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異世界転生はもうつまらない  作者: 水中昌&槙宮みあ
24/30

24話 『異世界』

「篤さんにも意外な弱点があるんだ」


 雫は血が飛び散った襖や、手の跡が染みになっている井戸などを通過していく。しばしば現れる幽霊や風にも程よく驚き、お化け屋敷を隅から隅まで堪能するつもりだった。


「でも」彼女は立ち止まって、このアトラクションの記憶を見返した。「あまり楽しくないね、これって。……早く出て、合流しよ」


 独言する彼女だが、思索にふけっていたせいで――背後から近づく手に気が付けなかった。その手は真っすぐに、彼女の右腕を掴んだ。


「ひゃっ」


 不意を突かれ猫のような声を上げる。


「や、やっと追い付いた」


 彼女を掴んだのは篤だった。




 二人は早々に暗がりを抜け出した。外に戻るなり二人は冷たい空気を肺にたっぷり入れる。そしてどちらからともなく歩き出した。いつの間にかお互いに手を握っていた。

 歩きながら雫は終始勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ちらちらと篤を見やっている。


「来ないと思ってた」


「万が一って事があるだろ」


 篤は目線を動かさず言った。


「万が一?」


「追手が潜んでるかもしれない。その可能性を考慮すると、雫を一人だけにするのは……」


 篤の手を雫は握り直した。それで彼は今更ながら双方の接続に気が付いた。


「私が心配だったんだ」


 彼女の声に艶やかなものが交じっていた。


「心配くらいするさ」


 空いた手を使って、篤は雫と自分の繋がりを断った。二人は立ち止まり、見合った。


「大嫌いなお化け達を潜り抜けて、奥まで来てくれたもんね。……ありがと。嬉しかった」


「早く次に行ってしまおう」


 男はパンフレットを広げ、次に向かうべき方向を探し始めた。 




 メリーゴーランドが見えると、雫は乗りたがった。結局篤はこれには一緒に乗らなかったが、彼女の手荷物を預かって、手を伸ばせば馬上の彼女と手が届こうかという距離で見守っていた。回転する二十頭余りの木馬。支柱や屋根の明滅する電飾。自分の前に現れ、そのたびに名を呼んでくる雫。彼女は回転する舞台に流されていき、彼の視界からやがては消える。毎回、それが最後になってしまうのではないかと、篤は不思議な危惧を抱いていた。彼女が跨る黄金の馬が中央の支柱の影から出てきた時、誰も乗っていないのではないだろうかと。馬鹿らしい妄想だ、と篤は口元を隠す。そう思っても恐ろしさは未だ側にあった。彼女が視界から消えるだけで、そんな気持ちにさせられる。お化け屋敷の時もそうだった。気が付けば彼女を追いかけていた。自分の眼の届くところに繋ぎ止めておかなければならないと、体が――もしかしたら魂が――命じたかのように。


「失いたくないんだ、俺は」彼は言った。「雫を……俺は……」


「――篤さん」


 彼女の手が目の前を横切っていく。反射的に篤はそれに触れる。すぐに彼女は遠ざかり、手も離れる。雫は首の方向を右から左に切り替えて、微笑をたたえて篤を見つめながら去っていく。


「俺は、どうしたいんだ……?」


 メリーゴーランドが止まっても答えは分からずじまいだった。 




『本日は、煙の輪遊園地にご来園頂きまして誠にありがとうございます――当園はあと三十分で本日の営業を終了いたします――お忘れ物のないよう、お気をつけておかえりください――』


 道端の頭上にあるスピーカーから告知があった。篤たちの周囲には、もう客がいなかった。


「もう閉まっちゃうんだ」雫が篤の腰掛けたベンチに戻ってきた。下のシャツが土産物屋の新品になっていた。「あっという間ね。私達、朝ここに来たはずなのに」


「それだけ充実していたってことだろ」篤は預かっていた荷物を彼女に返し、立ち上がった。「いい時間の過ごし方をしたんだ」


「なんか久しぶりだなあ。それって」雫は無人で走るジェットコースターを見ながら背伸びする。「今まではね、読書とか映画とか、音楽とかさ。そういった作品の世界に浸っている時だけ、日常を頭から追い出せてたの。時間なんてすぐ過ぎた。何かを受け入れることでしか、私の針って進まなかったんだ」


 ただ立ち尽くしていた彼女は、やがて身を翻し、篤へとたおやかに手を差し伸べた。


「ねえ、こっちへ来て」


 その手を取るかどうか篤は躊躇った。今の雫に漂っているものは、彼らが初めて会った夜と同じ危うさのような気がしたからだ。しかし彼に選択肢はない。彼女が手を取るよう切願するなら、叶えてやりたいという執念が燃える。さらには、拒めば彼女が風のように去ってしまいそうに思えた。


「聞こえただろ」彼は雫の手を取りながら言った。「もうすぐ閉園だって」


「どうせだれも気が付かないわ。だってこの指輪をはめている間は、私たち――異世界にいるのよ。世界の膜の、ずっと深層にいるの。そこでは道徳も憲法も、罪も罰もない。私達が立つここは新しい世界。存在するのは私と、あなただけ」絡み合った手を心臓の方へ引き寄せて、雫は篤に笑いかける。「せっかく来たんだもの。あと一時間くらい居ようよ」




 一時間、と雫は言っていたが、三時間経っても彼らはまだ園内にいた。あらゆる機械が眠りに就いた遊園地でも、やることは沢山あった。ジェットコースターの搭乗口に上って、落陽を眺めながら夕食について話した。喫茶店のように落ち着いたコーヒーカップに理由もなく入って、コーヒーの豆や淹れ方について篤が多く語った。ただのブランコになってしまった回転ブランコに並んで座り、軽くこぎながら、雫が好きな小説について存分にしゃべった。昼は振り子式に揺れていた海賊船に乗り込んで、もし逃げ延びられたら、外国ならどこに行きたいか、海か空がいいかを議論した。それらが現実的かどうかは問題ではなかった。全てが覚め、元に戻るのは遊園地を出た時だ、と二人で決めたからだ。だから二人は誰も邪魔してこない異世界で、思うがままに語らっただけ。真実はもちろん、夢も会話に織り込んであったが、その境目は霧が包んでいき、話している当人たちでさえ分からなくなるほど曖昧になってしまった。


「出口だ」


 篤の言葉に、雫も頷いた。彼らは園の出入り口まで戻って来ていた。施錠されていたが、越えるのは容易だとすぐわかった。二人は最後に、そのすぐ近くのベンチに腰掛けて、今日の感想を言い合うことにした。


「楽しかったよ」まず雫が言った。「篤さんは?」


 篤は言い淀んで、前のめりになり頭を抱えた。深いためいきをはき、それから雫に問いかけた。


「正直に、だよな」

 お願い、と彼女は返した。だから篤は正直に言った。


「怖かった。楽しかった以上に、怖かったよ」


「どういうこと?」


「君が俺の前からいなくなってしまうんじゃないかって」


 頭から手を離し、膝の上に置いた。


「俺にとって〈人の死〉は、成果だった。一つの大きな出来事じゃなく、書類上で増えていく数字にすぎなかった。人を殺すのは、簡単だから。方程式を解くより早いんだ。首を切れば死ぬ。潰せば死ぬ。……だけど、君だけはどうしても数字として見れない。だって君は、初めて会った時から俺の世界を滅茶苦茶にしてくれた。正しいと信じていたものを、信じられなくさせてくれた」篤は力なく笑った。「ここ数日は、自分にこんな一面があったのかと驚いてばかりさ。そしてこれまでにない位、今を楽しむ俺がいる。人として死んでいた心に、君が風を送ってくれたような気がする。だからこそ、怖い。君を失うのが……なあ、こう思う事はおかしいか? 俺は、狂ってるのか」


 雫の手が、篤の手に重なった。震えていた。


「わからない」彼女は言った。「私には、狂気と正常の区別なんてつかない。だって、世界そのものが狂っていたら? そこに住む命は皆、狂気の渦中にあるとしたら……。正しいものなんてないのかもしれない。だからね、私には篤さんが正しいのかそうでないのか、わからない」


「……そうかもな」


「でも、例え世界が狂っていたとしても、心配なんていらないよ。だってその中でも私達、とびっきりの異端者でしょ。あなたには私がいるし。私にはあなたしかいない。相性もきっといい。きっと」雫は唇をかみしめた。「まったく、篤さんといると調子狂うよ。いつも意表をついてさ、驚かせるんだから」


「それはお互い様だ」


「ふふ、そうだね。うん。…………そんなあなただから、期待してしまうの。もし私が地獄に堕ちても、手を伸ばしてくれるんじゃないかって」


「雫……」


 碌な明かりも灯っていないこの異世界は、冷たく、闇に覆われていた。だが、この二人だけの世界であった。彼らが別れを告げ、恐らく二度と訪れないであろう世界。たった数時間在った世界。篤と雫が命を刻み込んだ世界。まもなくここは、記憶の彼方へ置き去りにされる。


「こっちみて」


 雫は篤に身を寄せ、相手の顔を両手で挟むように包んだ。そして彼女は彼に口付けをした。




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