第十話 秋の夜長(2/3)
野営が決まると、一行は手際よく動き出した。キャロルが馬車の客室下部に巧妙に収納されていた折り畳み式のテーブルと、数脚の椅子を取り出し、淀みない動作で組み立てていく。その光景には、若手のユーバやミツナのみならず、数多の古代遺跡を渉猟し、修羅場を潜り抜けてきたカウジンまでもが、言葉を失って目を丸くした。
「貴族ってのは、本当に規格外なんだな……」
ユーバは信じられないものを見たというように、半ば呆然と呟いた。その視線は、無機質な坑道に突如として現れた上質な家具の質感に釘付けになっている。
「貴族と言っても、ジャスティン家は異常よ、異常」
リズは肩をすくめ、呆れを通り越して感心したように言葉を継いだ。
「帝国貴族十傑と呼ばれるくらいの、超の付く名門貴族なんだから」
「まじかよ……」
ユーバはその言葉に打ちのめされたように、口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。
当のキャロルは、周囲の驚愕を意に介する様子もなく、涼やかな顔で告げた。
「ここは『大神様の大坑道』の中。安全を期して、火を熾すのは控えるとしましょう」
リズが、空腹を抱えた子供のように待ちきれない様子で身を乗り出した。
「キャロルさん、あの時のとっても美味しいパンと、香ばしい干し肉はまだ残ってる?」
キャロルは慈しむような眼差しで、宥めるように応じた。
「残ってはいますが、あいにくそれほど量はありません。人数も増えましたからね。それでもいくらかはありますから、この大坑道を抜け、外の新鮮な空気の下でいただくことにしましょう。きっと今口にするより、何倍も美味しく感じられるはずですよ」
リズは「えーっ」と露骨に不満の声を漏らしたが、キャロルの理路整然とした提案に、渋々ながらも納得したようだった。
六人は、それぞれが持ってきた保存食を取り出し、簡素な折りたたみ式のテーブルを囲んだ。乾いたパンを齧り、硬いチーズを口に運びながら、今日の冒険を振り返る。
「俺、貴族とご飯を一緒に食べるの、生まれて初めてだ」
ユーバは、少し緊張した面持ちで、ぎこちない笑顔を浮かべながら言った。
一行は、質素な夕食を済ませると、明日に備えてすぐに休むことにした。大神様の大坑道は、壁や天井が常にうっすらとした光を放っているので、時間の感覚が麻痺してしまうが、空腹を満たし疲れた体を休めるには、決して早すぎる時間ではなかった。
「今夜客車で寝るのは、リズさんとミツナさんの二人だけです」
これはキャロルの提案というよりも、むしろ有無を言わせぬ命令だった。ユーバは客車の中がとても気になっているようで、少し残念そうな表情を浮かべたが、キャロルの強い言葉に逆らうことはできなかった。
御者台には、キャロルが用意していた毛布にくるまって横になり、ルザサード、ユーバ、カウジンは、馬車から少し離れた場所で、それぞれの寝袋に潜り込んだ。大坑道が発する淡い光が、彼らをぼんやりと照らしている。
静まり返った大坑道に、ひょっこりと客車の窓からリズが顔を出し、ルザサードに向かって声をかけた。
「ルザサードさん、もし夜中に迷子になっても、あたしならすぐにあなたを見つけられるから、安心してね!」
ルザサードは、彼女の言葉の真意を悟り「わかった」と、どこか諦めたような、苦笑にも似た表情で答えた。
(ああ、あんたから逃げられないことは百も承知だよ)
と、心の中で小さく呟いた。
「この一本道、しかもいつも明るい大神様の大坑道で、迷子になるわけないだろ!」
ユーバは呑気な調子でケラケラと笑った。しかし、その直後、彼の口からはスースーと規則正しい寝息が漏れ始めた。他の五人は、ユーバのあっという間の寝落ちぶりに静かに笑いを堪えながら、それぞれ眠りについた。
「大神様の大坑道」の内部では、外界の太陽が描く軌道など無縁であった。
しかし、キャロルは自身の内側に刻まれた厳格なリズムに従い、静かに瞼を持ち上げた。
常にぼんやりとした魔導の光が満ちるこの空間では、時の感覚は容易に霧散し、曖昧なものへと変わる。だが、長年培ってきた騎士としての鍛錬が、彼の体内時計を正確に律していた。網膜に届く淡い光を透かしながら、彼はゆっくりと身体を起こす。
昨日のゴブリンとの戦いで費やした体力は、案外にも底を突いてはいなかった。むしろ、心地よい疲労の残滓が、節々の強張りを解くように彼の肢体を軽く感じさせていた。
御者台からムクリと身を起こしたキャロルは、馬車から少し離れた地面に寝袋を広げて眠る三人に、穏やかな声を掛けた。
「皆さん、おはようございます」
「ん……もう少し……」
ユーバは未だ深い眠りの淵に沈んでいるのか、甘えたような呟きを漏らして体を丸め、一向に起き上がろうとしない。その子供のような寝顔をキャロルは微笑ましく見下ろすと、次いで客車の方へと向き直った。分厚い黒檀の扉を丁寧にノックし、「リズさん、ミツナさん、朝ですよ」と、少しばかり声を張る。
「はい、キャロルさん。おはようございます……」
客車の中から、ミツナのまだ眠気を孕んだ控えめな声が返ってきた。やがて身支度を整えた二人が扉を開けて外へ降り立つ。リズは完全に覚醒しきっていないのか、細めた目を愛らしく擦っていた。
手早く用意された簡素なパンの朝食を済ませ、出発の準備を整えた一行に、キャロルが力強く宣言する。
「今日中には、きっとこの巨大な大坑道を抜けられるでしょう」
御者台には、ぴんと張られた手綱を握るキャロルと、その隣で腕組みをして遠くを見据えるカウジンの姿があった。二人は時折、剣技の奥深さや古代の魔法が宿る武具について、静かに、しかし確かな熱を帯びた声で語り合っている。
揺れる客車内には、リズ、ミツナ、ルザサード、ユーバの四人が収まった。ユーバは相変わらず、他愛もない冗談や道中で拾った珍しい石の話を披露し、ミツナとリズは時に笑い、時に呆れながらも、楽しげに応酬を繰り返している。ルザサードは、そんな賑やかな三人を客車の隅で静かに見守っていた。その眼差しは、まるで心地よい子守唄を聞いているかのように、穏やかな光を湛えていた。
出発前、心優しいミツナが、キャロルとカウジンの二人にばかり長距離の御者を任せきりにするのは心苦しいと、遠慮がちに主張した。その配慮を受け、御者台には体力のある男性陣が交代で立つことになった。
客車内に据えられた深紅の上質な革張りソファーは、何らかの魔導が施されているのではないかと疑いたくなるほど、走行中の微かな振動さえも完璧に吸収していた。それはまるで雲の上に腰を下ろしているかのような抜群の快適さを誇り、長時間の移動による疲労を一切感じさせない。
やがてキャロルが御者を交代して客車内へ戻ってくると、待ち構えていたリズが前のめりに身を乗り出し、矢継ぎ早に問いを投げかけた。
「キャロルさん、どうしてこの馬車はガタゴトしないの? まるで魔法みたいに滑らかじゃない!」
キャロルは少し困ったような、それでいてどこか誇らしげな笑みを浮かべて応じた。
「実は、私にも詳細は解らないのです。腕利きのドワーフの鍛冶師に特注した品ですので。ただ、これだけは断言できますよ。これは魔法の力によるものではない、と」
一行は揺れの少ない快適な馬車に身を預け、大坑道の出口を目指す優雅な旅路を堪能していた。何度かの交代を経て、最後にユーバとルザサードが御者台に座った時、ユーバが待ち望んだ瞬間が訪れた。彼は顔を輝かせ、弾んだ声を張り上げた。
「出口だ! 見ろよ、みんな!」
ついに一行は、長く、そして閉塞感の漂っていた大神様の大坑道の出口へ到達した。坑道の出口は、まるで巨大な口を開けた獣の顎のように、外界へと繋がっていた。
坑道から外界へと踏み出すと、頭上には宝石を散りばめたような無数の星々が、漆黒の夜空を彩っていた。肌を刺すほどではないが、ほどよく冷えた秋の風が、火照った彼らの頬を優しく撫で、肺の奥まで澄んだ空気を届けていく。
一行は一旦馬車を停め、夜道に備えて体制を整えた。御者台のユーバに代わり、再び馬車の扱いに長けたキャロルが手綱をしっかりと握り直す。リズが客車の前方左右の角へ向けてしなやかに指先を振ると、そこへ小さな魔導の灯火が宿った。それはまるで地上に降りた小さな太陽のように、行く手を明々と照らし出し、夜の闇を退けて良好な視界を確保する。
再び馬車が動き出す。ドワーフの職人が心血を注いだであろう車体の機構は、未舗装の路面においてもその真価を遺憾なく発揮していた。整備された大坑道の中を進んでいた時と何ら変わらぬ、驚くほどの静寂と快適さ。久しぶりに味わう屋外の、どこまでも広がる開放的な空気感に、彼らの心は心底から解きほぐされていった。
街道脇をさらさらと音を立てて流れる、小川のほとり。一行はそこで、待ちに待った開放感溢れる野営の時を迎えた。
焚き火が爆ぜるパチパチという音、湿った土と草が混じり合う夜の匂い、そして頭上に広がる満天の星々。閉ざされた坑道から解き放たれた彼らの期待は否応なしに膨らみ、準備の手つきはいつも以上に軽やかで、迷いがない。
ユーバが慣れた手つきで薪を組み、火打ち石を打ち合わせると、瞬く間に温かな橙色の炎が揺らめき始めた。ミツナは小川から汲み上げた清冽な水を鍋に満たし、火へと掛ける。リズは客車の荷台から様々な食材を取り出し、鼻歌交じりにスープの仕込みに取り掛かった。キャロルはもはや手慣れた様子で、客室下に収納された折り畳み式のテーブルと椅子を広げていく。
互いの呼吸を感じ、無駄のない動きで一つの野営地が形作られていく中、ユーバが鬱蒼とした森の奥を見つめ、声を弾ませた。
「この辺りは、きっと旨そうな獲物がいるんだろうな! せっかくの屋外だ、今夜の食卓を新鮮な肉で飾りたい!」
「残念ながら、この辺りで獲物は期待できないでしょう。帝国騎士団が街道沿いを徹底して掃討し、警備していますからね」
キャロルは苦笑を浮かべながら応じた。その穏やかな声には、少なからぬ申し訳なさが滲んでいる。
「そっか……。残念だなぁ」
ユーバは目に見えて肩を落とし、しょんぼりと項垂れた。
「獲れたての新鮮な肉には及ばないけれど、キャロルさんの干し肉は驚くほど美味しいわよ!」
リズがユーバを元気づけるように明るい声を掛ける。その言葉に、ミツナが期待を込めて顔を上げた。
「パンも、すごく美味しいんですよね?」
彼女の瞳はすでに、まだ見ぬ贅沢な食卓への期待で潤んでいる。
「ええ、そうよ! だから早く準備を終わらせて、みんなで美味しいものを食べましょう!」
リズは満面の笑みで答え、手元の木杓を軽快に動かした。
準備が整い、一行は焚き火の傍らに設えられたテーブルを囲んだ。キャロルが馬車の荷台から、琥珀色の液体に満ちた小瓶を恭しく掲げる。
「少しばかりですが、酒も用意してあります。これまでの無事を祝し、ささやかな乾杯をしましょう」
キャロルは隣に座る、どこか緊張で肩を硬くしているユーバへ促すように視線を送った。
「ではユーバ君、音頭を頼みます」
ユーバは照れくさそうに、しかし決意を込めた面持ちで立ち上がった。全員の顔を見渡すと、腹の底から力強い声を絞り出す。
「えっと……みなさん、ここまで本当にありがとうございました! それから、俺の故郷ウージー村と、ここにいる皆さんの未来に……乾杯!」
洗練された美辞麗句ではない。だが、ユーバの純粋で飾らない人柄が真っ直ぐに伝わるその言葉に、皆の口元には自然と温かな笑みがこぼれた。重なり合うグラスの音が星空に溶け、ささやかな宴が幕を開ける。




