25話 『魔術依存』
「亜厂さん、頼まれてたもの、持ってきましたよ」情報課の男が持ってきた資料を亜厂は受け取った。
「これこれ。あざっす」
「アーカイブから引っ張ってくるのに苦労しましたよ」
男の発言を完全に無視した亜厂は、すぐさま書類に目を通し始めた。
『かねてより発症の懸念が横たわっておりました魔術依存について、ようやくご報告に値する研究成果が得られました。これにより、一層の効果的な対策を講じると共に、火急の事態が発生した際の試算に必要不可欠な項目が、我ら出雲の一頁に加わることになると確信しております』
『被検体につきましては、以前より運搬課長の芭墨様、監査課長の西海枝様の御配慮により提供されていた、職務遂行能力不適合の素体らの一部であります。また研究後の処理も、御二方の同意の上で行いましたので、どうかご安心を』
『改めて、魔術依存とは何かを定義させて頂きます。魔術依存とは、魔術による精神安定、補正の恩恵を受け続けた者に発症する精神、肉体的苦痛の総称であります。その症状は、それら恩恵を断つことで総じて現れると確証も得ております。例えば、日常的行為の一環として魔術を受け入れてしまっている場合。頻度、回数にもよりますが、早ければ一日や数日で症状が現れます。まず全身の脱力、吐き気、痙攣が発生し、同時に精神の混濁(一部被検体には昂りも見られました)も起きます。次いで幻覚、幻聴が発現、それに応じて極度の不安、恐怖が襲います。
また、皆さまはご存知のことと思いますが、主に特殊運搬部の職員には一般人からの引き抜きが多く、倫理観も世間寄りになりがちです。そこで魔術による精神安定と銘打ち、思考過程から罪悪感などを抜き取り、任務への義務感を埋め込んでいるのです。つまり引き抜きの者が何らかの要因で魔術依存に陥ったと仮定した場合、その者は魔術によって、自分が本来持ち合わせている倫理に反する行動を取らされ続けていたと自覚し、過去の行いに対する過剰なまでの忌避感、後悔の念が表出されることも、度重なる実験により証明済みです。中には、自ら命を絶つ素体もありました。精神鑑定、薬物投与、性的興奮による治癒効果も試しましたが、遺憾ながら失敗に終わっており、即座に廃棄しております。しかしながらこれらの結果は同時に、魔術が人の精神、欲望、または体内の化学物質いずれをも上回るという事実を裏付けるものに他なりません。魔術は犯しようのない金甌無欠な体系であり、神が人に与えたもうた唯一の絶対であります』
一通りを読み終え、亜厂は嘆息した。
「なるほど。記述を信頼するなら、もうそろそろ頃合い、か」
「どうしましょう」
「どうもこうも。やることは変わってないすよ。裏切り者を片付けるだけ。ここに書いてあることが事実なら、関堂篤は何かしらのボロを出す可能性が高い。今まで以上にアンテナを張っておくべきっすね」
帰途の車内は外と同じく、静かで暗かった。助手席の雫は篤から目を反らすように窓側を向いて寝ていた。運転する篤は、早鐘を打っていた心臓がようやく落ち着いたが、狼狽は続いていた。あの後、束の間のキスが終わった後、二人は一言も話していない。自ずと園の外に足が向き、車に乗り込んでいた。どうしてしたのか、篤は雫の真意を測りかねていた。
ハンドルは右手に任せ、左手を唇にあてがう。
多分――恐らく――彼女のはより柔らく、弾力があった気がする。
七つ離れた彼女を、篤は異性とは一歩離れた視線で見るように努めていた。成人しているとはいえ、雫の中には大人的自立心と少女的依存心が同居していると彼は判断していたし、事実調査した時にもそのような結果が出ていた。法的に問題はないのだが(今更どの面下げて法の許しを請うというのか、と篤は嗤った)、子供と接しているという認識がある以上、篤は自分の価値観に基づいて距離感を保ってきた。それらをあの口付けは破壊した。今篤の脳の大部分は、雫でいっぱいだった。職、家、資産を失った代用として逃がす腹積もりだったはずが、今ではそんなものはどうでもよくなって、彼女の安全と幸福だけが望みになっていた。
だが彼女に、俺は相応しいのか?
ふとした疑念が運転を狂わせる。危うく、ガードレールに突っ込むところだった。
別の動悸が彼の中で蠢く。それが全身に広がり彼を襲ったのは、翌朝だった。
布団で目を覚ました篤は体の異常に気が付いた。正確には、体の異常が彼を目覚めさせた。熱がある。だが凍えるような寒気もあった。思わず身震いをする。
「なんだよ……」
風邪でも引いたか、と身を起こす。大掃除のおかげで埃一つない床には、一人分を空けて雫の布団がある。彼女はまだ膨らんだ山の中にいるようで、足先だけが寒々しそうに飛び出していた。毛布をかけてやろうか、と篤が立ち上がろうとする。だが足が碌にいう事を訊かない。視界も歪んで、急激に頭痛がした。膝を付き、それでも耐えられず手までも支えにする。彼の四肢は痙攣していた。
「んん……」
篤が立てた物音で雫が身じろぎした。吐き気を感じた彼は口を押えるが、我慢できる気がしない。這いずって壁を頼りに立ち上がり、外まで行くと、草むらで吐いた。せり上がってくる嫌悪に顔をゆがめて、胃の中を洗いざらい吐き出した。
「――ねえ、苦しい?」
雫ではない、女の声がした。顔を上げると、あの時と同じ紅のコートを羽織った坂本詩音が立っていた。その首筋には、横に両断する形で一線の傷と、そこから垂れる血があった。
「頼む……来るな……! 来るんじゃない、やめてくれ」
篤は足を動かすことなく、じわじわと距離を詰めてくる坂本詩音に向かって言った。まともに彼女を正視できない篤は、幼少の子供の用に怯えていた。
「あなたにも聴こえたでしょう。ブチ、ブチ、って。私の繊維が切れる音」虚ろな目で詩音は言った。「とっても痛かった。早く死にたいと思うほど。……痛かった。私の生活を知らない? どこかに置いてきてしまったみたい。ああ、どこへやったのかしら」
ポト、と彼女の首が落ち、篤の足元へ転がった。
「あなたは営みを知らない」首が口を動かすと、そこから血が溢れた。「人としての生活をしらない。そんなあなたに、生活を奪われた」
「知ってたら、こんな事にはならなかったんだ」篤は頭を抱えながら言った。「そんなつもりは、無かった。許してくれ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
首無しの体が歩いてきて、篤の首を絞めた。落ちていた首は苦悶の表情のまま固まって、もう動いていなかった。だが篤の背後に、新たな坂本詩音が佇んでいた。
「ゆるさない」彼女は泣いていた。せき込むたびに赤黒いものを吐いた。「あんたは地獄に堕ちる」
「ごめんなさい……ごめん……あぁ、なんて事を……人殺しなんて出来るはずがなかったんだ、俺なんかが……垂れ幕、垂れ幕が見たい……」
「罪は償うべきよ」
詩音が言う。
「贖、罪を」
首がかすれ声で言った。
『見たい。見たい。見たい』
篤を取り囲んでいる十名の坂本詩音が言った。
「……償い……」篤はつぶやいた。「そうだ。……罪は、償える……どうすれば?」
「私達と同じものを流して」一人の詩音が言った。「誰にでも流れている、赤いものを。あなたの体を満たすそれこそ、罪よ」
つま先に何かが当たるのを篤は感じた。無意識に、それを拾い上げる。錆びた鉈だった。
「死ねば、……この悪い夢も終わるのか」
女たちは何も言わず、篤の動向を見張っていた。
「初仕事を終えた時から、俺に生きる資格なんてなかった……。誰かを殺めた時点で、俺は、人じゃなくなってた……」
不揃いの切っ先が喉仏に触れる。せめて、長く苦しむように。血がいっぱい噴き出るように。痛いように。時間をかけて、死を味わおう。一度しか味わえない人生のデザートを。
雫が家から飛び出し、篤を静止したのはその時だった。彼の腕にしがみ付き、必死に鉈を捨てようともがいた。
「何をやってるの馬鹿……!」
坂本詩音たちは篤の周囲から消えていた。だが錯乱している彼はそれに気が付けていない。
「俺は死ぬ。死ぬ、死なせてくれ。もう耐えられない。生きていたくない。全てが間違っていたんだ」
「間違ってなんか……ない!」雫が篤を思いきり殴った。彼の手から鉈は落下した。「あなたは私を救ってくれたでしょ! それまで……間違いになんかしては駄目。篤さんが死ぬなんて、イヤ。お願いだから、そんな馬鹿な真似はしないで」
篤の体を揺さぶりながら彼女は縋りついた。彼を精一杯抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫よ。あなたは死霊の虜になったりしない。私がこっちに繋ぎ止めるから。今は目を閉じて。静かに、そう……そうよ……」
「し、ずく……」
糸が切れたように篤は倒れた。




