第三話 二つの襲撃(2/3)
嗚咽と静寂が混じり合う重苦しい空気の中、ルザサードが静かに口を開いた。
「ミツナ、悪いが俺を縛っているロープを解いてくれないか」
その声は、震える二人とは対照的に、驚くほど平坦で落ち着いていた。ミツナは弾かれたように顔を上げ、驚愕に目を見開いて彼を見返した。
「……こんな、こんな状況で、何を言い出すんですか?」
震える声には、困惑と、わずかな拒絶が混じっていた。だが、ルザサードは揺るがなかった。静かに、だが抗いようのない力強さを込めて言葉を継ぐ。
「こんな状況だからこそだ。いいか、よく見てみろ」
彼は顎で、折り重なる三人の遺体を指し示した。
「亡くなった三人のうち、二人は刃物による深い裂傷。もう一人は鈍器のようなもので頭部を強打されている。……これはどう見ても、ただの野生動物の仕業じゃない」
ルザサードの視線が、床に広がる血溜まりの淵を冷徹に追う。
「遺体の傷み具合と、周辺に残された血の状態。死後二、三日といったところか。つまり、この小屋は数日前――おそらくはあの地震の日か、その翌日あたりに、明確な殺意を持った『何者か』に襲撃されたことになる」
彼の分析は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そして的確だった。
「今、俺たちに泣いている暇も、感傷に浸っている時間もないんだよ。……わかるな?」
夕闇が深まり、小屋の隅々に黒い影が這い寄る。ルザサードの冷徹な言葉は、ユーバの悲鳴で支配されていた空間を、一瞬にして「戦場」へと塗り替えた。
ミツナは、目の前の男が放つ異様な静寂に呑み込まれそうになっていた。この短時間で惨状を読み解き、最善を導き出そうとするルザサード。その姿は、到底ただの行商人とは思えない。彼の言葉に宿る理に抗えず、かといって信頼を預ける勇気も持てない。矛盾する感情が、彼女を深い混乱の渦へと突き落としていた。
その沈黙を破り、膝をついていた巨躯がゆっくりと持ち上がる。ユーバは、涙で濡れた目を手の甲で力任せに拭うと、低い声でルザサードの言葉を肯定した。
「ルザサードの言う通りだ……それに、足跡がある」
彼は、血溜まりを避けた床の汚れに指を指し示した。
「これはゴブリンか、それに類する亜人種のものだ。大きさからして、子供か小柄な個体が混じっているが、数は……五匹は下回らない」
声にはまだ震えの残滓があった。しかし、その瞳には警備隊員としての冷徹な観察眼が戻りつつある。ユーバの分析を、ルザサードは口を挟まずに聞き入っていた。表情に変化はないが、その瞳の奥には、若き警備隊員の観察力に対する僅かな感心の光が宿った。
ミツナとユーバは、互いの視線で意思を交わし合う。短い、だが極めて真剣な議論の末、彼らは一つの賭けに出る決断を下した。
ルザサードの手首を縛っていた麻縄が、解かれる。
ただし、武器の携行は許されない。ユーバは解放された男の動向を射抜くように見据え、自らの大剣の柄にすぐさま手が届くよう、腰の佩き位置を微調整した。ルザサードは、丸腰のまま戦場に立つことへの不満を幾度も口にしたが、二人の頑なな表情を見て、やがて肩をすくめた。諦めたように吐き出した小さな溜息が、暗い小屋の中に低く沈んでいく。
夕陽は完全に没し、世界は夜の領分へと移り変わった。小屋の隙間から吹き込む夜風が、血の匂いをさらに濃く引き連れてくる。
ユーバは重厚な鉄製の鎧を纏うことを選ばなかった。代わりに、抜き身の大剣を右手に、鉄製の盾を左手に携え、見張り小屋の周囲を慎重に巡った。草むらの揺らぎ、樹木の影、風の吹く方向――。だが、どれほど五感を研ぎ澄ませても、そこにゴブリンの狡猾な気配も、獣の荒い息遣いもなかった。聞こえてくるのは、ただ夜を告げる鳥の声と、寂しげな風の音だけだ。
小屋に戻ったユーバの報告を受け、三人の間に張り詰めていた糸が、ようやくわずかな緩みを見せた。しかし、室内に澱む重苦しい空気は、依然として彼らの肺を圧迫し続けている。
沈黙を破り、ルザサードが隊員たちの埋葬を提案した。その言葉に、反対する者は誰もいなかった。ユーバは、錆びついたスコップを握り締めながら、ある残酷な事実に打ちのめされていた。もし、勤務の割り振りがわずか数日ずれていれば、この冷たい床に転がっていたのは自分だったかもしれない。逃れがたい運命の気まぐれに、彼は深く、静かに心を痛めた。
小屋の裏手、人目につかない静かな場所に、三つの穴が掘られた。使い古されたツルハシが硬い地表を叩く音。重い土が亡骸を覆っていく乾いた音。そして、時折漏れるユーバの堪えきれないすすり泣きが、夕闇の静寂に溶けていく。
埋葬が終わると、ミツナが胸元の聖印を握りしめた。震える声で神への祈りを捧げる彼女の背中に、銀色の月光が降り注ぐ。
祈りを終えた彼らは、再び小屋の中へと戻った。
溜めてあった水を床に撒き、乾きかけた血痕や、あの忌まわしい亜人種の足跡を洗い流していく。水が床の木目を伝い、赤黒い汚れを連れ去るたびに、凄惨だった空間は少しずつ、ただの「空虚な箱」へと戻っていった。
ふと顔を上げれば、月は夜空の真上に座し、冷たい光で大地を照らしている。瞬き始めた星々の下、夜の帳はどこまでも深く、三人のいる小さな小屋を静かに包み込んでいった。
深い夜の静寂の中、三人は今夜の身の振り方を決めた。小屋に備蓄されていたはずの食料は、襲撃者によって根こそぎ持ち去られていた。彼らは各々が持ち寄った僅かな蓄えを、暗い火影の下で分け合った。石のように硬いパン、噛み切りにくい干し肉。言葉少なに咀嚼する質素な夕食だったが、疲弊しきった体には、その滋味が重く染み渡った。
今夜の見張りについて、自分も立つと言い張るミツナを、ルザサードが鼻で笑って制した。
「いいからあんたは寝てな。明日、あんたの祈りが必要な時に疲れで手が震えてました、なんてことになったら……俺たち全員、笑えねえ結末になるんでね」
相変わらずの減らず口だったが、そこには彼女の消耗を気遣う、彼なりの理屈があった。
「そうだよ、ミツナ。ここは俺たちに任せて、少しでも休んでくれ。ミツナのことは俺がちゃんと守るから」
ユーバもその大きな手でミツナの肩を優しく叩き、諭すように言った。だが、ミツナは幼馴染の顔をじっと見つめると、少しだけ眉をひそめて彼の頬を突いた。
「……無理するのは禁止だからね、ユーバ。あんた、昔からすぐ一人で抱え込むんだから。……いい? 何かあったらすぐに起こすこと」
姉が弟を嗜めるようなその物言いに、ユーバは「わかってるって」と苦笑いを見せる。ミツナは不満そうにしながらも、その気遣いを素直に受け入れ、毛布にくるまった。
夜は、特に何も起こることなく過ぎていった。
風の音、遠くで鳴く夜鳥の羽ばたき。そして時折、闇に紛れるように聞こえるユーバとルザサードの低い話し声。それだけが、冷え切った夜の空気を僅かに震わせていた。
「ユーバ、朝だ。起きろ」
低く、どこか強制力のあるルザサードの声で、ユーバは重い瞼を持ち上げた。夜通し警戒していたはずが、いつの間にか意識を失うように微睡んでいたらしい。ユーバは己の不覚を恥じる暇もなく、隣で眠るミツナの肩を優しく揺らした。
「ミツナ、朝だよ。起きて」
朝露に濡れた空気の中で簡単な食事を済ませると、三人は手際よく旅支度を整えた。荷を背負い、再び街道に目を向けたユーバが、消え入りそうな声で漏らす。
「……ミツナ。やっぱりこのこと、一刻も早く村に知らせないと。あいつらを、あんな風に残したままにはしておけないよ」
昨日まで共に笑っていた先輩たちの墓標を、何度も振り返るユーバ。その背中は、巨躯に似合わずひどく心細げに見えた。ミツナはため息をつく代わりに、彼の逞しい腕をぐいと引っ張り、その真っ直ぐな瞳を覗き込んだ。
「……気持ちは痛いほどわかるわ。でも、今から村に戻っていたら日が暮れる。ねえ、よく考えて、ユーバ。今一番大事なのは、領主様のところへ行くことでしょう?」
ミツナは眼鏡の奥の瞳で、弟を諭すような、優しくも断固とした光を宿した。
「村のみんなに知らせたいのは私も同じ。でも、今の村に知らせても、地震からの復旧で手が回らないわ。それよりも私たちは私たちの役目を果たしましょう。……ね? ここは書き置きを残して、先を急ぐの」
ユーバは唇を噛み、しばらくの沈黙の末、ようやく小さく頷いた。彼は小屋の入り口の最も目立つ場所に、何が起きたのかを、震える手で簡潔に記した紙を残した。
三人は、忌まわしい記憶の刻まれた見張り小屋を後にした。
昇り始めた朝日が街道を長く照らし出す中、一行は再び、南へと続く未知の道のりへと足を踏み出した。
上空から見渡せば、どこまでも続く草原の海に、南へと伸びる一本の轍が白く浮き上がっている。その遥か先、地平線の境界には、大地に刻まれた巨大な痣のような深い影が、薄ぼんやりとした輪郭を見せていた。「大神様の大坑道」――その巨大な入り口はまだ遠く、旅人たちの足取りでは数刻の距離を残している。秋の透明な光は、目的地までの遠い道のりと、その途上で小さく揺れる三人の影を静かに照らし出していた。
その街道を歩く一行の中で、いつもなら一番騒がしいはずのユーバが元気をなくしていた。先輩や同僚を失ったショックは、彼にとってあまりにも大きすぎた。ミツナも、何とかして彼を元気づけようと、色々と話題を見つけては話しかけたが、彼の返事はいつも上の空で、会話はすぐに途切れてしまった。
そんな時、ルザサードが重い口を開いた。何を言い出すのかと思えば、彼が若い頃にやらかした、どうでもいいような失敗談だった。それは、ある村で間違えて豚小屋に一晩泊まってしまったという、間抜けな話だった。
普段なら笑えるような話だったのだろうが、今のユーバは笑う気持ちにはなれなかった。それでも、不審者だと疑っている相手が、これほどまでに自分のことを気にかけてくれているのだと思うと、彼の心にはじんわりとした温かいものが広がった。
「ヨッシ!」
ユーバは突然そう叫び、自分の両頬をパンパンと叩いた。その瞳には、いつもの明るさが戻っていた。
「ありがとう、ルザサード。もう大丈夫だ!」
ミツナは優しく微笑みを浮かべ、ルザサードは「手のかかるガキだ」と言わんばかりに、しかしどこか嬉しそうな表情になった。彼の口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
いつもの調子を取り戻しつつある三人の道のりは、その後は順調だった。時間は正午を回り、太陽は空の頂点近くに達していた。秋の日差しは心地よく、吹き抜ける風は重い空気を洗い流してくれるようでもあった。
そして日暮れまでには、いよいよ大神様の大坑道の入り口へたどり着くかというところまで、一行は着実に距離を詰めていった。
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