13話 『誘い』
休暇はとっくに折り返し、明後日には出社が控えていた。晴れた冬の昼下がりだった。空気は乾燥しており、寒さもコートを羽織れば十分だった。
篤は彼なりに、今抱えている問題への対処法を組み上げていた。彼は休みの間、あらゆる事をやった。信伊奈が薦めていたスポーツや読書、映画も試してみたが、いずれも駄目で、坂本詩音殺害の際に去来した情動と、黒江雫の死にたがりが頭にまとわりついて離れなかったからだ。
坂本詩音については、無計画で個人的な殺人であった。特段、殺し方が変わっていたわけではない。もっと血みどろな方法で魂を回収した経験もある。
ならばどうして自分の感情は、坂本詩音を殺した時に蠢めいたのだろう。容姿も関係ない。では彼女とこれまでの殺人の違いは何なのか? それは起点が黒江雫という別人にあることだった。そもそも彼女の魂を回収できなかったために、篤は路地裏での行動に走ったのだから。
何より雫が篤に殺しをせがんだせいで、あの時既に篤の中の常識を覆っていた殻が壊れてしまっていた。命乞いしない人間もいる。それを知ってしまったために彼は、感情移入してはならない雫に関心を抱いてしまった。そんな歯車がずれた状態では、獲物を手にかけることは難しい。篤はターゲットを人間だと思ってしまった。その相手の過去や生活を無意識のうちに案じてしまう。それが篤に湧いた、坂本詩音への疑問の正体だった。
そこで篤は考えに考えて、従来の、ターゲットを人と思わないようにするにはどうするべきかを突き詰めていった。そして行き着いたのは、雫という存在からの逃避だった。とにかく、彼女を忘れることだった。篤が抱える問題のきっかけを作った存在。それが彼女なら、問題と一緒に闇へ葬ってしまえばいいと。答えを求めても彼女はそれに応じなかった。ならば問いごと消せばいい。そうすれば悩みはなくなる。
どの道失敗が明らかになれば、すぐにでも別の社員が新たに任務を受諾して、彼女の魂を回収に向かうだろう。それをただ待ち、事が済んだら忘却していけばいい。幸い大倭通運には、トラウマをも魔術で治療できる医者が山ほどいる。彼らに頼めば時間に任せるより数十倍も早く、この問題から抜け出せるだろう。そう、身を任せるだけでいい。
「――あ、やっぱり篤さんだ」
絶対に上手く行くさ。篤はビル群の隙間を縫う道にて、背後から黒江雫に声を掛けられるまでそう信じていた。
「ねえ、篤さんでしょ」
「……っ……」
決して振り返らず、篤は競歩じみた速度でその場を離れていく。
「待ってよ篤さん、止まってよ」
相手にしては駄目だ。関わっては駄目だ。これ以上、踏み込んでは駄目だ。
そうやって、距離を置こうとする篤。だが相手の執念は、彼の意志よりも強かった。逃げる篤に追い付くべく走り出した雫は、彼の裾を思いきりわしづかみにして引っ張りはじめた。
「今日は誰も殺さないの? ねぇ、いつになったらまた私を殺しに来るの?」
大声でわめき始めた彼女と、そんな彼女に掴まれている篤に往来の視線が集まる。
「いい加減に――」
根競べに負けた篤の表情が余程気に入ったのだろう。雫は相好を崩した。
「やっと見てくれたね」桜色の唇、その隙間から美しい歯が覗いた。
「大勢の人がいる場で、なにを言ってるんだ。迷惑だ……」
篤が死力を尽くしてひねり出せた言葉はこれだけだった。こんな一般論しか口にできなかった。
「迷惑かけられたくないなら、こっちへ来て。いっしょに歩こう」雫は篤の裾から、彼の手へと持ち替えた。「抵抗は……してもいいよ。腕力ないから、逃げるのは簡単だと思う。でも、しないでほしい」
「……」
「いこっ」
答えられなかった篤の様子から勝手に「無抵抗」と判断した雫はぐん、と手を引っ張った。
彼はまだ起こっていることが現実だとは思えなかった。
篤と雫は、街をただ歩いていた。目的地はなかった。雫が手を引いて走ってきたのも、彼女の大声で惹いてしまった注目を解消したいがためだったらしい。
「……どうして」
篤の声が漏れた。彼がハッとなって横を見ると、光をたたえた雫の瞳と目が合った。
「今日は、なんでもきいて」雫は言った。「それに、命の駆け引きをした間柄でしょ。私達って」
しかし口にしかけた言葉を飲み込んで、篤は別の事を言った。
「どうして……俺と君はこうも出くわしてしまうのか、って思っただけだ。君を探してるわけでもないのに。こんな広い街で、なぜたった二人が意思疎通もなしに遭遇できる」
「私は、ずっと探してたよ」雫は足元を指した。ファッションに凝る若い女性とは縁遠いスニーカーには、泥や擦った跡があった。「底はほとんどすり減っちゃったけれど」
「……俺を探していたのか?」
「おかげで健康的な日課ができたよ。ほら、このまえカフェで会ったときは、お互い心の準備ができてなかったでしょ? 私としても心の整理が必要だったんだ。時にはなにかの問題についてじっくり考える時間が必要だ、って分かってくれるよね?」
身に覚えがある篤はつい頷いてしまった。雫はでしょ、と笑った。「それで一晩寝ずに考えて、あなたに会いに行こう、って思ったんだ」
「どうしてだ」篤は下を向いた。「俺は君を殺そうとしたのに」
「あなたが私を殺そうとしたからよ」雫は篤の方がおかしい、とでも言いたげだった。
「なぜ」
「ねえ、篤さん」声を張って雫は篤を見やった。「こうやって道端で裁判するのも悪くないけど、私、あなたとそんな会話はしたくない。そこで一つ、提案をさせてほしいの」
まだ引き返せる。だが心に吹いた新しい風を、蕾が芽吹き始めた大地を掃ってしまうことは忍びなかった。しかしその風景は霞んでいた。霧に覆われて、遠く彼方にあった。それでも不快さとは縁遠かった。
「提案って?」
雫は破顔した。
「デートして」




