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私の声に反応するようにその影は少し揺れてから、ためらいがちにその一歩を踏み出した。月の光が、その影の中に人の形を浮かび上がらせる。そこにいたのは。
月光そのままの淡いブロンド、きっちりとした黒い服装に包まれた細い肢体。いくぶん幼さを残した、彫りの深い整った顔立ち。深く澄んだ濃い青の瞳の中にたたえられた、強い誇り。
一目見て分かった。吸血鬼の一族だ。
ぱしゃん。
とっさに私は、水の中に隠れた。
「おい」
水面下にもぐりこんだ私に、その吸血鬼は尊大な声で呼びかける。
「人の顔見て逃げるとか、失礼だろ。出て来いよ」
見上げると、水面に吸血鬼の顔が揺らいでいた。彼は、水面ぎりぎりまで近づいて中を見下ろしている。
偉そうな言葉とその態度。これだから吸血鬼って……。
けれど。
月の光の中に見えたその若い吸血鬼の表情が、少し気になった。
泣きそうな、顔。
ぷくん。
水から目だけ出す。
「心配するな。いきなり取り込んだりしないよ」
ほつれた前髪が、はらりと額にかかった。まつげの長い瞳に、気の強そうな微笑が浮かんでいる。
「何か用?」
「お前……」
すこし吊り上った目を瞬かせると、あきれたようにその吸血鬼は言った。
「精霊のくせに、ずいぶんな態度だな」
「気に入らないんなら、とっとと帰れば?」
失礼な態度をとっているのはわかっている。でも。
おそらく、見られてしまった。泣いているところ。……も、恥ずかしいったら。
私の態度を気にするでもなく、その吸血鬼は言った。
「今、歌っていたの、お前か?」
私は、さらに眉間のしわを深くする。
それも……聞かれてたの。
「そうよ」
「他の精霊じゃなくて?」
「私」
だって、他の精霊なんて、ここにはもういないもの。
「……なあ」
ぽつり、とその吸血鬼は言った。
「もう一度、歌えよ」
「はあ?」
歌えって……
む、とする私に構わず、その吸血鬼は水際に腰を下ろしてしまった。
「ほら」
「なんで」
「僕が、聞きたいからだよ」
「だからってなんで私が」
「……聞かせろよ」
その吸血鬼は、片膝をたててそこに頬を乗せると、目を閉じてしまった。
勝手に決めつけたその吸血鬼に、無性に腹が立った。
でも、口調はきついけれど、月に照らされたその姿は、やけに儚い。
わずかに逡巡してから、私は水面に座り込んだ。月を仰ぎ見る。
細い音が、私の口から流れ出した。
遠く離れていった愛しい人を恋うる歌。二度と会えない。それでも、想いは捨てられない。苦しくて、でもその苦しさすらも愛する人の与えてくれる甘い痛みなら、私は喜んでこの痛みを受け入れよう。あなたを忘れないために、この胸よ、ずっと痛み続けて。
そんな悲しい歌。
今夜の月があんまり青くさえていたから、少しだけ、感傷的になっていたのかもしれない。姉妹たちがいた頃のことを思い出して……え?
何気なく視線を向けた若い吸血鬼に、目を見張る。
閉じた二つの目から、透明な涙が流れていた。
きれいな、涙だった。声もなく、ただただ、白い頬を流れ落ちていく涙。
歌うことも忘れて、しばしその姿に目を奪われる。
直感だった。
彼も、きっと独りのさみしさを知っている。
止まってしまった歌声に、その吸血鬼は不審げに顔をあげた。目が合う。
見つめあったまま、しばらくは二人とも動かなかった。
この人……
と。はじかれたように、その吸血鬼が立ち上がった。ぐい、と片手で乱暴に涙をぬぐう。腕の下に見えるその顔や耳が、うす闇の中でもわかるほどに真っ赤だった。
「あ……」
そのまま中空に飛び上がった彼につられるように、私も立ち上がる。
「今度来るときは、もっとちゃんと歌えよな!」
顔だけ振り向いて言うと、彼はすごいはやさで闇に消えていった。
その姿を、あっけにとられて見送る。
な……なんなの、今の。
勝手に歌わせて勝手に消えて……これだから吸血鬼は!
今度……って、今度来たって、もう歌ってなんかやらないから!
約束と呼ぶにはあまりにも淡い響きを持つその言葉を抱いて、私は水の中に飛び込んだ。
それが、アルと私の出会いだった。
第六章おしまい。次、七章は、過去編(?)になります。




