15話 『危険なトイレ』
トイレも店と変わらず瀟洒な佇まいだった。四つの小便器の下にはぴかぴかの黒御影石が敷かれ、ペンダントライトが釣り下がっていた。便座は小便器とは反対側に二つあった。誰もいないと分かると、篤は入り口から奥の個室に入った。鍵を閉めると、両腕を扉に叩きつけた。
「くそ……何をやってる、関堂篤……この、大馬鹿野郎……ッ」
直前まで呑気にエスプレッソを楽しんでいた自分を、今の篤は殺したいほど嫌悪していた。殺害失敗を許してもらう立場にありながら、その殺害対象と呑気にショッピングをしてしまっているのだ。誘われた時点で断るべきだった。なのにできなかった。篤は、自分で決定できない。与えられた職場、与えられた話題、与えられた任務、与えられた成績でしか自分の存在を認識できない。その潔いまでの受動的な習慣が、今日最も悪い形で表れてしまった。
「こうなるなら、薬を持ってきていれば……」
魔術課処方の精神薬に化学成分は全く含まれていない。カプセルの内側に刻印と共に魔術が仕掛けてあって、腹部でカプセルが溶解すると効力を発揮する。あの標語(特殊運搬部に失敗なし)を見た時よりも強力で、会社と出雲への貢献しか考えなくなる。反するものは、例え家族であっても躊躇いなく斬り捨てるようになる。
あれさえ持ってきていればこうはならなかったはずだ、と篤は胸を抑えた。また扉を叩いたが、力は籠っていなかった。
不意に、横から声がした。
「ちょっと、すみません……隣の方」
「え、は、はい」
いつの間に入っていたんだ、と狼狽える篤。同時にそこまで取り乱していたことを恥じる。
声は人当たりのいい、だが深刻そうに続ける。
「こっちの個室、紙が無くなってしまっているんですよ。ですからそちらのトイレットペーパーを、こっちに分けてはもらえませんかね、はい」
どこかで聞いたような声だな、と思いつつ篤は了承した。紙が無い辛さは彼も経験があったからだ。
「上から渡しますよ」
篤はトイレットペーパーを一巻き持って、個室の上方に空いた隙間を見やった。
「遠慮なく放り投げてください。ちゃんとキャッチするので、はい」
投げますよ、と言い、篤は紙を投げた。勢いをつけすぎて取りづらいかとも心配したが、壁の向こうの男が嬉しそうに歓声を上げたのでほっと息をつく。
「嗚呼、ありがとう。おかげで助かりましたよ、ええ」
礼を言われた篤は、反対に隣の個室で騒がしくしていたことを謝罪した。相手の男は快活に受け入れた。
「お気になさらず。……ところであなたは、会社員ですか?」
「ええ、そうですが」
「なるほど」脈絡のない質問だったが篤は何げなく答えていく。特殊運搬部以外の誰かに質問された場合を想定して、誤魔化しの教育をしっかり修了しているので、ぼろを出すといった真似もしない。「失敗でもしましたか」
とはいえあまりに追及されると回答するのも億劫になるので、篤はそうなる前にここを出て行こうと決めた。
「そんなとこです。そろそろ行かないと。連れを待たせているので」
「まあまあ。こんな不潔な所で会ったのも何かの縁、少しだけ話していきませんか。あちこちで良い人を見つけて声を掛けるのは、私の趣味みたいなものでして、はい。大体場所はトイレが多いんですけれども」
「失礼ですが」鍵にかけていた手を降ろして篤は言った。「随分変わった趣味を持たれているんですね」
「よく言われますよ、ええ」隣の男は笑った。「でもこれが一番落ち着くんです。私の外見は皆さんと違いますからね。直接会って話せば、この国の人、大体怖がってしまうんですよ、はい」
「外国の方だったんですか」
篤の驚きは本物だった。
「ええ。シチリアから来ました。人事で、色々と話し合いを重ねる必要が出てしまいましてね。何でも他社の有能な人材を引きぬきたいとか。それで私が直接、その方とお話をすることになったんですよ、はい。シニョール――関堂さん。あなたとね」
「なに……?」
先とは比べ物にならない驚愕を味わっている篤を他所に、男は平然と話を進めていく。
「関堂さん、あなたの仕事ぶりは実に見事だ。眼を付けてもう二年になります、はい。我々は出雲に気付かれない範囲で、ずっと監視していました。そして雇いたいと思った。大倭通運なんかより、ずっと好待遇でね」
篤は鍵を開けてここから出ようとした。だが鍵がひとりでに閉まって、動かなくなった。
「座ってもらえませんかね。まだ話は終わっていないんですよ、はい」
主導権が隣の男にあるのは明白だった。篤は便座の蓋に座るしかなかった。
「あなたはここ最近、大きな過ちを犯した。そう、黒江雫という少女の魂を回収できなかったでしょう、ねぇ?」
雫の名前に反応した篤は、声がする方の壁を向いた。
「どうしてそれを」
「私どもの組織全員が知っている訳ではありませんので、ご安心を。あの時――あなたが雫さんを殺せず、代わりの女性を殺した時に――あなたを見張っていた者と、極一部だけが知り得た情報ですので、はい。我々はありとあらゆる可能性を視ています、シニョール。あなたが今どう変わっているか、私には手に取るようにわかるんですよ」
すると上から小さな紙切れの一部が、篤を覗き込んだ。
「これ。私の名刺です」
「要らない」名刺に魔術の細工がされていると警戒し、篤は一文字たりとも見なかった。
「名刺だけでも受け取ってもらえませんかねぇ」
篤は頑として受け取らない。そこで男は気づいた。
「あ、この名刺には細工とかしてませんよ。安心安全です」
「信用できるか」
はぁ、と長い溜息をつく男。
「ここ、実はうちの組織の店でしてね。やろうと思えば結界魔術くらい訳ないんですよ。この意味、分かります?」
篤は口を開かない。
「シニョール、あなたは魔術師ではないですからわかりやすく言います。あなたの命くらい簡単に奪えるってことです。だから言うこと聞いてくれませんか、ねぇ?」
口調に敵対的なところはなく殺意も感じられない。だが、めんどくさがっているのは伝わってきた。ここはおとなしく従わざるを得ないだろう。本当に命くらい簡単に持っていかれてしまいそうだ。篤は名刺を受け取った。彼の言った通り、なんともなかった。
「だが、俺には……居場所を捨てる度胸なんかない」
「気が変わったらいつでも連絡を。私のことはMr.L.A.と呼んでください……では。どうぞ、私はもう出ますので、はい」
その言葉で篤は思いだした。
初めて雫と再会した日、パンケーキとコーヒーを注文した店で、席を譲ってくれた外国人がいた。
「っ、あんたは……!」
隣で物音がする。扉を開けて、足音が篤の正面を横切っていく。
「嗚呼そうだ――シニョリーナ雫にも挨拶をしておかないと」
再び鍵に手をやると、今度は開いた。
「おい、待て!」
篤は雫の元へ向かった。心臓が嫌に高鳴った。




