第八話 いざ(2/2)
周囲の壁に杖の光を当てながら、慎重に進む一行の前に、程なくして右へと折れる分かれ道が現れた。暗い通路は、底知れぬ闇の奥へと続いている。
隊列の先頭に立つカウジンが、その手前で歩みを止めた。彼は再び無骨な甲手を外すと、分厚い指を舐めて空中に掲げる。その顔には、職人のような深い皺が刻まれていた。
「正面の通路から、わずかに風が流れとる」
相変わらずのぶっきらぼうな口調が、洞窟の壁に小さくこだました。
するとリズは、隣に立つルザサードに、まるで使い慣れた道具に指示を出すような気軽さで声をかけた。
「ルザサードさん、右の通路の先を見てきてもらえない?あなたにとっては簡単な仕事でしょ?」
ルザサードは、驚きと諦め、そして隠しきれない反発が混ざり合った、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
(まったく……俺を良いように使いやがって)
彼は心の中ではっきりと毒づいた。
「あら、何か言ったかしら?」
リズがいたずらっぽい光を宿した瞳で覗き込んでくる。その視線は、まるで見透かされたくない心の奥底まで暴こうとしているかのようだ。
(……心まで読みやがるのかよ)
ルザサードは観念したように、小さく息を吐いた。
すると後列にいたミツナが、心配そうな面持ちでリズに声をかけた。
「ルザサードさん一人では、やはり危険すぎます……」
眼鏡の奥の青い瞳には、純粋な懸念が浮かんでいる。
「旅慣れた行商人の彼なら大丈夫よ。ね、ルザサードさん?」
リズは確信に満ちた表情でルザサードを見やる。
やれやれ、と心の中でため息をつきながら、ルザサードは無言で分岐の右側へ歩き出した。驚くべきことに、彼はまるで影が這うように、足音一つ鳴らさず静かに闇の中へと溶け込んでいった。そのあまりに鮮やかな身のこなしは、およそ一介の行商人には見えないものだった。
ルザサードの鮮やかな身のこなしを見たキャロルは、「なるほど」と何かを納得したような目を向け、背後にいるリズを振り返った。キャロルも珍しく、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべている。
しばらくして、闇の中からルザサードが戻ってきた。その表情は先ほどよりも幾分か険しい。彼は、奥にゴブリンの姿はないものの、さらに深部へと続く分岐があることを短い言葉で告げた。
「とりあえず、そこまで進みましょう」
キャロルが促すと、一行は歩みを再開した。次の分岐に差し掛かると、リズはルザサードに対し、もはや儀式のように「地面を調べてみて」と形ばかりのお願いをした。
ルザサードは言われた通り、杖の光を頼りに地面を丹念に探ると、無言で右手の親指を跳ね上げ、右の通路を示した。ゴブリンのものと思われる小さな足跡が、そちらに多く残っていたのだ。そして彼は、そのまま右の暗闇へと再び姿を消した。間もなく戻ってきたルザサードの表情は、いよいよ厳しさを増していた。
「当たりだ。この先は大きな空洞になっている。そこにいくつかの小さな篝火を焚いてゴブリンどもがいる。数は十五から十八。その中に大型の個体が三体見えた」
ルザサードは行商人風の取り繕った言葉遣いをやめていた。それは、この状況下でこれ以上「普通」を装い続けることに負けを認めた証でもあった。そんな彼の心境の変化には構わず、ユーバが目を丸くして驚きの声を上げた。
「ルザサード、俺には何も見えなかったぞ。おまえ、透視能力でも持ってるのか?」
「そんなわけないだろ」
ルザサードは興味なさそうに、ぶっきらぼうに突き放した。
彼の黒い瞳は、常闇の中でも獲物を捉えるかのように鋭く光っている。彼は常人よりも遥かに優れた夜目と、微かな音すら聞き分ける聴覚、鋭敏な五感の全てを駆使して、先方の状況を克明に探り当てていた。
ルザサードの報告を聞いたキャロルは、腕を組み、顎に手を当てて短く考え込んだ。そして「作戦を練りましょう」と一同に促した。
全員が静かに頷き、周囲の闇に悟られないほどの小声で、作戦会議が始まった。
「大型の個体の特徴は?」
リズの問いに、ルザサードは少し間を置いてから「デカいゴブリンとしか言いようがないな」と答えた。
「その数なら、ゴブリンキングではないはずだ。キングが生まれるほどの規模にはなっていない。おそらくはホブゴブリンだろう」
なぜか亜人種の生態に詳しいカウジンが、腕を組みながらぶっきらぼうに告げた。その言葉には、長年の実戦で培われた重厚な経験に裏打ちされているのだろう。
「私とカウジンさんで、ホブゴブリン三体を受け持ちましょう」
キャロルはそう言いながら、隣に立つカウジンと無言の視線を交わした。カウジンは微かに頷き、「心得た」と短く応じる。
「待ってくれ、残り十五匹のゴブリンなんて、俺一人じゃ無理だ!」
ユーバが顔を青ざめさせ、慌てて声を上げた。無理もない。訓練を受けた兵士でもない彼にとって、その数は絶望的だ。
「大丈夫です。大型の元へ辿り着くまでに、私とカウジンさんで少なくとも五体は屠れます」
キャロルは自信に満ちた表情で断言した。彼の青い瞳には、迷いのない確かな力が宿っている。
「その後、あたしが眠りの魔法をかけて、さらに五体は無力化するわ」
リズも冷静に続けた。彼女の細い指が、杖の柄をしっかりと握りしめる。
「……じゃあ、俺は残った二、三匹を仕留めればいいんだな?」
ユーバは不安を打ち消すように、念を押して確認した。
キャロルは大きく頷き、「頼みましたよ、ユーバ君」と力強く肩を叩いた。圧倒的な剣技を見せた本物の騎士に頼られ、ユーバは一気に昂揚した。その瞳は希望に満ち、キラキラと輝き始める。
リズはミツナと向き合い、視線を合わせて優しく声をかけた。
「また怖い思いをさせるかもしれないけど、ユーバのことを頼んだわ」
「はいっ!」
ミツナは瞳を閉じ、深く覚悟を決めた返事をした。彼女の小さな手は、木製の盾を痛いほど強く握りしめている。
「大丈夫。ミツナのことは、俺が守るから」
ユーバは、そんな緊張しているミツナを見つめて笑顔で言った。そんな微笑ましい二人のやり取りを見届けたキャロルは、穏やかな口調でミツナに尋ねた。
「ミツナさん、加護の祈りは使えますか?」
「はい、もちろんです」
緊張しながらも、彼女ははっきりと答えた。
「では、ミツナさんの加護の祈りを合図に突入します。ルザサードさんは、ミツナさんとリズさんの護衛、そして状況に応じてユーバ君の援護をお願いします」
キャロルは最後の指示を、極めて冷静に、そして的確に下した。
ルザサードは「またかよ」と心の中で小さくため息をつきながらも、無言で頷いた。
(まったく、人使いの荒い連中だ……)
毒づくような思考とは裏腹に、彼の鋭い瞳には、わずかながら仲間を気遣う色が浮かんでいた。
ミツナの祈りが静かに始まった。彼女は右掌を左胸に添え、そっと瞼を閉じる。
洞窟内に、かすかな聖歌の響きが、まるで遠い風に乗って運ばれてくるように流れ出した。その歌声は慈愛に満ちて優しく、それでいて揺るぎない力強さを秘めている。
彼女の周囲に、目には見えないはずの温かな光が満ちていく。柔らかなその輝きは、冷たい闇の中で、死闘を前にした一行を包み込んでいった。それは恐怖を和らげる神の加護であり、バラバラだった六人の心を一つに繋ぎ止める、絆の証のようでもあった。
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