プロローグ
新月の夜――。
漆黒の空を埋め尽くす無数の星々は、まるで闇に散りばめられた宝石のように鋭く瞬き、地上を静かに見下ろしている。秋風は頬を撫でるように優しく吹き抜けては、街道沿いの木々の葉をカサカサと乾いた音で鳴らしていた。
視界を奪うほどの闇の中、耳を澄ませば、風に乗ってザワザワと波打つような音が聞こえてくる。それは、帝国きっての穀倉地帯が誇る、どこまでも続く小麦の海が揺れる音だ。間近に迫った刈り入れを待つ無数の穂先が擦れ合い、重厚な調べとなって夜の底に響いている。目には見えずとも、風が運んでくる麦の芳醇な香りが、この地がどれほど豊かな実りに満ちているかを雄弁に物語っていた。
やがて、その闇の合間にウージー村の灯が小さく点り始めた。長い道のりを旅してきた人々にとって、小麦の香りに包まれたその微かな灯火は、安らぎを約束する希望の光に他ならない。
村へと続く街道は、長年の往来によって土が固められ、足裏に確かな硬さを伝えてくる。街道から少し離れた丘の上には、村の見張り小屋がひっそりと佇み、星明かりを背にして夜空に濃い黒の影を落としていた。時折、街道沿いに立つ木々が現れるが、そのシルエットは夜の闇に溶け込むようにぼんやりと霞んでいる。
そんな夜道を、一人の男が歩いていた。
背には空の背負子を背負っている。これからウージー村へ向かい、特産品である小麦か何かを仕入れるつもりなのだろう。期待と、長旅の疲れが入り混じったような表情で、男は吸い寄せられるように村の灯りを見つめていた。
その時、背後の闇から黒い影が躍り出た。
深くフードを被り、黒い外套を纏ったその者は、まるで闇そのものから産み落とされたかのようだった。男が驚愕の表情を浮かべるよりも早く、外套の者は一切の躊躇もなく踏み込み、鋭い刃を男の脇腹へと深々と突き刺した。訓練されたその動きには、一分の無駄も、慈悲も存在しなかった。
「ぐっ……!」
男は短い苦悶を上げ、その場に崩れるように膝をついた。脇腹からは熱い鮮血が溢れ出し、やがて辿り着くはずだった豊穣の村へと続く道に、どす黒く染み込んでいく。刃には、間違いなく毒が塗られていた。刺された箇所を中心に、痺れが瞬く間に全身へと広がっていく。
朦朧とする意識の中、男は必死にその者の顔を仰ぎ見ようとした。だが、外套の者は既に次の行動に移っている。冷酷な眼差しをフードの奥に潜ませ、機械的な手際で刃を抜き去った。何かを訴えようとする男の口からは、もはや苦悶の吐息しか漏れてこない。
(ああ、ウージー村は、もうすぐそこなのに……)
混濁していく意識の淵で、男の脳裏には家族との温かな日常や、友人たちと笑い合った記憶、そしてやり残した数々の出来事が駆け巡った。それはまるで、壊れた幻灯機が映し出す、儚くも鮮やかな光景の断片だった。
程なくして男は地面に倒れ伏し、微かに喉が引き攣る音がした。それは、豊穣の村を目前にして力尽きた男の、誰にも届くことのない静かな断末魔であった。
黒い外套の者は、事切れた男の体を近くの茂みの中へ移動させると、その懐から手際よく何かを取り出した。そして満足そうに一度だけ頷くと、再び音もなく闇の中へと姿を消していった。
後に残されたのは、星が瞬く静寂な夜と、風に揺れる小麦のざわめき。そして、豊穣の村へと続く道に漂う、微かな血の匂いだけだった。
【100万字超・完結済み・執筆済み】
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物語が途中で途切れる(エタる)心配はございません。




