第十六話 異常値
カーテンの隙間が、わずかに青い。
まだ朝というより夜に近い。
部屋は静か。
エアコンの音だけが続いている。
茂は動かない。
搾り取られたみたいに天井を見上げて、ぼそりと言う。
「もうなにも出ない」
ユイが吹き出す。
「もしかしてさ、警察で自分でしてた?」
茂は一瞬で固まり沈黙が落ちる。図星だった。
ユイは目を細める。
「やっぱり」
茂は視線をそらす。
「……」
「なら言ってくれれば良かったのに」
肩を軽く叩く。
「無駄に頑張らなくていいのにさ」
茂はまだ視線を戻さない。
トーストの焼ける匂いと、コーヒーの湯気。
茂はゆで卵の殻を無言で剥いている。
ユイは向かいでトーストをかじりながら言う。
「午前、フィットネス行くけど」
コーヒーを一口。
「茂も来る?休みでしょ」
「なんで」
「体重とか、ちゃんと測れるよ」
さらっと言う。
「ジムの体組成計、ちゃんとしてるし」
茂は卵を半分たべた。
「……」
「気にならない?」
ユイが笑う。
「20キロ増えたとか言ってる人」
茂はコーヒーを飲む。
「行く」
ユイが満足そうに頷く。
「じゃ、準備して。体験で入れるから」
ジムは駅から少し離れたビルの三階。
ガラス張りの入口の向こうで、朝の光がマシンの金属を反射している。
ユイは慣れた足取りで自動ドアを抜けた。
「おはようございます」
受付に声をかける。
顔なじみらしく、スタッフがすぐに笑顔を向けた。
「おはようございます、ユイさん」
ユイはバッグから会員証を取り出す。
「今日は同伴で一人、体験いけます?」
「はい、大丈夫です」
視線が茂へ移る。
軽く会釈。無言で頭を下げる。
「こちらにご記入お願いします」
タブレットが差し出され、ユイが横から覗き込む。
「名前だけでいいから」
茂は指で画面をなぞる。
静かな空調音。遠くでランニングマシンのベルトが回る音。
「ロッカーは向こうです。初回なので簡単な説明しますね」
スタッフがカウンターを出る。
「ロッカーはこちらです」
ユイが振り返り、少し笑う。
ロッカーへ向かう途中、ストレッチエリアの前を通る。
壁一面の鏡に、並んだ二人が映る。朝の光がまだ柔らかい。
更衣室は奥。
カードキーで開く扉が、短く鳴る。
中は白い光。ロッカーが整然と並び、消毒液の匂いがわずかに漂う。
ユイは迷いなく奥へ歩く。
「私はこっち」
軽く手を振る。
「終わったらあそこね」
茂は頷く。
ロッカーを開ける音が重なる。金属の響き。
周囲では数人が静かに着替えている。誰も会話はしない。
茂はバッグを置き、シャツを脱ぐ。
空調が肌を撫でる。
無意識に、腹へ視線が落ちる。
変わった自覚はない。数字だけが増えた。
更衣室を出ると通路の先、給水機の前でユイが待っている。
髪をまとめながら言う。
「先にちょっと走るね」
ユイはルームランナーに乗る。
茂は隣のそれに乗った。
機械音とともにベルトが静かに回り始める。
最初は歩き。ゆっくり速度が上がる。
三分。
呼吸が整う。
五分。
ユイの額にうっすら汗が浮く。
「……よし」
速度を落としながら、ユイが横目で茂を見る。
「測る? 今なら空いてるよ」
茂は速度を落とすボタンを押し、
ゆっくり減速するベルトから無言のまま降りた。
体組成計はマシンエリアの隅。白いパネルが光っている。
ユイが先に立つ。
「裸足ね」
軽く言う。
表示が待機状態から切り替わる。
数字がまだゼロのまま、光っている。
茂は体組成計に乗った。
素足が金属板に触れると電子音が鳴り、数字が走り始める。
体重―― 83.4kg
ユイの眉がわずかに動く。
「……」
表示は止まらない。体脂肪率、骨格筋量、内臓脂肪レベルが順に確定していく。
静かな機械音だけが続く。
茂は表情を変えない。数字だけが、冷たく確定していく。
電子音が止まり画面が確定する。
体重 83.4kg
体脂肪率 6.1%
骨格筋量 47.8kg
内臓脂肪レベル 1
「……は?」
画面を覗き込み、指で数字をなぞる。
「これ、体脂肪6%って……」
視線が茂の腹へ落ちる。
腹筋は割れている。だが、コンテスト体型ではない。
「筋肉量……47って」
声が小さくなる。
「アスリートの数値だよ」
茂は無表情。
「そんなに変わった感じ、ないよね……?」
ユイは笑えない。
「これ、数か月で増える数字じゃないよ」
「バグじゃないよね?」
画面をもう一度確認する。
「83キロで脂肪6%って……」
言葉が途切れる。ユイが画面を見たまま言う。
「血圧もやっとく?」
茂は何も言わず、隣の測定椅子へ移動する。
腕を差し込むとベルトが巻きつき、機械音とともに圧がかかる。
ユイは横で腕を組む。
「じっとしてて」
電子音がして表示が出た。
最高血圧 158
最低血圧 52
脈拍 41
ユイが固まる。
「……ちょっと待って」
画面を二度見る。
「脈、41?」
茂は表情を変えない。
ユイの声が少し低くなる。
「これ普通じゃないよ、アスリートか、病院行くレベルだよ」
茂は腕からベルトを外す。
「普通だろ」
ユイは笑えない。
「普通じゃない」
ユイがマシンエリアを見渡す。
「握力、測ってみる?」
端にある簡易デジタル握力計を取り、渡した。
茂は無言で受け取り右手で軽く握る。
ピッ。
表示 82.6kg
ユイが目を瞬く。
「……え、待って」
もう一度。今度は少し力を込める。
表示 91.3kg
ユイが固まる。
「100キロ近いんだけど」
「壊れてない?」
左手――89.8kg
ユイの視線が数字に張り付く。握力計を見つめたまま言う。
「もう一回、本気で」
茂は何も言わず握る。静かに。
ピッ。
111.2kg
ユイが息を止める。
「……ちょっと待って」
表示が揺れない。
もう一度。
112.1kg
周囲の音がやけに静かになる。ユイが小さく言う。
「112って……」
声が出ない。
左手――109.9kg
ユイは握力計をひっくり返して見る。
「壊れてないよね?」
茂は腕を揺らした。何でもない顔。
ユイがマシンへ歩く。
「じゃあ、背中」
ラットプルダウン。
100kg――引く――軽い。
120kg――引く――フォームが崩れない。
140kg――重りがぶつかる音が強くなる。
周囲の視線が集まる。
茂は呼吸を乱さない。
160kg――フルスタック。それでも、引き切る。
金属の衝突音。
ユイの喉が鳴る。
「……それ、上限だよ」
茂はゆっくり戻す。まだ余裕がある。
ユイは無言でプレートを取りに向かった。
「補助で足せるから」
プレートを乗せる。
180kg――茂が引く。
一度――二度――三度。
金属が軋み、マシンの支柱がわずかに震える。
周囲の空気が変わる。ユイの声が低くなる。
「茂……」
ユイの顔から余裕が消える。
「それ、プロの数値だよ」
茂はバーを戻す。息は上がっていない。
呼吸は変わらない。それが異様だった。
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