其の六
風が、濃い緑の木々を揺らして去って行く。
空は澄み渡って心地よい気候の中、桂城は来た時の心の強張りが嘘のように解け、清々しい気持ちで山道を下っていた。
「ああ、そうだ」
ふと立ち止まり、なんとなくずっと手に持ったままだった可愛らしい桜色の巾着を、目の高さに掲げてしげしげと眺める。
中身は、先ほど子供たちが食べていたのと同じ草饅頭だ。食べて行く時間がないなら手土産にと、結迦が包んでくれた。返さずに戴くのは申し訳ないような愛らしい巾着の柔らかな色は、若き孤高の魔術師がようやく辿り着いた、ささやかな幸せそのものを現しているかのようだ。
桂城はそれを、一度平たい岩の上に置くと、ザックを下ろし、潰れないよう大事に一番上に詰めた。
荷物の上にちょこんと乗った巾着を見つめ、ダリュスカインの言葉を思い出す。
『ただ……このエディラドハルドが平和であればいいと、思うだけです』
<エディラドハルドの平和……か>
イリユスの啼義の元にも、長男の誕生があったと聞いたのは、昨年だったか。もちろん直接ではなく、地域で発行されている瓦版と、人々の噂で知ったのだが。
<いつか──ダリュスカイン殿と啼義様が、もう一度顔を合わせる日が来たなら>
可能性はゼロではない。この大陸の安寧という同じ志を抱いている今なら、前とは違った関係が築けるだろう。
だがそれを繋げるのは、もう自分の役割ではない。
全ては、風の向くままだ。それがどう吹くのかなど、何年生きても予測はつかず、ましてや意のままになど操れるはずもない。どんなに富や名声を得ても、翻弄できぬ出来事に見舞われることはあり、飲まれる時は飲まれてしまうのだと、逆に身に沁みるばかりだ。
人生は、思うようになど行かぬもの。荒波が迫り来る時も、怯むことなく向き合い斬りこんで行くしかなく、しかし振り返ってみれば、実によく仕組まれている。時に皮肉に、時に優しく。
<まだ、楽しみが増えるとはな>
靂を見送り、啼義の行く先を見届け、自分の人生にこそ、もう何も期待するようなことは残っていないはずだった。ここに来るまでは。
この先、啼義やダリュスカインの子供たちが育っていくであろう未来──新しい世代の者たちが手を取り合い、一度は荒れかけたこの地を、再び希望の光で満たしていく明日が、桂城には見える気がした。
そして──ダリュスカインが言ったように、あの時命を放棄しようとした靂を引き留めたことは、必ずしも間違ってはいなかったのかも知れないと、今は思える。
靂にとって、あの先の人生で啼義に出会い、共にした時間は、決して無意味ではなかったはずだ。その命を次に繋げられたことは、あるいはそれも本望だったのかも知れない。己の望みは、確かにこちらでは叶わなかったのだが。
<今頃、お幸せだろうか>
一人、空を見上げる。
ずっと苦しかったであろう靂の立場を思うと、あらゆるしがらみから解放され、やっと、姫沙夜と共に心置きなく過ごしているなら、これ以上の喜びはない。
じき、自分があちらに行った時は、居心地が悪くなるくらいに惚気られたらいい。
<あまりにお熱いと、妬いてしまうかも知れんがな>
そんなことを思う自分が可笑くなって、桂城は少しばかり声に出して笑った。
でも、そう考えたら寂しくはない。気づけば、両親はもちろん、親しかった仲間や友人も、何人かはすでにあちらだ。あっちもこっちもと、行ったり来たり出来ないのが惜しい。
まあ、もう自分もいつお呼びがかかるか、分かりはしない。その時が来たら行くまでだ。それまでは。
「さて」
水筒を煽ってから、ザックを背負い直す。
今からなら、日暮れ前に麓の砂來に辿り着けるだろう。そこで、あの評判の結界石をいくつか頂いて、故郷のカバラへ持ち帰ろう。あの双子たちの玩具代くらいはなるだろうか。
「靂様。私は、もう少し先まで見てから参りますゆえ、まだかと怒らずにお待ちくだされ」
桂城は揚々と呟くと、再び、しっかりとした足取りで歩き始めた。
<了>




