第七話 交錯する思惑の中で(1/3)
じめじめと停滞した洞窟の空気には、鼻を突く土の匂いに加え、獣の体臭と腐敗臭が混ざり合ったゴブリン特有の悪臭が漂い、喉の奥が焼けるほどに息苦しい。
足元は湿った岩肌が露出し、一歩踏み出すごとに滑りやすく神経を削る。時折、天井から滴り落ちる冷たい水滴の音が、重苦しい静寂の中で「ポツン、ポツン」と不気味に反響していた。
天然の空洞は直径十八メートルほど。壁面は気の遠くなるような年月をかけた水流の侵食によって削り取られ、黒ずんだ岩肌が複雑で禍々しい模様を描き出している。
ミツナが掲げる松明の、心もとないオレンジ色の灯火が激しく揺らめく。その揺れる光では周囲の濃密な闇を完全に打ち払うことなど到底叶わず、洞窟の奥は、まるで巨大な怪物が口を開けて待ち構えているかのような、底知れぬ深淵へと続いていた。
松明の頼りない光に照らされ、ユーバ、ミツナ、ルザサード、カウジンの四人は、悪夢のような光景の中に釘付けにされていた。十匹を超えるゴブリンの群れが、醜悪な緑色の肌を蠢かせ、鋭い牙を剥き出しにして迫る。喉の奥から絞り出すような、けたたましい叫び声が空洞に反響し、獲物を求める獣の執念で四方から襲い掛かっていた。松明の火を反射してギラつく彼らの瞳は、暗闇の中で異様な光を放っている。
戦況は、圧倒的な数的不利によって絶望の淵にあった。いつこの脆弱な前線が食い破られてもおかしくない。
ユーバは額に大粒の汗を滲ませ、血走った眼で必死の形相を浮かべていた。愛用の大剣を力任せに振り回すが、その荒々しい剣筋は狡猾に連携するゴブリンたちに翻弄され、虚しく空を切ることが多い。左足には、先ほど刃毀れした粗末な槍で穿たれた深い傷があった。鮮血は粗末な革のズボンを赤黒く染め、足元には小さな血溜まりができ始めている。ユーバは激痛に顔を歪めながらも、折れそうな心を奮い立たせ、必死に剣を構え直していた。
一方、カウジンは全身を青く輝く鎧で固め、左手も鎧と同じように青く輝く大きな盾を岩のように不動の構えで保持していた。右手には愛用の長剣を低く握りしめている。彼は熟練の狩人の如き冷静さで敵の動きを観察し、時折放つ挑発的な挙動で注意を引きつけながら、同時に五、六匹を相手に立ち回っていた。重厚な盾で粗雑な攻撃を真っ向から受け止め、的確かつ鋭い剣捌きで複数の刃をいなしていく。その動きに派手さはないが、基本に忠実で一点の無駄もない。表情に焦りこそ見せなかったが、フルヘルムの隙間から覗く瞳の奥には、拭い去れぬ疲労の色が濃く沈んでいた。
ルザサードの風貌は、一見すればどこにでもいる地味な行商人に過ぎない。動きやすさを重視した麻のシャツとズボンを纏っているが、その下には、丹念に鞣された上質な革のベストが、鍛え抜かれた体躯に密着していた。手にしているのは、飾り気こそないが刀身が異様なほど黒く塗り潰された小剣。彼は獲物を追い詰める狐のように、静かに、それでいて油断なく身を翻して数匹のゴブリンを牽制し続けていた。深手を負わせることは少ないが、虚を突く変幻自在な動きと、急所を的確にかすめる鋭い刺突は、崩れかけた前線を繋ぎ止めるには十分な脅威となっていた。だが、その黒い瞳の奥には、一瞬たりとも消えることのない深い警戒の色が揺らめいている。
その三人に守られるようにして、ミツナは後方で小さく身を震わせていた。まるで荒野に咲く、風に抗えぬ草花のようだった。左手には頼りないオレンジ色の光を放つ松明、右手には彼女の華奢な体にはあまりに不釣り合いな重さの鎚矛を、縋り付くようにして握りしめている。争いとは無縁の穏やかな月日を送ってきた彼女にとって、目の前の凄惨な光景は耐え難い恐怖そのものに違いない。蒼白になった顔に浮かぶ大きな瞳には、堪えきれない涙が滲んでいた。彼女にできるのは、ただこの悪夢が過ぎ去ることを、震える心で神に祈ることだけだった。
今にも崩壊しそうな均衡が、天啓のような一撃によって打ち破られたのは、まさにその瞬間だった。
「支援する!」
背後から、雷鳴のごとき力強く若々しい咆哮が、狭い洞窟内に轟き渡った。同時に、何かが猛烈な勢いで地を蹴り、空気を切り裂きながら迫りくる戦慄的な気配が伝わる。
次の刹那、松明の光を弾き飛ばすほどの速度で、全身を鉄の鎧に包んだ戦士がゴブリンの群れへと突進した。その動きは疾風のごとく鋭く、洗練された無駄のなさは、この場にいる誰の目にも信じがたい光景として映った。
ほぼ同時に、洞窟の奥――最も深い闇の底に、小さな太陽が出現した。その光源は洞窟全体を真昼のような白光で塗り潰し、不浄な空洞を隅々まで照らし出した。突然の強光に動揺したゴブリンたちが、けたたましい悲鳴を上げる。多くがその「太陽」を直視しようと一斉に振り返り、その動きを止めた。強烈な光に晒された奴らの醜悪な緑肌が、苦痛に歪み、目を細める様が残酷なほど鮮明に浮かび上がる。
その、ほんの一瞬に訪れた決定的な隙を、歴戦の戦士であるカウジンと、駆けつけた新手の戦士が見逃すはずもなかった。
カウジンは魔法の力を宿した愛剣を軽々と振り上げ、派手さこそないが極めて洗練された剣筋を繰り出す。ゴブリンの粗末な革鎧ごと、その肉体を容赦なく両断。瞬く間に四匹のゴブリンを絶命させた。奴らの緑色の血が、汚れた水溜まりのように、じめじめとした地面へ広がっていく。
一方、加勢に入った戦士の長剣もまた、研ぎ澄まされた刃を煌めかせ、稲妻のごとき速さで空を裂いた。その一撃一撃は、優雅ですらある正確さで次々とゴブリンの急所を捉えていく。こちらも瞬く間に四匹。糸の切れた操り人形のように、怪物の骸が次々と湿った地面に崩れ落ちた。
仲間たちの劇的な加勢を目の当たりにし、ユーバの心にも勇気が再燃した。彼は全身の力を振り絞り、目前のゴブリンへ渾身の一撃を叩きつける。重厚な大剣は薄汚れた革鎧を容易く切り裂き、醜い体を一刀両断に伏した。さらに、恐怖に駆られて奥の暗闇へ逃げ出そうとしたもう一体に対しても、背後から容赦なく刃を突き刺す。ゴブリンは短い断末魔の悲鳴を上げ、二度と動かぬ物言わぬ塊へと変わった。
狂騒が支配していた空洞は、まるで刻が止まったかのように、嘘のような静寂に包み込まれた。足元に転がっているのは、つい先ほどまで凶暴な牙を剥き出しにしていた、十数匹に及ぶゴブリンたちの無残な亡骸だけだ。生き残った数匹のゴブリンは、仲間たちの変わり果てた姿に恐慌をきたし、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように洞窟の奥へと逃げ去っていった。逃げ惑う奴らの足音も、遠ざかるにつれて次第に闇の彼方へと消えていった。
あまりにも劇的な幕切れに、ユーバたちはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。あれほど永く、そして絶望的に感じられた死闘が、背後から現れた二人の介入によって、まるで夢であったかのように一瞬で終結してしまったのだ。
彼らは、一変した状況と目の前の二人が一体何者なのか、その理解が追いつかない。ただ、汚れ一つなく磨き上げられた鎧を纏う気高き戦士と、深い紺色のローブを身に包んだ、まだ幼さの残る顔立ちの魔法師。その二人を、信じられないものを見るような驚愕の眼差しで見つめ返すことしかできなかった。
四人が抱く当惑の視線など意に介さず、リズは落ち着いた足取りでキャロルの元へ小走りに駆け寄った。短く言葉を交わした後、彼女はくるりとユーバたちの方へ向き直る。一人ひとりの顔を順番に、まるで深淵を覗き込むような興味深さで見つめると、澄んだ、しかし知的な冷徹さを孕んだ声で告げた。
「さて、皆さん。まずはご無事で何よりですわ。……そして、色々と伺いたいことがありますの」
その瞳は、一見すれば慈悲深く見えた。しかし、それはミツナが持つような全てを包み込む慈愛とは異なり、奥底には微かに、だが確実に「選別」するような冷ややかな光が宿っている。相手の心根を容赦なく見透かす、鋭い眼光であった。
「た、助かったのか……」
ユーバは全身の力が抜け落ちたように、その場へ崩れ落ちた。左太ももの深手からは、今なお鮮血が赤黒く溢れ出し、湿った地面に血溜まりを広げている。上腕部にも無数の切り傷が走り、彼は荒い息を吐きながら痛みに顔を歪めた。
すかさずカウジンが歩み寄り、手慣れた所作でユーバの傷口を検分する。
「毒はないようだ」
低く冷静な独り言を落とすと、未だ呆然自失の態であったミツナに落ち着いた声をかけた。
「ミツナ殿、ユーバ殿へ治癒の祈りを」
ハッとしたように我に返ったミツナは、今にも泣き出しそうな不安げな表情のまま、神の御業を顕現すべく右掌を左胸に添えるようにあてた。深く精神を集中させようとするが、拭いきれぬ恐怖のせいか、その華奢な肩は小さく震えている。
普段よりも明らかに時間を要し、彼女の顔に焦燥が滲む。やがて、その細い指先が内側からうっすらと温かな光を帯び始めた。彼女はその優しい光を移すように、そっとユーバの傷口に触れる。
治癒の祈りは即座に劇的な効果を発揮した。血の止まらなかった傷口はみるみるうちに塞がり、最初から傷など存在しなかったかのように、綺麗な肌が再生していく。ユーバは依然から見慣れているようで、傷口が完全に塞がったことを確認すると、確かめるように何度も屈伸を繰り返した。
「あら、本物の神官なのね」
リズは、その鮮やかな治癒の光景を珍しいものでも見定めるように見つめ、驚きと感心の混じった声を漏らした。その黒曜石のような瞳が一瞬だけ大きく見開かれる。
カウジンは、被っていた重厚なフルヘルムをゆっくりと脱ぎ、無骨な腕で小脇に抱えた。そしてリズとキャロルに向き直ると、深く腰を折って頭を下げた。
「ご助力、感謝する」
無精髭に覆われたその顔には、いつものぶっきらぼうな態度は影を潜め、心からの謝意が滲み出ていた。
ユーバも慌てて立ち上がり、オープンヘルムを脱ぎ捨てて同じように深々と頭を下げる。若さの残るその顔には、死地を脱した安堵と、圧倒的な力を見せつけた二人への畏敬の念が入り混じっていた。
ミツナも二人に倣い、おずおずと会釈を返す。美しい顔にはまだ恐怖の残滓があったが、柔らかな安堵の表情も見て取れた。
ルザサードもまた、渋々といった様子で頭を下げた。しかし、その双眸だけは一瞬たりとも警戒を解かず、獲物を定める鷹のごとき鋭さでリズとキャロルを射抜いていた。
(どうして、こんな場所に帝国の正騎士と魔法師がいるんだ……?)
ルザサードは心の中で毒づいた。背中には、冷たい汗がじんわりと滲んでいく。この不測の事態、そして「帝国」という巨大な権力の介入は、裏社会に身を置く彼にとってあまりに、そして致命的なまでに都合が悪すぎた。
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