14話 『デート』
「断られると思ってた」洋服を選びながら雫が言った。二人は大型商業施設の四階にあるアパレルショップにいた。
「確証があって言ったんじゃないのか」と篤は半ばあきれる。周囲を慣れない女性ものの服とそれを求める客ばかりに囲まれ、不思議の国に迷い込んだようになっていた。
「まさか。怖かったよ。普通に。……これどう思う? もうすこし大きめのほうがいいかな」
ハンガーにかかった紺色のワンピースを見せてくる雫。真剣に悩んでいるその様子が篤には、いたって普通の女学生に映った。ワンピース、雫と見てから彼は俯いて、眉間を揉んだ。
「……いや、それで丁度いいんじゃないか。似合うと思うよ」素直に言ったつもりだったが、本人が気づくほどその言葉は感情に欠けていた。篤は顔を上げて奥のカーテンが開いた小さな部屋を指さした。「せっかくだから試着してくればいい」
雫は雫でしばらくうなってから、ようやく提案を妥協付きで認めた。
「じゃあ、篤さんには財布を託す」篤が財布を握ると、雫は彼に近づき囁いた。「窃盗と殺人未遂で捕まりたくなかったら、ここにいて」
「……はい」
彼女が試着室に籠ったあと、篤は「勘付かれたか」と呟き、逃走計画の失敗を嘆いた。
アパレルブランドの袋を三つ持った篤と軽快な雫はエスカレーターの力を借りて十階までやってきた。飲食店が並び、中華、うどん、寿司、洋食店などが昼の書き入れ時を乗り越え、ちょっとした安息を持て余している。だが篤を連れ歩く雫はそれらには目もくれず、階の北端にあるカフェに突き進んでいった。篤もコーヒーの香りに気が付いて眼に光を戻した。店名はDoL。先月オープンしたばかりだが、雰囲気と味で既に有名になりつつあった。
カフェに入ると、あちこちに表紙を表にした本が置いてある。左右にも見上げるほどのチークの書棚がそびえていて、中がぎっしり詰まっていた。それらは店と違和感なく一体化していた。奥へ行くと、大きな窓から都会が見えた。その窓に沿って席が設けてあり、二人は左端に座った。雫の提案でジャンケンをやって、篤が二人分支払うはめになった。注文を済ませ、少しで二つのカップが卓上にきた。篤はエスプレッソを啜り、ゆっくりと頷いた。その向かい側で雫はカフェラテに角砂糖の爆撃を行っていた。
「前から寄ってみたかったんだ」雫は湯気立つカップを口元へ運ぶなり眉をしかめて、追加の砂糖を投入しだした。「本が沢山だし、選ぶセンスもいいの。定期的に変わるのよ、店員のおすすめってやつで」
「そうなのか」
篤はカップを手に持ったまま景色を見ていた。手の支えにしていた机が揺れたので何事かと雫を見ると、彼女はハードカバーの本を取りだしていた。光沢があって良く手入れされている革(車のシートで質感を知っていた篤は、それが本革だと気が付いた)のカバーがかけてあった。「殺す」と言われて出る言葉が「殺して」な女の読む本が篤は気になったが、問いにはせず黙っていた。こちらからは極力干渉せず、やり過ごすのが一番だと踏んだからだ。
どうせ数日後には、俺じゃない誰かが彼女を殺す。
自分はそれに気が付かないふりをして、沈黙していればいい。時間がこの事態を収拾してくれる。受け身に徹して、動いてはならない。篤は静かに目を閉じた。
時折、周囲の雑音に増して、もっと身近から音が聞こえた。熱い飲み物へ吹きかける息、そっと皿に乗る陶器、すれてめくられる頁、スピーカー越しのシナトラに合わせた鼻歌の調べ。いつの間にか篤はそれらに耳を傾け、聴いていた。五分か、はたまた三十分そうしていたような気さえした。やがて全部が止んで、雫の声がした。
「篤さんは読書しないの」
彼は目をあけて雫を一瞥したが、すぐに窓の外へやった。
「あまり。仕事に関係ありそうなものだったり、他だと……路線図、時刻表、車の雑誌、コーヒー関連のやつくらいか」
「えー」
あり得ない、と言外に告げる雫。それには篤も反応し、彼女を見やった。
「何だよ」
「早死にしそうなラインナップ」
篤は言葉に詰まった。
「……そういう君はどうなんだ」
苦し紛れの問い返しに、雫は立腹したのか本を一気に閉じた。
「雫」
彼女は言った。
「え?」
「いい加減名前で呼んで。一緒にあちこち歩き回ったんだから、それくらい馴れ馴れしくしてよ」
これ以上近づくべきではない。
篤は一考して言った。
「――雫ちゃんは」
「馬鹿にしてる?」
ちゃん付けが嫌なら先に言ってくれよ、と思いつつも、彼は雫の要望通りにした。
「……雫はどういう本を読むんだ?」
本を脇に退けて、雫は前のめりになった。
「色々読んでるよ。小説、歴史、哲学、マンガ、ちょっと毛色は違うけれど、画集とか」
「幅広いんだな」
唸ってから、雫は首を横に振った。
「どうかな、分からない。読んだり、見るのは楽しいから。知恵を付けているって実感が快感に変わっていくの。私が大事にしているのは、主にその部分」
本のカバーを雫は撫でる。その手つきは愛犬にするかのように優しかった。
「読書は、楽しいか?」
素朴な疑問を篤が投げつける。彼が読書をするにしても、それは情報を得るためだけ。学生時代に小説を読みはしたものの、課題や授業の一環として行っていた記憶しか留めていない。彼にとって読書は業務と等しいものだった。
そんな彼の内情を悟ったのか、雫は急にしおらしくなった。
「そっか……篤さん、読書を楽しんだ事ないんだ……」
「哀れむような眼で見られるのは気分が悪い」
「哀れんでるよ」雫は言った。それから手元の本を触った。
「本の持つ本質って、篤さんは何だと思う?」
「知識を得ることだろう」
「そう。もっと正確には知識の蓄積と伝播。紙に記述できるっていうことは、進歩の引継ぎが可能になったってことなんだ。知識が時間と空間を超えられるようになった。つまるところ、人類はゲームみたいにコンティニューできるようになったの」
「それは……生きていくのに必要だとは思えない。紙や粘土板ができるより前から人間は生きてる」
「そう、生きていくだけならそれで十分。でも私たちは食べて、排せつして、精子と卵子を結び付ける以外にもやれることは沢山ある。文明を発展させたり、形而上のものに思考を巡らせてみたり、あるものを信じたり。それらを一から行う時、本がどれだけの力を持つか。本は知識って財産を与えてくれる。その財産のいい点は、銀行や倉庫が常に頭の中にあるってこと。大事にするべきとは思わない?」
「生きること以外に関心を持たない人間だっている」篤のカップが空になった。「だから人間は読書をするか、しないのかの二者から一つを選べる。……俺は読まなくて済む道を選んだ。それだけだ」
「じゃあ理由を教えてよ。選んだのなら、どうであれ理由は在るはずでしょ。もしかしてショーペンハウエル的に、読書は他者の思考をなぞるだけだから~みたいな理由?」
「いいや」篤は否定した。「無駄な空想が多いからさ」
雫が両肘を机に上げた。
「もっと話して」
もちろん詳細は篤の業務に関わっているため、一切を話すことは不可能だ。彼はカップの底を見つめた。黒い残滓が環状の染みになっていた。
「例えるなら、現代で天動説の本を読むようなもんだ。間違っていると既に知れている……不正解の記述を読んだところで、時間を浪費するだけだろ」
「篤さんの言い方、まるで真実以外は無価値だ、って言ってるみたい」
間違っちゃいない、と篤は返す。
「真実があれば生きていくには事足りる」
「あなたは、真実を知っているって言うの」
貪欲なる渇望が雫の表情に憑りついたようだった。拳二つ分は前に乗り出し、眉間にしわを薄ら作っていた。
「どうだろう」
篤は茶を濁す。
「私にも教えて」
追求する雫。
「駄目だ」
彼は拒否する。
「どうして」テーブルを叩くようにして立ち上がった雫は篤に縋った。「私、知りたいの。あなたは誰。どうして私を……」
先を言わせないために、篤は雫の口を手で押さえつけた。
「俺が言わないのは」彼は雫を沈めるように座らせながら言った。「責任があるからだ」
責任だって。
言っておきながら、篤はそう思った。
なんの責任だ。大倭通運に、出雲に所属する者としての秘匿か。一般人である彼女の身の安全――どうせ誰かに殺されるのに ――か。関堂篤として、黒江雫へ抱く印象――彼女は死ぬ――か。そんなの決まっている。普段通りだ。大倭通運の為、出雲の為、神の為、いつも通りだ。ああ帰ったら魔術課から処方されていた精神薬を取り込まないと。
「悪かった、すまない」篤はふと我に返って、雫から手を離した。唇の触れていた手のひらの中央が桜に色づいていた。「急に手を出したりして」
すると突然、雫が笑った。その声は微かで、漏れ聞こえるか否かの境界にあった。だが篤はその笑顔と声を忘れなかった。
「おかしな人」彼女は言った。「だって、私を刺そうとした時は謝りもしなかったのに」
「……ああ」胸が熱を帯びて、じわじわと痛みが広がった。篤は空のカップを口元に運んで、すするふりをした。「そうだったな」
「でも、分かったわ。もう聞かない。……篤さんも、私と同じね」雫が言った。
「かもな」と篤は返事をしたが、実際には彼女の言葉の意味を把握していなかった。彼は席を立った。「ちょっとトイレに行ってくる」
「ま、待って」前触れのなかった篤の行動に雫は動揺し、横を通り過ぎようとする彼の裾を掴んだ。「そのまま、いなくならないでね」
雫は彼が嘘を吐いて帰ってしまうと思ったらしい。
「じゃあ……」反射的に篤はポケットに手を入れてしまい、取り返しがつかなくなったと後悔した。仕方なく黒の長財布を出して、雫の前に置いた。「預かっててくれ。さっきと逆だ。これで文句ないな」
「うん」財布を手に持った雫は困惑気味に頷く。「でも、中身こっそり抜き取るかも」
「心配ないさ」
「どうして」
「そんな事しないだろう」
篤は広い店内を迷いなく進んで、入り口に向かった。
そして店員を見つけると、トイレの場所を訊ねた。




