を守っていた。

 主を見送るメイドの表情には、心配の色が微かに滲んでいた。だが「かしこまりました、リズ様」と簡潔に頭を下げ、その背中が消えるのを待つ。静まり返った屋敷で、メイドはふうと安堵の息をつくと、踵を返して掃除に取り掛かった。主から「不要」と言い渡されたあの自室の惨状は、彼女にとって日々頭を悩ませる最大の難所であった。


【100万字超・完結済み・執筆済み】

予期せぬ事態にならない限り、読者の皆様に【毎日更新】の確実なワクワクをお届けします。

物語が途中で途切れる(エタる)心配はございません。

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