第一話 ルザサードの災難
秋風が吹き抜けるウージー村。
例年ならば黄金色のさざ波が地平まで続くはずの小麦畑だが、今年のそれはどこか精彩を欠き、実りは期待外れに終わっていた。大陸随一と名高いウージーパスタの源となる小麦の不作は、村全体に重苦しい影を落としている。かつては豊穣の歓喜に沸いたこの小さな村も、今は静寂に沈み、忍び寄る不安を抱えながら秋の深まりを迎えていた。
そんな村の停滞した空気から隔絶されたように、警備隊詰所の奥に位置する牢獄の一室で、ルザサードは重い溜息を吐き出していた。
「……まったく、とんだ災難だ」
独り言はいつもの癖であったが、今回ばかりは言葉の端々に隠しきれない苦渋が滲んでいる。まさか、各地を渡り歩いてきた自分が、このような辺境の牢屋に繋がれる羽目になるとは、夢想だにしていなかった。
視線を部屋の隅へと向ければ、滅多に使われることのないその場所の荒廃ぶりが、ひっそりと浮かび上がる。湿り気を帯びて薄暗い空間には、壁の四隅に蜘蛛の巣が幾層にも張り巡らされていた。唯一、鉄格子の嵌まった窓から差し込む心もとない光が、宙に舞う微細な埃を白く浮かび上がらせている。部屋の奥に置かれた粗末なベッドは、藁が詰められているだけで、身をよじるたびにカサカサと乾いた音を立てて抗議した。壁の片隅に置かれた、むき出しの汚れた便器が、この閉ざされた空間の不衛生な現実を突きつけてくる。
三十路を目前に控えたルザサードは、陽光に焼かれた肌と、幾多の旅路で風化したような顔立ちをしていた。普段は手入れの行き届いた短い髪も、この冷たい檻に囚われて数日が経ち、いくらか伸びて無精髭も生え始めている。その柔和にも見える目鼻立ちは、一見すれば人当たりの良い、どこにでもいる行商人のようにも映るが、ふとした瞬間に宿る鋭い眼光が、彼がただの善良な人間ではないことを静かに物語っていた。
現在の彼は、色あせた粗末なシャツとズボンを身に纏っている。牢へと押し込められる際、身につけていた余計な品々はすべて無情に没収されたのだった。
数日前、ルザサードはいつものように行商人として、このウージー村へと足を踏み入れていた。その時の彼は、粗末なシャツとズボンの下に、万一の窮地に備えて鞣された上質な革鎧を密かに着込んでいた。機動性を追求したその防具は、彼の体躯をやや逞しく、力強いものへと変えていた。腰に差していたのは、装飾を排した実用一点張りの小剣だ。革ベルトに吊るされたそれは、普段は外套の裾に隠され、人目に触れることは稀である。
足元を固めていたのは、意匠の凝らされた革製のブーツだった。厳選された革を用い、丹念に仕立てられたその一足は、果てなき旅路の酷使にも耐えうる頑健さを誇っている。くるぶし部分には補強が施され、その内側には秘密の隙間――隠しポケットが備えられていた。一見すれば市井の旅人が履くものと大差ないが、細部に宿る執拗なまでの用心深さこそが、彼の真の出自を雄弁に物語っていた。
背には古びた木箱を背負い、手にはありふれた商品をぶら下げて、いかにも旅慣れた商人といった風体で村を歩く。もちろん、それは生業としての表向きの顔に過ぎない。質素な衣類の下に潜ませた革鎧と、腰に帯びた小剣こそが、彼の本質そのものであった。彼は盗賊ギルドという裏社会に属する一員であり、密やかな運び屋としてこの村に降り立ったのである。
運び屋の鉄則は、誰の瞳にもその影を残さぬこと。特に今回は、受け渡し相手もまた別の運び屋であり、互いの素性を知る由もない。足がつかぬよう、幾人もの中継者を経由して依頼主へと至る、周到な手筈になっていた。
日の暮れが地平の彼方に迫る頃、ルザサードは村外れの寂れた路地で、待ち受けていた男に無事、荷を引き渡した。男は一言も発さず、ただ無言の頷きを返すと、代わりに一片の小さな羊皮紙をルザサードに差し出した。盗賊ギルドの引換証。それで、彼の果たすべき責務は完遂されたはずだった。
彼が運んでいた荷物とは、不気味な雰囲気の大きな壺だった。
それは、高さ百二十センチメートルほどもあっただろうか。ずんぐりとしたその輪郭は、揺るぎない安定感を湛えながらも、同時に奇妙な威圧感を周囲に放っていた。一見すると最上級の陶器のようにも思えるが、その肌に触れれば、それが土を焼いた類のものではないことが即座に理解できる。黒に近い深い紺色が、沈む陽光を吸い込んで鈍い光沢を放ち、まるで星なき夜空を切り取って固めたかのような、底知れぬ深みを湛えていた。
表面には、古代の禁忌を思わせる複雑な紋様が、細い銀の糸のような線で精緻に刻まれている。それは単なる装飾の域を超え、何らかの秘術的な意味を宿しているかのようだった。持ち上げれば、その体積から予想される重みを遥かに超越した質量が掌に伝わり、内部は空であるはずなのに、物質的な密度とは別の「重圧」で満たされている。
どれほど鋭利な刃を立てても、あるいは猛火に曝したとしても、傷一つ付かないであろうことを予感させるほど、その物質は硬質で、そして冷徹だった。頑丈な木箱に収められ、緩衝材の藁の中に恭しく安置されていたことからも、その稀少さが窺い知れる。一体何に供される器なのか、ルザサードには皆目見当もつかなかったが、依頼主の厳重な扱いようから、それが尋常ならざる価値を持つことだけは推測できた。
「さてと」
無意識に言葉が漏れた。後はこの村の名物、ウージーパスタを堪能するばかりだ。今年は小麦の出来が芳しくないようだが、それでもその味わいは大陸随一と名高い。空腹を訴え始めた腹の虫に急かされるように、ルザサードは夕餉の場所を求めて、そぞろ歩きを始めた。黄昏に沈みゆく、活気を失った村の通り。彼は自らの労をねぎらう、束の間の安らぎを期待していた。
その時だった。背後から放たれた低く鋭い声が、彼の足を止めた。
「そこのあんた!」
振り返れば、そこには険しい表情を浮かべた村人の男と、その後ろで威圧的に立ち塞がる、屈強な警備隊員の姿が二人。村人の顔には、不作による生活への不安からか、隠しきれない苛立ちの刺が滲んでいた。
「何か御用でしょうか」
努めて平静を装い、行商人らしい柔らかな笑みを浮かべて問い返す。だが、村人は剥き出しの敵意を指先に込め、彼を指差して叫んだ。
「こいつだ!さっき、あっちの路地裏で胡散臭い真似をしていたのは!」
――荷の受け渡しを、よりによって目撃されていたのか。まさか、このような辺境の小さな村で、これほど間抜けた失策を演じるとは。
「いやいや、滅相もない。私はただの旅の行商人ですよ。日が暮れてきたものですから、今宵の宿を探して歩いていただけでして」
ルザサードは穏やかな口調を維持し、言葉を尽くして弁明を試みた。しかし、昂ぶった村人の疑念を解くには至らない。
「嘘をつけ!大きな木箱を背負って、誰かと密かに言葉を交わしていたのを、この目で確かに見たんだ!」
そこからは、出口のない押し問答となった。ルザサードは必死に言辞を弄して取り繕おうとしたが、焦りゆえに言葉の選択を誤ったのか、かえって警備隊員の不信を煽る結果となった。抗弁も虚しく、最後には抗う術もなく力ずくで組み伏せられた。自由を奪われた彼は、そのまま警備隊詰所へと連行された。
詰所に引き立てられると、二人の警備隊員による身体検査が始まった。しかし、彼らは正規の教育や訓練を積んだ者たちではないらしく、その手つきはどこかぎこちなく、検分も表面的なものに留まった。ルザサードは内心でほくそ笑む。ブーツの隠しポケットに忍ばせていた盗賊ギルドの引換証と、偽装用の商取引に関する証書は、まんまと彼らの目を逃れたのだ。
「……まったく、とんだ災難だ」
口をついて出たのは忌々しげな悪態だったが、胸中では重要な証拠品を隠し通せたことに、ひそかな安堵を覚えていた。
拘束されてから二日ほどが過ぎた頃だった。突然、地の底から這い上がるような衝撃が地面を大きく揺さぶった。
「うわっ!」
咄嗟に身構えたルザサードの視界で、牢獄の格子が激しくぶつかり合い、甲高い金属音を立てた。粗末なベッドは意志を持ったかのように床を滑り、天井の隙間からは砂や埃が容赦なく降り注ぐ。これまでに経験したことのない、かなりの規模の地震だった。
外からは、人々の悲鳴や家屋が瓦解するような鈍い音が響いてくる。どうやら、村は尋常ならざる混乱に陥っているようだった。牢屋の小さな窓から覗く景色に劇的な変化はなかったが、重低音の地鳴りは一向に止まない。石積みや木材で組まれた古い倉庫や小屋は、その衝撃に耐えかねて無残に崩れ、ひしゃげているようだった。
地震はしばらくの間、大地を蹂躙し続けた後、徐々にその震動を収めていった。しかし、村に満ちた混乱が静まる気配はない。夜の闇が降りてきても、遠くから届く人々の喧騒や、時折、夜気を切り裂く悲鳴が、冷たい牢獄の壁を越えてルザサードの耳を打ち続けていた。
それから数日を経た、ある朝のことだった。
「おい、起きろ!」
低く投げかけられた声に、ルザサードは微睡を破られた。牢獄の格子越しには、すでに見慣れた警備隊員の顔がある。その表情には、長引く不作に加えて地震の事後処理に追われたためか、色濃い疲労が刻まれていた。
「ルザサード、村長がお呼びだ」
不意の通告に、ルザサードは一瞬、思考を停止させた。地震がもたらした混乱がいまだ収まらぬ最中に、村長ともあろう者が自分のような不審者に何の用があるというのか。しかし、停滞していた彼の脳裏に、すぐさま一つの可能性がよぎった。
(――あるいは、この混乱に乗じて、身の潔白を認めさせることができるのではないか)
それは希望とも打算ともつかぬ、淡い心の揺らぎであったが、沈みきっていた彼の胸中にわずかな火を灯した。ルザサードは、幾重にも重なる複雑な思いを抱きながら、警備隊員に促されるままに鉄格子の外へと足を踏み出した。
数日ぶりに頬を撫でたのは、爽やかな秋の風だった。だが、久しぶりに触れるその清涼な空気は、今の彼にはどこか刺すように冷たく感じられた。
【100万字超・完結済み・執筆済み】
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