29話 『希望』
篤と雫を乗せた車は峠道を走っていた。雫に負担をかけないよう荒い運転は抑えつつ、しかし火急に逃走する。街からはとうに離れ、三つ目の山を越えている途中だった。何度も何度もせわしなく、依存症患者の様にバックミラーと雫を確認していた。追手の気配はなかった。零課の襲撃から逃れることはできた。だが彼らが再び追いつくのも時間の問題だ。一刻も早くあの街から離れ、少しでも距離を稼がなければならない。行く当てはなはなく、ルートの選別をする余裕もない。それでも逃げなければならない。一度は死神の手から逃れたとはいえ、首元を掠められたのだ。今度は首根っこをがっちりとつかみ、心臓をえぐり取られるだろう。なにより出雲が“本気”になれば平凡な職員であった篤にはどうすることもできない。死神の宣告は絶対なのだ。遅いか早いかなど誤差の範囲だ。死という結果は覆らない。
なら、どうせ死んでしまうなら、少しでも雫と一緒にいたい。一秒でも長く彼女と過ごしたい。それが篤の望みであった。無論、生存を諦めたわけではない。地平線まで続く砂漠の中から一粒の砂を見つけ出すような希望だとしてもそれを捨ててはいなかった。
車は峠を越え平坦な道に入る。片側一車線の道路が真っすぐと闇の奥に続いている。街頭はぽつりぽつりとまばらに均整を欠いて設置されていて、力なく田舎道を小出しにしていた。しばらくその道を走っていると遠くにコンビニエンスストアの看板が見えた。篤はそこに車を停めた。
荒っぽく白線に車を合わせると車のグローブボックスに手を伸ばす篤。そこを開け中から一丁の拳銃を取り出す。スミス&ウェッソン社製M29――亜厂から誕生日と称し押し付けられた品だ。
「篤さん?」と雫が危惧するかの声を出す。「どうする気、なの」
口に出して訊く雫だが内心では分かっていた。これから篤が何をするのかを。そしてそれが自分の為であり、止めても彼は聞かないだろうということも。
「心配するな、大丈夫さ。少しの間、雫はここで待っておいてくれ」
篤は手に持った拳銃を懐に忍ばせる。
「雫には、見せたくないから」
「待って」と言う雫の声も聞かず篤は車から降りた。ドアを閉めると脇目も降らず店の中に早足で入っていた。
雫は目を瞑った。篤が車に戻るまで目を瞑った。
ほどなくして店内から発砲音が響いた。ばんばんばんと三度響いた。雫は閉じた瞳から静かに涙を流した。
篤が車に戻ってくるとその手には包帯と消毒液が握られていた。
「これを」と雫に差し出す。「早く手当てしないと。辛いだろう」
だが雫は受け取らない。
「どうして」
「えっ」と驚く篤。
「どうして、一人で行っちゃうのかな。私を、置いていかないでよ」
「雫……」
彼女の目は赤く充血していた。涙を見せずとも一目で泣いていたことは分かった。
「雫には見せたくなかったんだ。なにより、これ以上危険な目に合わせるわけには……」
ふるふると首を振る雫。
「危険なんて私はどうでもいいんだ。死ぬことなんかより私は、一人にされるほうが怖いよ。篤さんに置いて行かれるほうがずっと怖いよ。だから私を、もう一人にしないでよ」
「ごめん、今度からは雫も連れていく。どんなことでも、どこへでも。それでいいか」
こくりと頷く雫。
「わかった。じゃあ、これを」
篤は手に持った包帯と消毒液を差し出した。
今度はしっかりと受け取ってくれた。
「片腕じゃきついから、篤さんも手伝ってくれる?」
「もちろんだ」
雫の応急処置が済むと篤はまた車を走らせた。雫の意識もはっきりとしてきているようで「もう大丈夫」と笑顔を作れるくらいになっていた。
篤は車を海に向かって走らせる。山よりも海の方が安全だから、という理由などはなかった。ただ、なんとなくそちらのほうがいいだろうと思っただけだ。そもそも、出雲を敵に回した時点でこの日本に安全な場所などありはしない。今までが運良く襲われなかっただけの話なのだ。今日、零課に襲撃され、傷ついた雫を見て現実を思い知った。だから今の二人に行く当てなどない。どこへ逃げてもそれは死への遠回りにすぎない。
雫の手を握る篤。彼女の手は冷たかった。それでも確かに雫はそこにいると実感できた。温もりはなくともそれだけで平静を保つことができた。雫もそれは同じようで、時折運転している篤に手を重ねてきた。会話はなかった。もう逃げ切れたの、どこか安全な場所はあるのと言った話もしない。ただお互いの手を握り、二人は確かにここにいると確かめ合うだけだった。それしかできなかった。
時速百キロを超える速度で車を走らせながら、篤は考えていた。どこに逃げればいいのか、どこなら安全なのか。
『そんな場所はない』
接触で曲がったサイドミラーに映り込む自分の顔。夜なのに顔がいやにはっきりと見えた。極度の精神状態のせいか、ストレスのせいか。幻覚と幻聴が篤の脳に発生しているのだろうか。サイドミラーに映る自分は今の篤とは異なっていて、スーツに眼鏡をかけている。そしてその篤なるものは自分と同じ声で喋りかけてくる。
こんなものは馬鹿らしい脳のまやかしだ、そう一蹴することもできた。だが篤は鏡に映る彼に付き合ってやることにした。恐らくは今の自分とは別の道――雫を見捨てる道を取った果ての自分と。その自分とは口を動かさずとも会話できたから。
『分かってるんだろう、出雲を敵にしたんだ、もうお前に安全な場所なんてないんだ。哀れに逃げまどって、どこへ行く。袋小路さ、お前は死に、その女も死ぬ』
冷めきった目で彼は言う。眼鏡の奥の瞳は色がなく冷たかった。人を突き刺すような視線を浴びせている。
『神は決断を下した。確定事象に手を出しても何も変わらない』
手に持った二つの書類を床に投げ捨てた。紙に記載されているのは関堂篤と黒江雫の全て。二人のこれまでの全て、そしてシミュレーションによるこれからの全ての予測。
「まだだ、まだ俺も雫も生きている。袋小路だとしても逃げ道は、抜け道はあるはずだ」
はぁ、と彼はため息をつく。
『神の手から少し逃げ切れた程度だ。盤上で滑稽に踊ってるだけなんだよお前は。結論はもう出てるんだ。なぜわからない、なぜ受け入れない』
篤の手に雫が触れる。はっと意識を取り戻す。雫の顔を見る。彼女がほほ笑む。一点の曇りなく、憂いもない。そんな雫を見て彼女を守りたいと、絶対に失いたくないと強く思う。雫を守るためならどんな犠牲でも払うと、なんだって賭けてやると。
「それだけは、雫の死だけは受け入れられない。認められないんだ。神に抗ってでも、雫を守りたい」
『神に抗ってでも、だと』彼は笑った。『零課に尻尾巻いて逃げるお前が?』
篤は何も言い返せなかった。襲撃されたとはいえ、反撃の一つもできていない。逃げることでせいいっぱいだ。現に今も考えは逃げることだけで、戦意の欠片もなかった。
『お前じゃ無理だ。ゲームオーバーなんだよ、お前の選択は』
言い返せない篤を見て彼は満足そうに笑った。あざけるように一通り笑った。
『だがな』と彼は再び語り掛ける。『盤上を変える方法ならある』
「盤上を、変えるだと?」
『神の手から抜け落ちればいいだけさ。別の盤上への切符ならお前はもう持っているはずだ』
その言葉が連想させる。ある日のカフェ、そのトイレで会話した人物――Mr.L.A.。そして彼から渡された名刺、それには彼の電話番号が書いてある。
――我々は出雲に気付かれない範囲で、ずっと監視していました。そして雇いたいと思った。大倭通運なんかより、ずっと好待遇でね――
彼ならこの状況も理解しているのではないか、そしてこの状況を打破する鍵を持っているのではないか。
『一か八かの賭けではある。おそらくあいつは……』
「いや」と篤は遮る。「ベットできるだけましさ」
『そうか』と彼は言う。『お前は本当に、馬鹿だよ。こっちの道を選んでおけば、危険に身を投じることもなかったものを』
「でも俺は、幸せだ。望んだものがここにはある」
その言葉を聞くと彼の姿は消え、二度とその声が聞こえることもなかった。
道端に一つの寂れた公衆電話ボックスがあった。黄ばんだ街灯に照らされており、蜘蛛の巣がかかっていたがなんとか通話はできそうだった。篤は雫を連れ添って車を降りた。Mr.L.A.の名刺を取り出し電話ボックスに入る。名刺に書かれた携帯の番号をダイヤルする。その間もずっと篤は雫から目を離さなかった。それは雫も同じだった。
呼び出し音が三回なりMr.L.A.が電話に出た。
「はい、どちら様でしょうかね」
剽軽な物言いで応答があった。電話の向こうでは金属のこすれる音や重機の動く音などが騒がしく聞こえる。どこかの工場にいるようだ。
「関堂篤だ。Mr.L.A.で間違いないか」
「オーウ、関堂さんお待ちしてましたよ。そろそろお電話頂けると思ってましたよ、はい」
「俺と……連れが一人、出雲に追われてる。あんたなら助けてくれるかと思って電話したんだが」
「もちろん関堂さんのお力になる所存ですよ、任せてください。国外脱出用に船を待機させてます、はい」
Mr.L.A.の用意した船は篤のいる場所から一キロと離れていない場所に停泊しているそうだった。雫にもそれを伝える。彼女はうんうんと頷く。自然と笑みがこぼれる篤に安心したように雫も笑った。
「準備がよすぎないか」
「私、天才ですので。予測なんてお茶の子さいさいですよ」と笑う。「船員に私の名前を伝えれば乗せてもらえますよ。黒江さんの席もちゃんと用意してますので。あ、部屋は一緒で良かったですかね?」
「なんでも構わない。時間がないから今から……」
今から向かう。そう言いかけた時だった。篤の入った電話ボックスに一台の車が突っ込んだ。真っ赤なテスラのロードスターが突っ込んだ。それは亜厂の車だった。
ばらばらに砕ける電話ボックスとともに篤は吹き飛ばされた。




