16話 『転生願望』
駆けつけた篤の眼に飛び込んできたのは、何も変わった様子のない雫だけだった。変化と言えば、テーブルにチョコレートケーキとカフェオレが追加されていたくらいだった。
「どうしたの、そんな慌てて」
額に汗が浮かぶ篤を見てクスクスと笑う雫。
「あ、いや。……外人の男が来なかったか」
「誰も来てないよ。ふふ、変な篤さん。まあ座りなよ」
勧められた席に篤は大人しくついたが、当分落ち着けそうもなかった。
あの男が雫の名前を出したのは、からかう為だったのか。今も監視されているのでは? あいつの所属する組織とはなんだ。
そんな疑問が頭を回り続けている。そんな彼の眼前に、フォークに乗ったケーキが運ばれてきた。
「はい」と雫。
「え……」
「おいしいよ」
「でもこれ、関接キ――」
「私の唇が触れたフォークに、あなたの唇が触れるだけ。さ、食べて」
ついに篤はケーキを頬張った。体温でチョコが口内で溶け、カカオの風味で満ちていく。
「おいしい?」
雫はというと、同じフォークで口とケーキを往復させていた。篤は気にしていた自分が馬鹿らしくなってそっと笑ったが、すぐに隠してしまった。
「ああ、美味いよ」味気ない返事になるよう努めて彼は言った。言った後で、もう少し言いようもあっただろうと悔やんだ。それから雫の顔を見た。写真よりも美しかった。そして、そんな彼女は何故死にたいのだろう、と疑問を抱いていた自分を思い出した。訊くなら、もうこの時を置いて他にはないように感じた。
「どうして……君はあの夜、俺に「殺して」と言ったんだ。教えてくれないか。……知りたいんだ」
フォークを手放し、彼女は紙で口元を拭った。拭った面が篤に見えないよう折ってから、ようやく言葉を紡いだ。
「自分のことは語らないくせに。都合いいんだね」言葉とは裏腹に、雫は笑みを崩さなかった。「でも、いいよ。特別に話してあげる。だって、篤さんしか話す価値のない話題だもの」
すまない、と篤は言い、ありがとう、と続けた。
「まず誤解を消化しましょうか」雫は言った。「篤さんが思っているような死にたがりじゃないのよ、私。かといって死にたくないと言えば嘘になる。死はあくまで通過点。一つの手段なの」
「どういうことだ」
「この世界を出たい」雫から笑いが消えた。「今いるこの場所から、違う世界に行ってみたい」
その言葉を篤は仕事と結び付けてしまった。違う世界、異世界に転生させる。まさに彼の仕事だった。
「海外に移住、すればいいんじゃないか。日本が嫌なら」
だが雫は拒んだ。
「それでもダメ。言い換えるとね、篤さん。私は、私であることを捨てたいの。黒江雫という人間から解き放たれて、あてがなくてもいい、どこかへ飛んでいってしまいたい。それが叶うのって、一つだけでしょ。だから、死にたい。だけど、死ぬ時って大体痛いでしょ。トラックにはねられても、スカイツリーから飛び降りても――例え一瞬だったとしても、痛いと思う。それがどうしても怖かったから、自分では死ねなかった……。でも都会の夜なら、色々な事が起きる。人もよく死ぬし。だから毎晩歩き回ればいつか、そういうのに巻き込まれるんじゃないかって。他人から殺しに来てくれるなら、覚悟も決まると思ったの」
疑問の答えを篤はようやく得られた。でもそれは、思っていたのと大きく違っていた。
「死んだからと言って、別の世界が始まる保証があるわけじゃないだろう。それとも輪廻転生なんてものを信じているのか?」
「正直……分からない。でも、私の理想。死んでも、また一から人生が始まったらどんなに良いだろう。生まれた世界が完璧じゃなくても構わない。あたたかくて、こんな私でも生き甲斐を見つけられる場所なら」
話せば話すだけ、篤は雫を知りたくなってくる。彼女の過去を聴きたいと考えてしまう。
「もし仮に、転生なんてものがあったとしよう」篤は言った。「だとしてもそれは……雫。君が思っているような素晴らしいものじゃない。もし俺たちに前世があったとしよう。だが俺たちはそれを覚えていないんだ。そして転生してきたはずのこの世界で、失敗もして、現に苦しんでる。違うか。転生しても次の世界がもっと悪かったら? 地獄がそのまま地上に出てきたような世界だったら?」
「だとしても」雫は語気を強めた。「賭けてみる価値はある」
「そんな価値はない。人生はそんな甘いものじゃないんだ」
「はっ」篤の言葉を聞いた途端、雫は彼を嘲笑した。「お母さんと同じこと言うんだ。あなたみたいな人でも」
熱した鉄が水に浸かるように、二人の距離感は冷めていった。雫は荷物をしまい、立ち上がった。彼女は去る前に「ごちそうさま。今度はお互いに腹を割って話せると良いね」とぞんざいに言い残した。
篤は彼女の皮肉をしばらく味わっていた。窓の外を見る。来た時よりも太陽が右に移ろっていた。街は呼吸し、あちこちを通る血管を、血液が決められた方向に進んでいた。
「……もう逢う事はないだろうがな」篤はつぶやいた。さっきまで目の前で座っていた彼女を思い描く。あの笑顔を浮かべた彼女を。「雫……」
あと数日。彼女はどうやって殺されるのだろうか。
可哀想な雫。きっと惨い死に方をするに決まっている。一番怖がっていた苦痛を何分も味わって、鼓動を弱めていくのだろう。
彼女は出雲に狙われたのだ。助かる未来などあるはずがない。
今日の出来事は全て忘れよう。今週末には出社して、また当分家で過ごす羽目になる。カナリアに餌でもやって、コーヒーを淹れて、小説とか画集でも――
「忘れよう。……忘れるんだ、篤」
彼は会計を済ませた。店員はエスプレッソ代だけを請求してきた。




