第二話 若者たちのちょっと変わった巣立ち(1/2)
見上げるほどに高い空は、どこまでも突き抜けるような秋晴れに染まり、吹き抜ける風は乾いた冷涼さを帯びていた。本来であれば、この時期のウージー村は地平まで続く黄金色の波――たわわに実った小麦の穂が、豊穣の香りを風に乗せているはずだった。しかし、今年の畑はどこか精彩を欠き、陽光を跳ね返す力も弱々しい。期待を裏切る収穫量の少なさが、村のあちこちに重い沈黙を落としていた。
名高い「ウージーパスタ」の原料となる小麦の不作。それに追い打ちをかけるように数日前、大地を揺るがした激震が、人々の心に癒えぬ不安を深く根付かせている。幸いにして命を落とす者は皆無であったが、視界の先では、自慢の収穫を蓄えていた倉庫の壁が無残に剥がれ落ち、古びた木造の民家が地面に大きな影を写すように傾いていた。
その光景の只中で、ユーバは一心不乱に腕を動かしていた。日に焼けた二メートルを超える逞しい体躯が、重い瓦礫を抱え上げるたびに軋みを上げる。土埃が汗の滲んだ肌に張り付き、秋の陽光を浴びた背中からは、十代後半の若者特有の生気に満ちた熱が立ち上っていた。
この村に生まれ、かつては家業を継ぎ、土と共に生きる農家となることを夢見ていた。だが、彼の手が土に触れても、小麦が応えてくれることはなかった。不器用な試行錯誤を繰り返し、何度目かの挫折に肩を落としていたとき、偶然握り締めた一本の剣が、彼の運命を書き換えた。内に秘めた天賦の才が、警備隊という新たな居場所へと彼を導いたのだ。その実直な人柄と、不器用ながらも迷いのない行動は、今や村人たちにとって何よりの頼みの綱となっていた。
ユーバは路地を塞ぐ重い石材を一つ一つ取り除き、崩落した物置の残骸を整理していく。そのたびに舞い上がる細かな砂塵が鼻腔を突き、作業の過酷さを物語っていた。一刻も早く、かつての静かな日常を取り戻したい。その一念だけで、彼は額に浮かぶ大粒の汗を無造作に拭った。
そのときだった。
「ユーバさん、村長様が至急お呼びです。すぐに村長宅まで行ってください」
背後から響いたのは、肩で息を切り、ひどく狼狽した村人の声だった。
村の南側、正門のほど近くに佇む小さな教会には、石造りの壁を伝う冷ややかな空気と、かすかな薬草の香りが満ちていた。その静謐な空間の中で、ミツナは地震によって傷ついた村民たちの手当てに追われていた。丸いレンズの眼鏡越しに覗く大きな瞳は、絶え間ない作業による疲労を滲ませながらも、触れる者を安らぎへと導くような慈愛の光を湛えている。
つい数年前に二十歳を迎えたの彼女は、この村では稀有な神の奇跡の使い手であった。その掌から溢れ出す柔らかな治癒の輝きは、村の老神父に次ぐとまで称えられている。肩まである特徴的なウェーブを描く金色の髪が、彼女が身を屈めるたびにさらりと揺れ、清楚な横顔を彩っていた。普段から纏っているゆったりとした白い神官服は、その敬虔な立ち振る舞いも相まって彼女の肢体を包み隠しているが、布越しの柔らかな輪郭には、成人した女性としての確かな成長が秘められている。
彼女には、己の血を分けた親を知る記憶がない。赤ん坊の頃、教会の冷たい扉の前に捨てられていたのを、現在の神父に拾われ、慈しみの中で育てられた。身近に養母と呼べる存在はなく、神父の手ひとつで育てられた彼女にとって、彼は唯一無二の親であり、敬愛すべき実の父も同然の存在であった。その背中を追うことこそが、彼女にとっての自然な歩みだったのだ。
また、幼い頃から共に育ったユーバとは、血こそ繋がらずとも本当の兄弟のような絆で結ばれている。危なっかしい弟を見守り、何かと世話を焼く姉としての役割は、彼女が教会の外で見せる数少ない素顔であった。
朝日が昇ってから、まださほどの時間も経っていない頃。教会の重厚な扉が唐突に開き、外の騒がしい空気が流れ込んできた。
「ミツナ様、村長様がお呼びです。至急、村長宅までお越しくださいとのことです」
駆け込んできた村の女性は、肩を上下させ、隠しきれない焦燥をその声に滲ませていた。
村の通りは、地震の傷跡を埋めようとする熱気に包まれていた。あちこちで槌を打つ音が響き、瓦礫を運ぶ荷車の車輪が乾いた音を立てて往来している。立ち上がる土埃の中、家々を再建せんとする村民たちの掛け声が秋空に溶けていく。不作と震災という二重の苦難にありながらも、人々は明日を繋ぐために泥にまみれ、懸命に腕を動かしていた。
ミツナはそんな喧騒の間を縫うようにして歩き、村の中心に構えられた村長宅の門を潜った。この小さな村において、そこはひときわ威容を誇る木造の屋敷であった。手入れの行き届いた庭には、秋の陽光を浴びた季節の花々が静かに揺れ、外界の騒がしさを一線引くような落ち着いた佇まいを見せている。ミツナはメイドの導きに従い、重厚な木目を持つ扉を押し開けた。
通された執務室は、農村の指導者の部屋らしく実直な造りであった。壁には色褪せた地域の地図が掛けられ、床には使い込まれた厚手の絨毯が敷かれている。豪華な装飾品こそないが、長年この地を治めてきた歴史を感じさせる深い木の香りが満ち、訪れる村民の背筋を自然と伸ばさせる独特の重みが漂っていた。
室内の奥、大きな村長席に深く腰を下ろしている村長の傍らには、復旧作業の手を止めて駆けつけたユーバが立っている。その反対側には、無造作な縄で両手を手繰り寄せられた見慣れぬ男――不審者と、その背後で威圧するように控える二人の屈強な警備兵。ひとりの兵士は、男を縛り上げる粗末な麻縄の端を、指が白くなるほど強く握りしめていた。
不審者は抵抗する様子もなく、ただ床に力なく座り込んでいる。突然の呼び出しに加え、この緊迫した顔ぶれを前に、ユーバとミツナは言葉もなく互いに顔を見合わせた。
「皆、よく来てくれた」
村長が口を開いた。低く、よく響くその声は、重厚な部屋の空気を震わせる。刻まれた皺の深い顔には、村の現状に対する、拭い去れぬ苦悩が影を落としていた。
「今年は小麦の出来が例年に比べ悪く、それに加えて先日起こった地震からの復旧には、想像以上の費用がかかる。……このままでは、秋の収穫を待っても、領主様へお納めすべき規定の税を到底工面できんのだ」
村長は、卓上に置かれた真新しい羊皮紙を手に取ると、丁寧に丸めて二人の前へと差し出した。カサリ、と乾燥した紙の擦れる音が静かな室内に響く。
「ついては二人には、この嘆願書をイマータ市にいらっしゃる領主様まで届けてもらいたい。村の窮状をその目で見てきたお前たちの口から直接訴え、税の減免を乞うてくるのだ」
さらに村長は、床に座る男を顎で示した。
「そこの不審者も連れて行け。領主様への、いわば手土産にするのだ」
男は確たる証拠もないまま、ただの騒ぎに乗じた不審な者として捕らえられていたが、今はその処遇すら村の窮状を救うための道具として扱われていた。
「それと道中、街道沿いにある見張り小屋、さらにその先にある『大神様の大坑道』に、何か異常がないかも確認してきてほしい」
村長は念を押すように付け加えた。その眼差しは、二人の若者に村の命運を託す、重く切実な期待に満ちていた。
ミツナは、床に座り込んだままの男へと視線を落とした。荒い麻縄に自由を奪われ、まるで物のように扱われているその姿に、彼女の胸の奥で締め付けられるような痛みが走る。丸い眼鏡の奥の瞳には、不審者への警戒よりも先に、確かな証拠もなく断罪されようとしている者への、行き場のない同情の色が微かに滲んでいた。
そのわずかな心の揺らぎを、床に伏したルザサードは鋭く、そして冷徹に捉えていた。彼は村長に無実を叫ぶ無駄を切り捨て、すでに次の「盤面」を読み始めていた。威厳に凝り固まった村長を動かすよりも、目の前に立つこの純粋そうな若い二人を道中で言いくるめる方が、よほど容易い。男は顔を伏せたまま、その冷めた思考を悟られぬよう、静かに機を窺った。
一方、ユーバはそんな心理戦には気づく由もなく、村長の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、その一挙手一投足に神経を集中させていた。村長の話が終わると同時に、彼は力強く足を踏み出し、深く、そして力強く頷いた。
「村長、ご安心ください。必ずや、領主様との交渉を成功させ、村を救ってみせます!」
若さゆえの真っ直ぐな決意が、重厚な執務室の空気を震わせる。その声の響きに、ミツナもまた己の迷いを振り払うように深く一礼した。
村長からの重い使命を胸に、二人は静かにその場を辞した。扉が閉まる乾いた音が、静まり返った屋敷の廊下に響き渡る。ユーバとミツナは、差し迫った旅立ちの準備を整えるべく、それぞれが慣れ親しんだ自らの家へと足早に戻っていった。
ルザサードは警備隊員の無造作な促しに従い、村長宅の重厚な玄関を後にした。そのまま村の南側に位置する正門へと連行され、門を守る別の隊員へと引き渡される。拘束された両手の自由はない。彼は秋の冷ややかな風に吹かれながら、壁に背を預け、これから旅を共にする二人の到着を所在なさげに待つこととなった。
一方、自宅を兼ねた教会へと戻ったミツナは、堂内に未だ残る負傷者たちの元へと歩み寄った。急ごしらえのベッドに横たわり、地震の傷跡に顔を歪める村人たち。彼女はその一人ひとりの傍らに膝をつき、冷たい手を優しく包み込んだ。「すぐに良くなりますからね」と励ましの声をかけ、指先から伝わる痛みの鼓動を感じながら、彼女は教会の奥にある居住区画へと向かった。
彼女の自室は、両腕を広げれば壁に届きそうなほど、こぢんまりとしたつつましやかな空間だった。高く設えられた小さな窓からは、秋の柔らかな陽光が一筋の帯となって差し込み、宙に舞う細かな塵を白く光らせている。その光に照らされた簡素な木製の机の上には、使い慣れた聖書の紙の匂いと、いくつかの小瓶に詰められた薬草の香りが微かに漂っていた。ミツナは旅に必要な水筒や干し肉、岩のように硬いパンを、手慣れた様子で布袋に詰めていく。
だが、奥の物置から取り出した品々は、彼女の手にはあまりに不釣り合いなものだった。訓練の際にしか袖を通さない、胸部を保護する小ぶりな鉄製の鎧。小型の円形木盾、そして短柄の鎚矛。長らく手入れを欠いていた鎧の継ぎ目には、薄い錆が浮いている。慣れない武具の重みに翻弄されながら、それらを背負子へ固定しようとするたび、金属の擦れる鈍い音が部屋に響く。ようやく荷造りを終えた頃、彼女の白い額にはうっすらと汗が滲んでいた。
荷を背負い、ミツナは居住区を抜けて再び礼拝所へと戻った。そこには、旅立つ娘を待つ神父の姿があった。白髪を蓄えた穏やかな神父は、その瞳に隠しようのない潤みを湛え、教会の扉の前で拾い上げたあの日から今日までの歳月を慈しむように、彼女をじっと見つめていた。
「お父さん、大げさね。領主様に嘆願書を渡したら、すぐに戻ってくるのだから」
ミツナは強がって微笑んで見せたが、その瞳からは、熱い雫が次から次へと溢れ出した。言葉は、もはや不要だった。二人は温かな抱擁を交わし、互いの存在を確かめ合う。
神父と離れた後、彼女は祭壇の前で静かに膝をついた。自身が信仰する神へ、この旅の安全を深く祈る。静寂の中で祈りを終え、決意を新たにしたミツナは、教会の重い木の扉を押し開けた。外から差し込む秋の光が、彼女の金色の髪を眩しく照らし出した。
【100万字超・完結済み・執筆済み】
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