最終話 『いっしょに』
電話ボックスは倒れ、ひしゃげ、大小の破片となり飛散した。中にいた篤は吹き飛ばされた衝撃で気を失い、電話ボックスの残骸に埋もれている。
ぽつりぽつりと雨が降り出した。降り出した雨は夜の冷気と相まって冷たさを増していた。
フロントをいびつにへこませた赤い車のドアが開く。
「あー、いってぇなぁ」と呟きながら亜厂正輝が姿を現す。手で肩を揉み首を回し体の可動を確かめる。体に異常がないことを確認するとふぅと一息吐き、あたりを見る。
電話ボックスの残骸に埋もれた篤と両手を口に当ててただ立ちすくむ雫の姿があった。亜厂と雫の視線が交錯する。
「お前はあとだ」と亜厂は倒れた篤のもとへ向かった。篤の襟を掴み体を持ち上げる。
「先輩、お久しぶりっすねぇ!」
亜厂の渾身の殴打が篤の鳩尾を直撃した。強烈な痛みが篤の消えた意識を強制的に呼び覚ます。
「ぐっ……!」と呻く篤。
「寝ぼけてないでさっさと起きろよ裏切り者が」
もう一発篤の顔に渾身の拳が振り下ろされる。視界が暗転し篤は地面に倒れこむ。殴られた側の頬は火照り、何本もの虫歯が悲鳴を上げるようにズキズキと痛む。殴れらた衝撃で切れたのだろう、口内に鉄錆の香りが満ちる。耐えかねて唾を吐くと赤黒い血とともに歯が地面に転がる。
反撃しなければ、と篤は懐に手を伸ばし拳銃を構える。
「させねぇよ」
篤が狙いを定めるより早く、亜厂の蹴りが命中し拳銃は手から飛んでいく。
亜厂は足で篤の顔を踏みつけた。
「あんたには本当に失望したよ」
ぐりぐりと靴底を押し付ける亜厂。
「成績優秀で組織への忠誠心もある仕事一筋の人間だと思ってたんすけどねぇ。俺も先輩のことは尊敬してたんすよ」
亜厂は大げさな手ぶりで語る。篤にしていることを除けば過去の亜厂と何ら変わりない声で語る。
「あんたが裏切るまではね」
一転、亜厂は抑揚を失った声でぎろりと篤を見下ろす。
「今更ターゲットに情が沸いたのか知らねぇけど」と足をどけ篤の顔を確認する。「出雲裏切ってターゲットと逃走とか、アホだろあんた。えぇ?」
篤の腹に蹴りを入れる。篤の体に鈍重な衝撃が響き、呼吸ができない。
「ターゲットは必ず死ぬ。特殊運搬部が必ず殺す。それでダメなら上が動く。その先はお決まりだ。もう個人でどうにかできるレベルじゃねぇ。出雲裏切って命張ってやることかよ、なぁ!」
もう一度蹴りを入れる亜厂。「うぅ」と呻く篤。手で腹を覆いなんとか守ろうとするが、亜厂はその上から三度蹴りを入れた。
「俺は裏切り者が一番嫌いなんだよ。だから、あんたは絶対に殺す。だけど楽に死ねると思うなよ」
そういうと亜厂の一方的な暴行が始まった。殴る蹴るはもちろんのこと、地面を引きずり回し窒息ぎりぎりまで首を絞め……それはもはや制裁というよりも拷問や快楽的な行動に近かった。
「もういいや、俺も疲れるし」と亜厂はホルスターから拳銃を取り出した。篤の頭に狙いを定める。
篤は満身創痍だった。全身は痛み、意識は朦朧としていた。自分がこれから死ぬということを考えることすら面倒くさくなっていた。脳は体の痛みを処理するだけで精いっぱいだった。もういっそのこと殺してくれという思いすら芽生えは占めていた。
「じゃあな」と引き金を引こうとした時だった。
亜厂の背後からガラス片を持った雫が襲い掛かる。亜厂が自分の勝ちを確信する瞬間、その時にこそ自分でも掴める勝機があると考えた雫の行動だった。それが雫の限界だった。
「素人が」
亜厂は雫の手を難なくよける。亜厂は殺しを仕事とする殺しのプロだ。所詮一般人の雫の行動を読めないはずがなく、それをかわせないわけがない。だからこそ、雫を放置し篤を先に潰しにかかった。
雫の手を掴み締め上げる亜厂。雫は片手一本を抑えられただけで身動きができなくなる。だがおとなしくしていることはできなかった。篤を守らなければ。今度は自分が彼の命を救うのだと。必死に身じろぎして振りほどこうとする。
亜厂は舌打ちする。
「めんどくさいから暴れんな」
「いやだ。篤さんを殺させない、絶対に。今度は私が守るから……」
それを聞いた亜厂は「そうか」と言って手を離した。
予想外に解放された雫は反動でよろめく。
「えっ」と驚き亜厂を見た。
「ならお前から死ね」
亜厂が銃を構えた。そして撃ちはなった。
胸を撃たれた雫が地面に倒れる。
自分と同じ目線に落ちた雫を見て篤は理解した。何が起きたのかを。
「亜厂ぃ!」と叫び篤は立ち上がった。痛みで朦朧としていた思考はたった一つの感情に支配され、その衝動が軋む体を突き動かした。
リボルバーの弾をリロードしていた亜厂が肩をびくりとさせる。あれだけぼこぼこにして尚、この人間は立ち上がったのだ。再起する気力も再挙する体力も奪ったはずなのに、それでもこの男は立ち上がった。亜厂はその事実に畏怖したかのように固まる。
篤は亜厂に飛びかかった。押し倒し、顔面を何度も殴った。何度も何度も殴った。痛む拳で殴った。涙で霞む視界の中殴った。馬乗りになり殴った。亜厂は抵抗しなかった。
篤は亜厂の手からリボルバーを奪い取った。亜厂は抵抗しなかった。
「俺にはあんたがわからない。……なんで、裏切ったんすか、先輩」
篤は答えなかった。ただ奪った拳銃を亜厂の額に据える。
亜厂が瞳を閉じる。
静寂の中、発砲音が響いた。
篤は足を引きずりながら雫に駆け寄っていく。途中で躓いて転ぶと、這いずって彼女の元に辿り着いた。彼女は血だまりの中にいた。勢いを増した雨が、その血だまりを薄め、広がらせて、波打たせていた。
「雫」
呼びかけると、反応があった。うずくまっていた彼女は頭を動かして、篤を見るなり苦痛にゆがんでいた顔が、まるで雪解けのように綻んだ。
「抱き起こしてくれない」
彼女は言った。篤は駄目だと拒絶したが、彼女が再び頼むと、ゆっくりと言われた通りにした。
腕の中に収まった雫と見つめ合っても、篤は言葉が出てこなかった。彼女の傷はそれほどのものだった。もう、すべてが手遅れだった。
「篤さん」
雫の声に彼の体は怯えた。
「大丈夫」
どこが大丈夫なんだ、と篤は言えなかった。雫はただ、篤を見ていた。
「外国に逃げて、一緒に暮らすんでしょ。約束、したもん。一緒に……暮らそうね。こんな傷じゃ私、死んだりしないから」
篤は赤子のように泣き出した。彼女に縋りついて、「死なないでくれ」、「頼む」と繰り返した。それを見て雫は困ったように笑いながら言った。
「だから、死なないって――」
そう言った直後に彼女は多すぎるほどの血を吐いた。苦しみながらせき込みもした。
やがて彼女は諦めたように、笑顔を浮かべた。
「ここがいい」彼女は言った。「死にたくないよ……」
「なんで俺じゃなかったんだ」嗚咽交じりに篤は言った。「君がいなかったら、俺は何も出来ない。何一つ……」
「そんなことない」
彼女は彼の背中に手をまわし、残った力を尽くして抱き締めた。彼の匂い、抱き心地、彼から受け取った愛を、魂に刻み込んだ。
「このままでいて」
篤は喋れなかった。体だけが彼の意志を代弁していた。そのほうが、雫は嬉しかった。だが、彼女にはもう体で語るだけの力が残されていなかった。だから彼女は語った。一番伝えたいことを。
「大好きだよ。いつでも、どこへいっても」
雫はゆっくりと瞼を閉じた。
「起きて、篤さん」
彼女の、雫の声がした。ベッドで横たわる篤は重い瞼を開けて、隣で自分の背中に触れているその人を見た。
「――」
寝起きだからだろうか。声が出ない。
「もう朝だよ、起きて」彼女は微笑んだ。「ほら、夕べ言ってたよね。今日は丸太の加工を習いに行くんだって。列車、十時には出るんでしょう。朝ごはん作るから、その間にトイレとか洗顔とか済ませてきて。あとシーツ、洗うから出しておいてね。じゃあ、後で」
雫は篤にキスをして、何処かへ消えていった。篤はぼうっとしながら染みの付いたシーツを雑に畳み、脱衣所の籠に放り込んだ。シャワーを浴び、歯を磨いて、ズボンを履く。
悪い予感を抱えていたような気もするが、今ではそんなもの欠片としてなかった。どうして、そんな予感があったのだろうかと思い出そうと試みるも、上手く行かない。そこで、そうだ、と思い至る。あれは遠い昔の事なんだ、と。まだあの世界にいた頃の自分が抱えていた、結果として気にする必要などなかった予感だと。
全て上手くいった。二人でこの世界に来て、誰も脅かすことなく、そして脅かされることも無く日々が続いている。鳥のさえずりに安寧を覚え、暖かい日差しに相貌を崩す。仕事も決まり、慣れようともがいている最中だ。
なにより、このちっぽけな木の家には雫がいる。彼女と毎晩のように愛し合い、抱き合ったまま眠り、起きてはキスをして、暇さえあれば話し込む。これがあるからこそ篤は他の全てを美しく感じ、また敬意をもって接することができた。自分の世界を彩る存在は、雫だけだと彼は信じていた。
彼女が存在してなかったら――ではなく、彼女を失ったら、どんな顔をすればいいか彼には分からない。きっと、笑顔が何なのかも忘れてしまう。生きる意味すら失うだろう。
色のない世界に生まれて、そこで生きることは苦しい事ではない。色のある世界もある、という事を知りながら、色のない世界で生き続けることが苦しいのだ。世界が相対的であるように、人の幸福もまた相対的なのかもしれない。一方しか知らないのなら、その絶対性は不動のものだ。だが他にもあるとしたら、そこには比較が生まれ対比が生まれ優劣が生じる。
篤と出逢った頃の雫は色を知りながら無色の世界で生きる人間だった。転生というものに憧れて、異世界への旅立ちを望む色無き女性だった。一方で篤は、世界は白黒だと思っていた。そんな二人が出会って、不思議な事に双方の世界は鮮やかに彩られた。見たこともない色が、湧いたり降ってきたりした。発見と驚きに満ちた時間が続き、それまで見つめあっていた二人がふと周囲を見渡してみると、想像もしたことのなかった異世界が、まばゆい光を伴って広がっていた。いや、それを異世界と呼ぶにはふさわしくない。ただの、二人の世界だった。
「覚えてる?」いつしか隣に雫が立っていた。「昔、死にたいって言ってた私のこと」
まだ声が出ない篤はうなずいた。
「私、今ならわかるんだ。別に異世界に憧れていた訳じゃなかったんだって」彼女はそっと篤と腕を絡めた。「ただ、一緒に居てくれる誰かを探していた、愛し愛される人を求めていた、幸せが欲しかったんだ。突き詰めて考えたら、たったそれだけだったの。けれどあの時の私は転生して新しい体になって、異世界に行くことが唯一の望みだった。きっと、この世界が無味乾燥なんじゃなくて、自分の眼にフィルターが掛かっていることに気が付けていなかったんだと思う。だから転生なんてものに逃げたんだ。その証拠に私、今はとっても幸せなんだ。生きていることがこんなにも楽しいだなんて知らなかった。それもこれも、篤さんのおかげなんだよ。……うん、言わなくても分かってるよ。篤さんこそ、私のおかげで幸せなんだって。あ、照れてる。気が付かないと思ったでしょ? あなたはね、照れるとき必ず――」
どんなに長くとも夜は必ず明ける、とシェイクスピアは書いた。
どんなにつらい悪夢を見たとしても、それは必ず終わり、やがて正しい世界に引き戻してくれるのだと。
だが、明けた夜は必ずまた降りてくるもの。
どんなに幸せな夢を見ていたとしても、それは必ず終わり、やがて暗く、悲しみと絶望に満ちた苦しみの世界へと引き摺り込む。
夢から覚めた篤は、元の世界へ戻った。
安らかに黒江雫は息を引き取った。その短い生涯に幕を下ろした。篤を残して世界の幕は下りてしまった。
彼は愛する人の亡骸を抱きかかえ、その死を知ってから長い間泣き続けた。口を無様に開け、大声で彼女の名を呼びながら泣いた。あらゆるものを呪った。大和通運、そこに入った自分、雫との出逢い、彼女を殺した亜厂、彼女を救ってくれなかった神、その神を裏切っておいて身勝手にも助けを請うた自分を。
涙が枯れて抜け殻になった篤は、自分がなぜここにいるのかも忘れてしまった。そして亜厂から奪い取った銃を足元に認めた。右手でそれを拾う。
「……」篤は雫の方を振り向いて、銃口を自らのこめかみに押し付けた。「君を一人にはしない。…………一緒だ」
篤は引き金を引いた。
弾は発射されなかった。
彼は引き金を何度も引いた。
弾倉が回転していく。だが衝撃は訪れない。弾倉が三回転ほどして、篤はようやく銃弾が込められていないと分かった。
「そんな……」彼の手から銃が抜け落ちた。「お願いだ、雫……俺を一人にしないでくれ……っ」
雫を抱きかかえたまま篤は雨に打たれ続けた。それが銃弾だったならどんなに良かっただろう、と彼は何度も思った。誰でもいい、車が通りかかってくれ。何処を痛め付ければ死ねるか、良く知っているから。
破滅に思考を染めていく篤だったが、彼は雨に紛れて何かしらの旋律が鳴っていると気が付いた。些細な音だったが、頼りに探してみるとそれは亜厂の乗ってきた車から聴こえていた。ただ気になった一心で、篤は前方がひしゃげた車体に近づいた。旋律の原因は、スマートフォンの着信か何かだった。だが篤の関心はこの時、そんなものにはなかった。
その光が照らしていた、助手席に置かれた箱。篤もよく見覚えがあるものだった。
「〈ソウルカプセル〉――」
死後間もない肉体から魂を切り離し、保管しておく道具。今になって考えれば、亜厂がここに持ってきていることは当然のことだった。篤はその場で迷った末に、箱を持ち出した。
「やっぱり……君がいない未来なんて、俺には考えられなかった。もし…………。いや、今はいい。だけど、俺はずっと君の傍にいるからな。それだけは忘れないで欲しい。愛してるよ」
雫の元に戻った篤は彼女にキスをした。冷たかった。口に彼女の血が付いたが、彼は気にも留めなかった。それから彼は躊躇いを見せたが、手元にあるものを操作して実行に移した。篤は目を離さなかった。じっと堪えて、口を結んだ。やがて黄色い光が周囲に散り、消える。また篤は少しだけ泣いたが、最後にはそれを押し殺した。
車から取ってきた亜厂の鞄を篤はしっかり閉じ、背負った。そして雫の身体を抱きかかえ、立ち上がった。彼女の足からするりと靴が脱げては転がった。
路上によこたわる電話ボックス、破損した二台の車、亜厂の死体、二か所に広がる血。抱いた未来への希望が招いたこれらに、篤は別れを告げる。
彼は雫と一緒に、港へ歩いていった。




