第47話 職域の外側
それは、すでに三重に引かれていた。
歩道と車道を分け、その奥でもう一段、余白を取る。赤色灯は回っていないが、無線の音だけが切れずに続いている。
警官の数が多い。
立っている者、歩いている者、誘導している者。誰も前に出ない。全員が、外へ向けて動いている。
「こちら通れません」
「店、閉めてください」
「裏へ回ってください」
声は低く、怒鳴りも急き立てもせず、ただ人を遠ざけていた。
規制線の内側、交差点の奥に、黒い塊がある。
鹿に似た体型だが、肩が異様に高い。首は短く、頭部が重い。枝分かれした角が左右に張り出し、標識の高さで空間を塞いでいる。
区分を当てるなら、大型より上だ。
それ以上は、現場で測る意味がない。
距離は、まだ遠いのに大きい。
輪郭が荒れ、角の広がりだけがはっきり分かる。
害獣は動かない。
四肢は踏ん張るように開かれ、重さがそのまま地面に落ちている。呼吸のたびに胸郭が上下し、体重がアスファルトへ押し付けられる。
落ち着いているわけじゃない。
ここでは、動けないだけだ。
交差点が一つ止まる。信号が落とされ、警官が手で流れを変える。人も車も溜まらない。動線だけが、静かに書き換えられていく。
無線が短く鳴る。
「住民、残り二世帯」
返事は短い。
理由は言わない。言う必要もない。危険度は、もう共有されている。
救急車は来ていない、呼ばれてもいない。今は、片付ける段階じゃない。
規制線の外で、茂は立っていた。
声はかからない。名前も、立場も聞かれない。
「もう少し下がってください。避難中です」
声だけが飛んでくる。
それだけだった。
茂は半歩、位置をずらし視界が変わる。
人が減っていく速さと、害獣との距離が同時に見えた。
規制線の内側に、紺の車両が二台止まっている。
いつからあるのかは分からない。
ただ、今もそこにある。
側面に小さく白い文字。
県警本部の所属表記。警告色も、番号も目立たない。
業務車両としての最低限だけが残っている。
扉は開いていない。
閉じたまま、動かない。
その周囲に、人影がある。
散らばっているようで、位置は固定されている。
九名。
すでに配置についている。
全員、紺の戦闘服。
厚手で、光を吸う生地。
ブーツは土を噛み、同じ場所を踏み続けている。
待っている時間の長さが、足元に出ている。
顔は見えない。バラクラバ、ヘルメット、ゴーグルで完全に覆われている。
誰かの表情を読む必要がない装備だ。
銃は出ているが構えられてはいない。
だが、しまわれてもいない。
M700が二挺。
それぞれに観測手が付いて、二人一組で、同じ方向を見ている。
標的との距離は百を超えている。
一人はスコープを覗き続け、もう一人は周囲と端末を交互に確認する。
役割は入れ替わらない。
スコープ付きのM870《ショットガン》が五挺。
銃口は下むき。
照準器付きの時点で弾種は明らかだ。
銃は構えられていない。
だが、いつでも動かせる位置にある。
撃たない状態で、撃てる準備だけが整っている。
「距離、百二十」
低い声。
確認だけだ。
「背面、構造物。先、無人」
言葉は短く説明はない、すでに共有は終わっている。
誰も、今来た感じがしない。
ずっと、ここで待っていたように見える。
時間が流れている。
だが、この輪郭は崩れない。
無線の量が、少しずつ減っていく。
人の気配が薄れていく。
外へ出す動きが、終わりに近づいている。
さっきから、位置が変わっていない。
銃の角度も、そのままだ。
「まだだ」
低い声。
理由は、言われない。
無線が、短く鳴った。
言葉はない。
合図だけだ。
二つの銃口が、同時に跳ね上がる。
ずれていない。
重なっている。
距離、百十。
近すぎず、遠すぎない。
呼吸が、止まる。
息を止めたのが誰かは分からない。
だが、空気が止まる。
次の瞬間、
乾いた衝撃が二つ重なる。
音は一つに聞こえた。
鋭く、短い。
弾丸が空気を裂く音だけが、遅れて残る。
重さのある弾が、同時に届く。
衝撃が、内部で止まる。
害獣の胴が、沈む。
跳ねない。
逃げない。
衝撃が、内部で止まる。
皮膚が裂け、
中で何かが壊れる感触だけが、距離を越えて伝わる。
前脚が崩れる。
体重が、前に流れる。
踏みとどまる力が、もう残っていない。
重い衝突音とともに倒れた。
舗装が鈍く鳴り、質量だけが地面へ張り付く。
二挺の銃口は、下がらない。
観測手も、視線を切らない。
「倒れた」
短い声。
だが、終わりじゃない。
五人が同時に動く。
スコープ付きの散弾銃が持ち上がり、銃口は上を向いていた。
距離を詰めるが走らない。
歩幅だけが揃う。
害獣は、動かない。
だが、完全に止まってはいない。
距離が縮む。10、8、5。
一人が止まり、銃口が静かに頭部へ向いた。
一発。
至近の発砲音とともに、スラグの鈍い衝撃が叩き込まれる。
反応はない。
誰も叫ばない、確認だけが行われる。
銃口が下がる。一斉ではない、必要な者だけだ。
無線に、短い確認が入る。
発砲は止まった。
それだけで、十分だった。
空気が戻り、止まっていた時間が動き出す。
ここから先は、処理の段階だ。
撃つ役目は、もう終わっている。
発砲の反動が、空気の中にまだ残っている。
耳鳴りはない。だが、音が戻らない。
害獣は倒れている。
四肢は崩れ、体重が舗装に沈みきっている。呼吸の動きは見えない。
それでも、誰も近づかない。
銃口は下がったまま、構えは解かれない。
安全位置に戻しただけで、終わった扱いにはなっていない。
規制線は、そのままだ。
一本も外されていない。
警官は立ち位置を変えず、誘導も再開しない。
人を戻す声が、まだ出ていない。
無線が鳴る。
短い応答がいくつか返るが、内容までは届かない。
誰も大きな声を出さない。
誰も「終了」とは言わない。
言える立場の者が、ここにいない。
さっきから、立ち位置が変わらない。
観測手と狙撃手の視線だけが、外れない。
念のためじゃない。
手順だからだ。
終わったかどうかは、ここでは決まらない。
時間だけが過ぎ、秒針の感覚が戻ってくる。
風が一度角を撫でて、誰かがようやく息を吐く。
それでも空気は緩まない。
規制線の外側で、茂は見ていた。
倒れた害獣ではない。
人の配置と、動かない理由を。
ここから先は、数字と記録の仕事だ。
どの弾がどう当たったか。
どこで止まったか。
誰が判断したか。
ここに、自分の役割はない。
刺していない。
動いていない。
判断もしていない。
だから、ここに残る意味はない。
茂は、視線を外し規制線の向こう側へ、一歩下がる。
誰も止めない。誰も呼ばない。
現場は、まだ現場のままだ。
終わっていないが、始まりもしない。
背後で無線が鳴る、内容は聞こえない。
茂は振り返らず、歩き出す。
交差点を一つ越えたところで、空気が変わる。
現場の外だ。
何がどう記録されるかは、あとで届く。
今日は、それでいい。
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