12話 『空のコーヒーカップ』
「やっぱり、あの夜の」
黒江雫は、私を殺そうとした人、とは言わなかった。驚いてはいるが怖がるそぶりはなかった。そればかりか少し嬉しそうでもあった。
「なんで」と言いかけて気づいた。黒江雫の生活パターンにこのカフェの名前があったことに。篤は思わず舌打ちをする。潜在意識に組み込まれでもしていたのか、惹かれるように選んでしまっていたらしい。
どうであれ殺し損ねたターゲットに会ってしまった。会いたかったのは事実だが、向こうから接触してくる想像はなかっただけに篤の動揺は大きかった。
篤は身構える。通報されたり、騒がれるかもしれない。彼女の一挙手一投足に注目した。
しかし彼女の取った行動はまたしても篤の思惑を裏切った。
「座っていい?」
そういって篤の隣の席を指さす。店内にはぽつりぽつりと座る余裕ができていて、篤の隣の席もそうだった。
「あ、あぁ、どうぞ」篤の声が上擦る。
カップを載せたトレイを置き、微笑みながら雫は着席した。時間が経っても、彼女は篤が懸念したように騒いだりはしなかった。きわめて平静で、顔見知りと会った時のようである。それがかえって篤の緊張を増長させた。髪を耳元にかけ、彼女はコーヒーフレッシュ一つとガムシロップをたっぷり注いだ。その行為に篤が顔をしかめるも、彼女は意に介さず液体をしっかりとかき混ぜて飲んだ。
「はぁ」と満足そうに呟く。
コーヒーはブラック一択である篤には雫の飲み方が気に入らなかった。
「そんなに入れたら味が変わるだろう」
「おいしく飲めればいいんだよ。それに、甘いほうが好きなの」また一口すすった。「ここには、よく来るの?」
「……いいや、今日が初めてだ」
「そう」と雫が答えると彼女は黙ってしまった。篤はなにから話すべきかと思案する。いきなり「なぜ私を殺してと言ったんだ」と聞くわけにもいかない。かといって世間話から始めるのも違うな、と思った。そうやって彼が長い間話題の切り口を迷っていると、雫はカバンに手を入れて一冊の本を取り出した。ブックカバーをかけておりどういった本なのかはわからない。雫はパラ、と本を開き、しおりを置くと読書の世界に入っていった。
なんて図太い女だ、と驚きを超えて呆れる篤だが、すぐにそうではないことが分かった。彼女は読書をするふりをして時折ちらとこちらを伺ってきた。向こうも話の切り出しに困っているようだった。実際に彼女は五分近く頁をめくらなかった。
二人の沈黙は、雫のカップが空になるまで続いた。
「今日は……」雫はカップを置いた。「殺さないの?」
「え」と驚く篤。どう答えるべきか分からず、曖昧な言葉が飛び出た。「今日は、そういうのはない」
「そういうの?」と首を傾げる雫。「じゃあ、いつ殺してくれる?」
このまま彼女と話を続けていればいつか周りの人間に聞かれる、と篤は焦った。プライベートで目立つことは避けたい。相手が相手だけに尚更だ。だから篤は自分の疑問を早々に解消し、この場を立ち去ることを選んだ。
「教えてくれ。なんで君は死にたがるんだ?」
「私が訊いてるんだけど」
「君が答えれば俺も答えよう」
「そういうの、ずるくないかな」
「公平な取引だ」と篤。「レディファーストでもある」
「誤用だね」
そういうと雫は本をカバンにしまい立ち上がった。
「予定があるから、今日はこれで。えっーと……」 と頬に手をそえる。「あなた、お名前は?」
「……関堂篤」
「またね、篤さん」
「あ、おい」
篤の存在など忘れてしまったかのように黒江雫は真っすぐに店から出ていった。




