20話 『潜入』
寝心地の悪さに篤が目を覚ますと、雫が彼の膝を枕にしていた。道理で疲れが取れないはずだ、と彼は身じろぎしようとするが、彼女の眠りを妨げるのを躊躇い、しばらくそのままでいる。感服することに彼女は熟睡していた。呼吸をするたびに腹部が持ち上がり、耳をそばだててようやく聞こえるくらいの寝息が立った。紛れもなく篤が救った命だった。その事実を、彼は朝になって痛感する。こんなに目覚めの良い朝がかつてあったろうか、と自問して、即、なかった。と結論がでた。腕時計を見ると、六時を過ぎたばかり。いつもならカナリアの餌やりとコーヒーを淹れながら、出社で頭がいっぱいの時間帯のはずだった。その日常も今では遠くなり、二度と戻れないと彼は覚悟しなければならなかった。亜厂に働いた鮮明なる裏切りをもって、篤は〈出雲〉の敵になったのだ。
冬らしく、外には夜がまだ滞在していた。気温も低く、息が白くなる。車に積んであった篤のスーツを二人で分けて羽織っていたおかげで、型通りの睡眠と休息は取れた。雫が篤に倒れ掛かっていたのもむしろ都合がよく、互いの体温がうまく作用していた。とはいえこの中で一日を過ごすのも限界があった。
篤は雫の頭を手で支え強引に抜け出そうとする。雫に違和感を与えることなく、彼はどうにかソファから立ち上がった。足の血の巡りが悪く痺れたが、我慢で乗り切った。背伸びをする。踵をおろした拍子に床がギシギシ鳴った。
「これからどうするの?」
「えっ?」篤が振り向くと、雫が片目を開けていた。「起きてたのか」
「一時間くらいよ」その言葉通り、横たわったままの彼女の眼はしっかり開いていたし、欠伸もなく、呂律もしっかりしていた。「で、どうするの?」彼女は繰り返した。
「ここから十分くらい車を走らせたら街がある」篤はキッチンへ向かう。「そこで日用品を揃えよう。食料、着替え。他にも寝袋はあったほうがいいだろ」
シンクの前に立った彼は栓をひねり、蛇口から出てきた水で顔を洗い始めた。
「大丈夫なの? ほら、〈出雲〉とか、通運はあちこちを監視しているんでしょ。呑気にショッピングなんかしてたらすぐに捕まりそうだし」
「そこは大丈夫だ。亜厂から……借りた道具がある」ハンカチで顔を拭うと、篤は車から大倭通運が支給する指輪を二つ取ってきた。そして一つをソファの雫に渡した。
「あら、プロポーズ?」
「馬鹿」
二人は笑いあった。
「これは指輪型の多機能デバイスだ。俺たちにとっては魔術バージョンのスマートフォンみたいな物で、仕事をするときには欠かせないものだった」
「ふんふん」
魔術の世界の道具に雫は途轍もなく興味を持っていた。彼女にとっての異世界にとても近しいからだろう、目が輝いていた。
「体調管理、出退勤もこれでやってた。だが一番重要なのは、認識阻害機能さ。それが機能している間、使用者の姿は生物の眼に映らなくなる。鏡や水にも反射はしているんだが、それを捉える生き物の認識そのものをずらすんだ。そして使用者が立てる音、声、大抵のものは消してくれる。銃声もな」
「どうして篤さんは私の時にそれを使わなかったの?」
「仕事と言っても一概に撃って終わり、じゃないんだ。君に同級生の幻覚を見せたように、一人一人の感情を高めて、転生させるための準備をしなくてはならない。だから使えなかった。話を戻すぞ。認識阻害は便利だが、存在そのものが消えてなくなるわけじゃない。つまり、体はそこにあるってことだ」
「何かに触れることも出来るし、誰かが触ってしまえば気付かれちゃうってことね」
「そうだ。それが唯一の弱点と言っていい。……あとはバッテリーの減りが早いってことかな。何はともあれ、これを使えば人はもちろん、監視カメラ、衛星写真だって気づかない」
「街に行けるね」雫は指輪をつまんで、角度を変えたりした。
「そういう事だ。それじゃあ支度をして今からでも――」
「待って」指輪弄りを中断して雫が言った。「これ使ってたら、レジで精算出来ないんじゃない? 店員さんに気付いてもらえないんだから」
「……あ」
固まる篤。そんな事を見落としていたなんて、と言いたげな表情だ。
「もしかして作戦失敗……?」
雫が言った。
「いや」反射のように篤が返す。「まだ手はある……には、あるが……」
煮え切らない様子の篤だったが、雫は聞きたがった。次は彼がどんな景色を見せてくれるのか、心底楽しみにしていたからだ。
「なに。言ってみて」
「じゃあ先に聞いておこうと思うんだが」篤は言った。「雫は法律とか気にするタイプか?」
こんな言葉、世界でこの人しか言わないだろうな、と雫は思った。
食材などを調達する為、二人は車で外出した。坂を下りながら左右に曲がり続けて、ようやく平坦な道にでた。次第に建物や信号が連なってくる。人通りもそれに従って増えていく。やがて篤が左にハンドルを切って、くたびれたスーパーの駐車場に入った。カーナビに午前七時三十分とあった。篤は店の入り口前に停車させ、指輪を弄りだした。雫が横に乗り出して「何してるの」と訊いた。篤から借りた指輪が右手に光っていた。
「時間経過でじわじわと色や車種を誤魔化せるように、光学迷彩の設定だ。俺と雫は対象から外してあるが、他の人たちから見れば、いつの間にか違う車にすり替わってるように見えるのさ」
設定を終えた篤はキーをシリンダーから抜き、胸ポケットに押し込んだ。緊張しているのか、正面、ガラスの奥に広がる店内を見つめながらハンドルを握り、右の人差し指と中指で無秩序なビートを刻んだ。
「そろそろ、やるか」
「いいよ」
それから篤が合図をして、二人は自身に認識阻害をかけ、互いの姿が見えるように同期を済ませた。行こう、と彼が言い、ドアを開ける。車内に冷えた風が逃げ込んできた。たまらず雫は身を強張らせるが、諦めて外へ出た。ドアが施錠されると二人は歩き出して、ナンバープレートの前で合流した。
「ちなみに経験はあったりするか?」
篤が手を揉みながら訊ねた。
「小学生の頃に駄菓子を少々」雫は両手でマスクを作り、息を吹きかけた。「でもクラスの半分くらいが半年繰り返したら店が潰れちゃったの。それで懲りたよ」
「それは心強い」
篤の言葉に雫はムッ、とした顔になる。
「本気で言ってる? それ」
「本気さ。上級者が同じ任務にいるってのは心強いもんさ」
「そういうものなの。任務って大仰なものに就いた事ないから分からない」
「就かなくていい」篤は言った。「それにしても、緊張……してるよ。任務の時なんかよりずっと」
篤の吐いた弱音が白く形を得て昇っていった。
ナイフを構えた彼を雫は思い出していた。殺す、と憑りつかれた様に繰り返していた、出逢った時の彼を。あの時は想像もできなかった。自分を殺そうとしてきた相手と共に、ボニーとクライドのように狼藉を働くことになるなんて。
「ふふ」
彼女は笑って、篤を小突いた。
「なんだよ」
「篤さんと居ると飽きない」
「なんで」
「頭おかしいんだもん」
年上に言う言葉か、それ、と篤は苦笑した。
「まあいいさ。好きにいえよ。ほら。作戦通りに。行くぞ」
彼が歩いていった。雫は周囲を見回して、飛びはねた。車一台分空けた隣に家族連れがいたが、誰も彼女を気に留めなかった。「クソ野郎」と大声で叫んでもそれは同じだった。笑みが込み上げてくる。篤が「なにやってんだ。行こう」と急かしてくる。
向き直った雫の眼には、さびれたスーパーなど映っていなかった。おもちゃ箱のように輝く犯行現場と、篤が映っている。これから起こす――恐らく史上もっとも静かな――罪の雷鳴が彼女の心に轟く。期待と希望で胸が一杯になる。課題やアルバイトみたいに、やらされるんじゃない。やるんだ、私は。生きるために。
「うん」
楽しい。なんて楽しいんだろう。
彼女は走って、篤に追いついた。二人は老夫婦の為に道を開けた自動ドアから忍び込んだ。




